ごめんな。わたしの視界が花巻先輩のTシャツでいっぱいになったときも、そして今も。彼はぽつりと、優しい声でそう呟いたのだ。この部屋からも借り物のこの服からも、たしかに彼の匂いがする。これが現実なのだと嗅覚が訴えた。

「我慢できるかなって、思ってたんだけど」

 それなりにやわらかいソファーに押し付けられた腕はどう足掻いても抜け出せそうにない力で固定されているけれど、すこしも痛くない。花巻先輩は優しい。後頭部に手を添えてからわたしの身体を倒したり、寂しそうにわらって謝罪の言葉を口にしたり、わたしのくちびるをいとおしそうに撫でたり。まるで勘違いを起こしそうになるのだから、その優しさは案外、残酷なのかもしれないなあと思った。


▽▲▽▲▽


 突然だった。たまたまコンビニで出会って、途中まで道が同じだからとなりゆきで一緒に帰路を歩いていたら、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。傘を持っていないわたしたちは当然、一瞬でそれなりに濡れることになる。俺の家すぐそこだから。そう言ってわたしの腕を引いた花巻先輩はいつも通りだった。掴まれたところに心臓がなくてよかった、なんて馬鹿なことを考えてしまうくらい緊張していた自分が、ほんのちょっと虚しくなったりもした。

 家に着くなり奥へと消えてしまった花巻先輩の背中を見ながら、取り敢えず玄関で突っ立っているしかなかった。スカートが水を吸って重たく感じたものの、人様の家でしぼるわけにもいかなくて、手持ちぶさたになる。そうしている間に再び花巻先輩が戻って来て、わたしにタオルとジャージらしきものを差し出してくれた。先輩は自分のタオルで、濡れた髪をがしがしと拭いている。部活のときに汗をかいている姿だって何度も見ているのに、胸がくるしくなるくらい格好よくて困ってしまう。

「そのままだと風邪ひく。俺の服貸すし、着替えるついでにシャワー浴びたら? ドライヤーとかも適当に使っていいから」

 うまく断ることもできず、お言葉に甘えてシャワーを借りた。そして、分かってはいたけど全くサイズの合わないジャージに袖を通す。ウエストはめいっぱい紐を締めて、袖も裾も何重にも折って、ようやく手足がでる。肩幅だってかなり違うけれど、一番上までファスナーを上げればなんとかなった。
 普段より間近に身長や体格の差を感じて、すこし顔が熱くなる。裸にジャージはまずいと、汗臭さなんかが気になったものの、部活の時に着ていたTシャツを中に着た。濡れた制服たちはビニールバッグに詰め込み、お言葉に甘えて、用意されていたドライヤーを借りた。熱風の吐き出される音で、いつもより僅かに早い心臓の音が掻き消える。髪が乾くころには幾分落ち着いていた鼓動に、すこしほっとした。

 花巻先輩にシャワーを借りたお礼を言うため、リビングらしきところを覗くと、着替えたらしい花巻先輩がわたしに気付いて、その切れ長の目をすこし見開いた。

「えと、すいません、ありがとうございました。ジャージも、あの、洗って返すので」
「………ああ、うん」
「……あっ、シャワー、先に借りてしまって、すみません……」
「………」
「花巻先輩?」

 てっきりわたしの後にシャワーを浴びるものと思っていたのに、先輩はソファーに座ったまま動かない。わたしから目を逸らして、その骨ばった手で短い前髪をかき上げて、目元を覆っている。何気なくソファーに近づくと、普段見えないつむじが見えてどきりとした。

「……あのさ」
「?」
「なんか、むり。ごめん」

 普段からそこまで饒舌とは言えない彼だけれども、それでもだいぶ口数の少ない様子に戸惑っていると、長い腕が伸びてすばやくわたしの腰を引き寄せた。ソファーに膝が沈んで、きしりと鳴く。花巻先輩の両手が背中と肩に回って、心臓が破裂するんじゃないかと本気で思った。
 わけが分からなくて、だけど現金なことに、先輩の腕の中にいるという現実がしあわせで。するりと背中を撫でられて、思わず身を捩る。すると長い長い溜め息が聞こえてきて、先輩はぼそりとなにかを呟いたようだったけれど、聞き取れはしなかった。

「……お前……、この下、なんも着てないの」
「な、え…!?着て、ますよ…!」
「……ホック。あと肩紐も」

 ないけど、という言葉を聞いて、息が止まった。言わんとしていることがようやく分かって、一気に顔に熱が昇る。咄嗟に離れようと身体を引いても、ひかえめに胸を押してもびくともしなくて、ほんのちよっとだけ怖くなった。
 いや確かに、わたしが悪いんだろう。だけどこんな風に密着することになるなんて、誰が予想できただろうか。着ていたものはすべて濡れてしまったからと、中にTシャツだけを着てジャージ姿になったことを激しく後悔した。

「……いじめすぎた、ごめん。でも、そういうの、男はみんな我慢できなくなるもんだから、気をつけた方がいい」
「………あの、せんぱ、」
「ごめんな」

 ずいぶんと苦しそうな、何かを噛み締めるような声を出す。理由は解らないけれども、彼を縛りつけている何かを、わたしが取り払えたらいいのにと思った。


▽▲▽▲▽


 さっき一度ぎしりと軋んだソファーにやさしく身体が横たえられるとすぐ、端正な顔がゆっくりと近付いてきた。それをぼんやりと眺めて、焦点が合わなくなるころにきゅっと目を閉じた。すこしカサついたそのくちびるがくっついて離れると、「抵抗、してよ」と溢して、花巻先輩はいっそう困った顔でわたしを見下ろす。

「………花巻、先輩、に、なら」
「え?」
「なにされても、いいです」

 心からの、本音だった。ずっとずっと、先輩だけを見ていたのだ。
 一年の国見や金田一は後輩としてかわいいし、渡や矢巾は自分と同い年なのに凄いなあと素直に思っていたし、及川先輩はものすごい努力家で、岩泉先輩は頼もしくて、松川先輩はああ見えて気配り上手で。みんな優しくて、だけどわたしの目はいつでも、花巻先輩ばかりを視界のまんなかに置いてしまう。
 言ってから恥ずかしくなって、自由になっていた右手で顔をかくした。軽い女だと思われたかもしれない。ほんとうです、小さくそう付け加えたら、そっと腕を外される。自分の顔はきっと真っ赤だ。だけど花巻先輩の頬もすこし赤くて、それだけでわたしは満たされた気がした。

 もしも勢いで身体を重ねてしまえば、今まで通りではいられなくなるかもしれない。だけど花巻先輩は優しいから。もしもわたしにそんな気持ちがなくたって同情や償いの気持ちで、わたしを傍に置いてくれるかもしれない。恋心は嘘じゃないのに、打算で塗り潰している自分はずるいなと思った。

「……その、何されてもいいっていうのは、俺だけ?」
「……はい」
「本当に?」
「ほんとう、です」
「……あー……」

 気付かれたくなくて、近付きたくなくて。でも気付いてほしくて、近付きたくて。先輩の唸るような声を聴きながら頭の中で色んな感情がばらばらになるけれど、結局わたしは臆病で、その上、欲張りだ。

「……あんだけ濡れたら、制服透けるし色々目に毒でさ」
「……すみません」
「だから、やばいと思って着替え、渡したんだけど。サイズの合ってなさが思った以上に逆効果だったっていうか」
「…………」
「…………悪い、ちょっと、頭冷やしてくる」


 いつもの冷静な表情はそこには無くて、いつもより遥かに饒舌な花巻先輩は、わたしの上から退いてすぐに背を向けてしまった。きっと軽蔑されたのだ、そう思って先輩がシャワーを浴びている間に帰ろうと考えた、けれど。

「帰るなよ、頼むから」

 先輩が振り向いて、見透かしたようにそう言うので、おとなしくソファーに座っておくこととなった。あんな瞳で懇願されて、抗えるわけがなかった。

 シャワーを終えてリビングへ戻ってきた花巻先輩に、「ずっと好きだった。俺と付き合って」と真っ直ぐな言葉をもらうのは、しばらく後の話である。




title by 英雄




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