月9の恋愛ドラマならまだしも、シナリオも何もないスポーツの生中継を、焦がれるような瞳で見ている人間は、日本中にどれくらいいるのだろう。
バレーボール男子の日本代表は今や、とても高い人気と知名度を誇り、その華やかな外見や選出されている選手の背景も相まって、熱烈なファンがとても多い。高校の時に試合を見ていた私にとって、影山選手や日向選手が揃ってコートに立つ姿は、それはとても、胸を熱くするけれど。
一分でも一秒でも、少しでも長く見ていたくて、どんな表情だって見逃したくなくて、怪我をしませんようにと祈りながら食い入るように見つめて。悔いなく戦ってできれば最後にはどうか笑ってほしいなんて、そんなまるで恋のような気持ちになりながら、日本ではない蒼のユニフォームに身を包んだ、敵国のセッターを応援する女は、私の他にもいるだろうか。
及川徹に別れを告げたのは、2年前だった。真っ直ぐにひたむきに頑張る彼はとても眩しくて、私は自分という存在が、ひどく小さなものに思えた。私は徹がいないと寂しかったけれど、彼は私なんかがいなくても、バレーボールと、同じ志を持つ仲間がいれば、きっと大丈夫なのだ。
一度そう思ってしまったら、釣り合わないんだという気持ちに際限がなくなっていって、別れて欲しいと告げた。彼はあまり驚かなかった。私の態度や言葉から、なんとなく私の不安を感じ取っていたらしい。
頻繁にではないけれど、愛を囁いてくれる人だった。それは私にも伝わっていたけれど、ただ私が勝手に不安になって、及川徹から逃げた。重荷になりたくないなんて綺麗事は言いたくなかったのに、いざ本人を目の前にすると、言葉として出てきたのは間違いなくそんな一言だった。私は最後まで、徹に嫌われたくないと考える、自分本位な女だった。
試合は進み、ローテーションは回り、徹のサーブ。学生時代に熱心にルールを教えられたお陰で、スコア以外の情報だってすらすらと理解できる。徹は私に色々なことを教えてくれた。私が彼に残せたものは、何かあっただろうか。
ボールを回して、止めて、投げる。
そんな、彼のサーブのいつものルーティーンの中に、ほんの一瞬、左の手の甲を口元に近づける仕草があった。カメラは遠目にしか映ってはいないから確証もなく、きっと思い過ごしだろうと思ったけれど、次もその次も、たしかにその動作が律儀に挟まれていた。
気になって同じように左手をそっと口元に近づけてみて、ふと、何もつけていない左手の薬指に唇が触れた。
ああ、そうか。徹にはもう大切な人がいて、戦いをその人に捧げているのだと分かった。彼にとっての大切な武器の一つであるサーブを、大切な人に捧げているのだと気付いてしまえば、彼のサーブの度にリモコンで別のチャンネルの番号を押しそうになった。けれど、未練がましい私は結局最後まで、及川徹から目が離せなかった。
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フルセットまでもつれ込んだ日本対アルゼンチンの試合が終わったのは、時刻が22時を回った頃だった。最後に勝ったのはアルゼンチンで、彼が悔しそうな影山くんと握手をしているのがカメラに映って、ほんのちょっと目頭が熱くなった。
それを見届けてお風呂に入ったあと、ふとスマートフォンを見ると、数分前に着信があったことを告げる通知。『及川徹』と画面に映し出され、どくりと心臓が音を立てた。
2年間、一度も連絡しなかったし、向こうから連絡が来ることもなかった。こんな時間にわざわざ電話してくるなんて何かあったのかもしれないと、自分の中でわざわざ正当な理由を並べたて、発信のボタンをタップした。
私は試合を見ていない。何も知らない。明日の情報番組のスポーツニュースで、昨日試合があったことと日本がアルゼンチンに敗れたことを知るだけの女。ただかかってきた電話に対応しただけの元彼女だと、自分に言い聞かせた。
『もしもし?』
「……あ、もしもし。ごめん、お風呂入ってて、出れなくて」
『……久しぶり。まさか折り返しくれると思わなかった』
「何かあったのかと、思って。どうしたの?」
数回のコールのあとに聞こえた、ひどく懐かしい声。私はうまく話せているだろうか。声はいつも通りだろうか。色んなことが気にかかるけど、何せ2年ぶりなのだ。電話越しの声の些細な変化に気付かれるわけもないので、きっと気にする必要はないんだろう。
『何かっていうか、あー、………』
「もしもし? ごめん、聞こえなかった」
『何でもない。それよりお前、試合見てた?』
「……試合?」
『日本対アルゼンチン、やってたの知らないわけ? 非国民じゃん』
「っふふ、そこまで言う?」
『当たり前だろ。フルセットで超アツい試合だったのにさ。まあ俺の活躍でアルゼンチンが勝ったんだけど』
「……そうなんだ。お疲れさま」
見てたよ。知ってるよ。格好良かったよ。──彼女さんもきっと、喜んでるよ。喉から溢れそうなそれらを堪えて、社交辞令みたいな労いの言葉を伝えることしかできない。
『あー、まあそれは別によくて。……明後日、予定空いてたりしない?』
「……? 明後日……なんで?」
『……そこは、察してよ。日本での唯一のオフに、お前をデートに誘ってんだけど』
デート、という単語と、少し照れたような声。2年経ってもその声に心が乱されるのは、私の方だけなんだろう。懐かしさと切なさで胸の痛みが増して、自分でも訳がわからないくらいほど突然に、何の前触れもなく、涙が溢れた。気付かれたくないのに止まらなくて、電話の向こうから慌てた声が届く。
『は、え、なに、泣いてんの? 俺のせい? そんな嫌だった?』
「ち、がう、ごめ、」
『違わないでしょ。……悪かったよ。別に俺、悪いことしてないけど、一応謝っといてあげる』
違う。貴方が謝ることなんてない。デートに誘ってもらえて嬉しくて、だけど会ってまた好きになってしまったら、弱い私はまた不安に耐えられなくなる。その左手薬指を捧げた女性は、活動拠点であるアルゼンチンにいるのかなって、そう思ったら日本でのひと夜の逢瀬なんかは許容範囲なのかもしれないけど、そんなのは嫌で。
私はまだ徹が大好きだから、徹にも同じだけの好きを求めてしまう。それが申し訳ないと思う。
「明後日、なら、空いてるけど、……彼女は、いいの?」
『は? ……彼女?』
「いるんでしょ。サーブのたびに左手にキスなんて、そんなロマンチックなルーティーン、知らなかったな。彼女さん、きっと幸せだね」
わざとおどけて言うと、徹は随分驚いているようで、言葉にならない声をいくつか零した。私はと言えば、心臓が痛くて苦しくて、早く電話を切って忘れたかった。
「ごめん、余計なことだったね。そろそろ切、」
『っ、待って!』
慌てた声が大きく響いて、ほんの少しスマートフォンが揺れたような錯覚を起こした。基本的にいつも余裕で冷静な徹のそんな声は珍しくて、その声の端っこを耳にひっかけたまま、言葉を失う。
『俺、自惚れていい? お前が今日の試合見てて、あんなのにも気付くくらい俺を見てくれてて、俺に彼女いるのを嫌だと思ってるって、そんなの、期待するんだけど』
「……なに、が」
『結婚とかしてたら諦める。けど、してないだろ? もし彼氏いるなら、やっぱり俺の方が良いって言わせてみせる』
何を言ってるの。どういう意味。徹が放つ言葉の意味は分かるのに、うまく理解ができなくて、すらすらと述べられる言葉が吸収できずに積もっていく。
『俺は、あの高校時代からずっと決めてんの。持って生まれた才能以外、欲しいものを諦めるつもりはないから』
欲しいもの。それがまるで自分のことだと聞こえるそれが信じられなくて、相変わらず言葉が出ない。
彼女はもういるんじゃないの。私のことかもって期待するよ。勝手に不安になって一方的に別れを告げて、それでもずっと忘れられない馬鹿な私に、また手を伸ばしてくれるって。
『俺、まだお前のことが好きなわけ。この2年、一度も誰とも付き合ってない。超一途だろ。絆されてくれていいよ』
「……たし、も」
『え?』
「わたしも、すき。あの時、自分勝手なこと言って、ごめん」
『……お前、ほんとさぁ……』
呆れたような声に、大きなため息。それもあの頃と変わらなくて、また涙が溢れて、ついでに少し笑った。
デートの待ち合わせ場所や時間を決める会話は、まるでこの2年間の空白なんかなかったみたいに幸せで、すべて決まっても電話を切るのが名残惜しくて、また明後日会えると分かってはいるものの、なんとなくあのルーティーンのことが気になって。
「……ね、あれって、本当に薬指にキスしてたの? なんで?」
『この俺を盛大に振った彼女に向けてやったに決まってるでしょ』
「えっと、そうじゃなくて、あんなことしなくても、徹のサーブは元々すごいのに、なんでかなって……」
『あー……』
明確な答えを求めているわけじゃなかった。ただ、自分の力を信じて、努力して努力して代表にまで上り詰めた徹の、祈るようなあの仕草はすこし不思議だったから。
『……まあ、サーブっていうのはどんだけ練習しても、強いサーブを打とうとしたら、どうしてもミスは避けられないわけ』
「うん」
『だから、死ぬほど練習したら、最後は神頼みって、いうか……』
「うん……?」
だんだん小さくなる声と、珍しく要領を得ない言葉選び。それらの説明を頭の中で繋げてみようと、私は私で思考を巡らせていた、そのとき。
『……あ゛〜〜、だから! 俺の勝利の女神はお前だけだってことだよ!』
「……へ、」
『明後日遅刻すんなよ! おやすみ!』
捨て台詞のようにそう言って、プツリと切れた電話。答えになっているような、そうでないような言葉だったけれど、私の胸は温かくなって、心臓は忙しなくなった。
どうやら私はこの2年の間に、私の預かり知らないところで、彼の勝利を託された女神になっていたらしい。