「岩泉、もうすぐチャイム鳴るよ」
「……あー……」


ねみぃ。彼はそう言ってまた、欠伸をひとつ噛み締めた。触ったことなんかないけど、意外と柔らかそうな短い黒髪が揺れる。

ぐしゃり、後頭部を骨ばった大きな手でかき混ぜて、岩泉声にならない唸りをあげる。毎日の部活で疲れている彼は、それでも授業中めったに、居眠りをしない。「出るからにはちゃんと聞いとかねーと先生にも申し訳ねえだろ」と言われた時には、正論すぎて何も言葉が出なかったのを覚えている。


「……次、世界史だっけか」
「うん。その感じだと岩泉、起きてられないんじゃない?」
「あー……」

授業中ずっとうとうとするくらいなら、保健室のベッドで一時間寝てスッキリした方が、残りの授業に集中できるのだと岩泉が言ったのは、随分前のことだったと思う。

「………一時間だけ保健室で寝てくるから、先生になんか適当に、言い訳頼んでいいか」
「ん。いってらっしゃい」

彼のいなくなったその机をぼんやり眺める。前々回の席替えではわたしの斜め前、前回は後ろ、今は右隣。神様というのはどうしてこう、期待と高揚ばかり与えるのだろう。


───岩泉くん、最近、マネージャーの子と仲良いよね。

付き添いという建前でバレー部の練習を眺めながら、及川くんのファンである友人が隣で何気なく放ったそんな一言にさえ胸を抉られては、泣いてみたくなる。そんな積み重ねが、最近いよいよ堪らなくなってきたのだと気付いて、それでも我慢して彼の近くに居たがって。わたしはどうしたら、諦められるのだろう。



授業の終わりを告げるチャイムで、クラスの半数以上がまどろみから引き戻される。わたしだって何も無ければ、先生には正直申し訳ないけど、ぐっすりと眠ってしまっているだろう。

3色のボールペンで色分けし、きっちりと要点も書き込んだ自分のノートを眺めて、虚しさがちくちくと胸を刺す。写させてくれと岩泉に頼まれるだろうから。たったそれだけのことでこんなにも頑張ってしまう自分が、健気すぎて笑えた。





薬品だか何だかの独特な匂いが鼻をさす。10分間の休み時間も残り半分で、だけど教室に岩泉が戻ってくる気配がなかった。まだ寝ているのだろうか、運が良ければ寝顔が見られるかもしれないなあ。ついさっきまではそんな、単純な好奇心だったのに。ここに来る途中たまたま廊下で、あの子とすれ違うまでは。

閉まっているカーテンはひとつだけ。空間をしきるその布をノックするわけにもいかず、小さく声をかける。「いわいずみ」存外情けない響きに、胸が苦しくなった。やっぱり来るんじゃなかった、このまま教室に帰ろうか。そんなわたしの脆すぎる覚悟を捕まえるみたいに、ごそごそと布団やら何やらの擦れる音がして、すぐにカーテンが避けられた。

「……、みょうじか。つーかもう、休み時間か」
「うん、ごめんね、岩泉」

あの子じゃなくて。わたしでごめん。会話を成り立たせることも、そんな皮肉のひとつを言葉にすることもできなくて、ただ音もなく岩泉の肩を押した。寝起きだからか単に不意をつかれたからか、或いは両方かもしれないけど。とにかくあっさりとベッドに逆戻りしてくれた岩泉を見下ろすも、すぐにその顔は見られなくなった。

「みょうじ……?」
「ここ、鍵かけた、の。だからさ、」

一回だけ、相手してくれないかな。そしたら、諦められるから。

浅ましくって品のない台詞だと思った。嫌われたかもしれないと思うと心臓が痛かったけど、それでもいいやと思えるくらい、それくらい今の距離と関係は、息が苦しかったのだ。

視線は彼の鎖骨のあたりを行ったり来たり、哀れなほどに忙しない。男女の友情というものはきっと、どちらかがすこしでも綻んだら、それをそのままに関係を続けるなんてことは、きっとできないのだ。ぜんぶ崩れて、そうして残るのは、どちらかのぎこちない恋心だけ。そういう風に、できているのだ。

「……しねえよ」

分かっていた。筈、だ。岩泉がそんなやつじゃないことも、わたしが岩泉にとって、そんな存在じゃないことも。


「…………だよね。ばかな、こと、して、ごめ」
「え……、泣くなって、」
「ごめ、ごめん、ね」
「ちょ、待て。話聞け」

休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴っても、わたしの海に終わりはこない。止まらない涙を無理やり拭って、その間もずっと、あやまることしかできない。あのこになりたかった。あのこみたいに、なりたかった。

「いいか、取り敢えず落ち着け。あと、頼むから泣き止め」
「………っむ、り」
「……あー……じゃあ、黙って聞いとけ」

ゆっくりと起き上がった岩泉は、この場から離れようとしたわたしの腕を掴んで、座れと促した。ベッドに浅く腰掛けると、ぽんぽんと頭を撫でられてまた、涙腺がばかになる。優しくされてうれしい、優しくしないでほしい。矛盾ばかり告げるわたしの心のなかは、とにかく次に何を言われるのだろうと、岩泉の言葉を聞くのを怖がった。

「お前がなんで泣いてんのかはよくわかんねえけど。さっき、その、確かに、んなことしねえっつった。まあそんなもんは建前で、ぶっちゃけしてえけど。……けど、諦められたくもねえし、そもそもそんな形で手ェ出すのは違うっつーか……」

 から、あー、つまりだな、何て言やいいかわかんねえけど、俺は───……

決して早口ではなく、どちらかというとゆっくりと、ひとつひとつ確かめながら言葉にしてくれているけれど、それでもわたしはそれらを飲み込めない。それどころか、都合よく解釈しかけている自分に心底呆れる。

岩泉に見えないところで、ベッドシーツをくしゃりと握り締めた。どくどくと心臓がうるさくて、彼の声すら聞こえづらい。聞きたくないのは確かに本音だったけれど、なにも現実にならなくても。

「……聞いてっか」
「……きこえてなかった、けど」
「オイ」
「無理しなくて、いいよ。わたしもう大丈夫だし、できたら今まで通り友達で」
「っちょっと待て、そっからかてめえ……!」


顔を真っ赤にして声を荒げる岩泉をかわいいと思ってしまって、そこでようやくまともに彼を見ることができたと気付く。涙はいつのまにか零れなくなっていた。

「だって、岩泉は、あの、マネージャーさんがすきなんじゃ、ないの?」
「はぁあ?まじで最初から聞いてなかったのかよ……」
「一応、聞いてたけど。なんかわたしの良いように、聞こえたから」

顔はほんのり赤いままだけど、かわいらしさはもう少しも滲んではいない。まっすぐにわたしを見つめていて、視線を逸らすことを許してくれない。

「……すきだ。いつからとかはわかんねえけど、気付いたらお前ばっか見てた」

その黒い瞳が映しているのは、ずっとあのこだと思っていた。仲良く話しているのが、岩泉に笑いかけられているのが、羨ましくて。席が近くになったって、わたしたちの間にあるのはトモダチ同士の会話。わたしはずっとそう思っていたのに。

「そういう風に、見てくれたことなんて、ないんだって思ってた」
「そりゃこっちのセリフだっつーの」
「ていうか、ぶっちゃけ、って……、岩泉は、なんかこう、紳士なのかなって、勝手に思っちゃってた」
「お前……好きなヤツに襲えって言われて我慢できてんだぞ。紳士だろうが」

その言葉を聞いてやっと、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。

あーはずい、と耳まで赤く染めた岩泉を見て、きっとわたしの耳も頬も何もかも、同じ色をしているのだろうと思った。授業終了のチャイムの音はまだ遠い。この白い空間に真っ赤なふたりが居ることは、わたしたち以外まだ誰も、知らないのだ。




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