及川徹という人間はいわゆるバレー馬鹿ってやつで、バレーがなくちゃ生きていけないと真顔で言ってもきっと信じられるに値する人間だ。生活のすべてをバレーに捧げていて、彼の身体の機能はすべてバレーをするためにあって、そんなことを友達に言ったら疑われるから言わないけれど、とにかく本当にその細胞全部で欲しがっている。バレーと、それからたぶん、バレーの才能を。

 高校の卒業式の日に、告白をした。同じ大学に進むことはわかっていたけれど、学部も学科も違うってことも知っていた。もう話す機会なんかないかもしれないと思った。だから及川に思いを伝えて、そして振られておかなければ、新しいキャンパスライフなんてものは送れないし、新しい恋もできない。そんな風に考えていた。
 「バレーを楽しそうにする及川が、ずっと好きだった。二年の時から、仲良くしてくれてありがとう」。及川は元々大きな瞳をまんまるにしてわたしを見ていた。だけど次に口を開いたときに発せられた「じゃあ、付き合おうよ」という及川の言葉に、元々特別大きくもないわたしの瞳までもが、あの時ばかりはきっとそれなりに大きく見開かれていたことだろうと思う。








「なまえ。したい」

 バレーの試合があった日は、よくわたしの家に泊まりに来る。お互い同じように一人暮らしをしているのに、わたしの部屋にはすこしずつ、でも確実に、及川の物が増えていく。わたしは及川の部屋には、一歩足を踏み入れたことすらない。

 シーツが波をつくる。身体のなかで熱がうねる。しつこくねちっこく、何度も何度も。決まって試合の後は、その結果が勝ちであっても負けであっても、こちらが本当に参ってしまうまで、抱くのをやめない。
 わたしの家でシャワーを浴びて、わたしの家でご飯を食べて、わたしの家でセックスをする。こんな見た目だから色々と細かい性格なんじゃないかと考えていたけれど、この及川徹という人間はなかなかに大雑把だった。爪を整えるその横顔だけは真剣そのものだけれど、それだけ。髪を乾かさないで寝ようとしたり、しわくちゃの服をお構いなしに着ようとしたり。
 それからほら、今みたいに、わたしのブラウスのスナップボタンがぷちぷちと荒い音を立てて、素早く外されたり。



「おまえってさ」

 シャワーを浴びる気力も無いくらいにぐったりとしたからだで、とりあえず下着を身に着けてシャツに腕を通した。とにかく身体のどこもかしこもだるいので、カラカラの喉を潤すのすら億劫だ。ボタンを一つだけ止めてぼんやりと言葉の続きを待ってみると、「……それ、誘ってんの」と文脈のない話題が投げかけられたので、わたしはようやく及川のほうを見た。おまえってさ、の続きではないことくらいは、回らないアタマでも解った。

「それ。俺のシャツだから」
「……あ。ごめん」
「……別にいい。そのまま着ててよ」

言われてみれば袖も何もかも明らかに余るそのシャツは二つほどボタンを止めただけの状態で、だけど脱ごうとしたわたしをシャツの持ち主である及川が制したので、なんだか不恰好なままである。何言おうとしたっけ、と及川は珍しく独り言を漏らした。

「……あ、思い出した」
「なに?」
「おまえってさ、……本当に俺のこと好きなの?」

 別れ話か何かかとなんとなく予感していたそれは当たらずとも遠からずといったところで、わたしは肺に胃に心臓に、小さな鉛が落ちるのを感じた。好きと言って、それで駄目にされるのだろうか。わたしは可愛げのない女だから、どうして及川みたいな人がわたしなんかを隣に置いたのか分からないくらい普通の女だから、それも仕方ないと言えるけれど。

「別れたいなら、そう言ってくれたらいいよ」
「……は?」
「別れたいんでしょ? 今までありがと」
「っ、ちょっと、聞けってば……!」

 がくりと肩を掴まれ、ベッドに引き倒された。わたしが着ている及川のシャツを返さなければならないと再びボタンにかかっていた指は、あっけなくシーツに縫いとめられた。ぼんやりと見上げた先に見えた及川は、なんだか苦しそうなカオをしている。

「お前、別れたいの?」
「……別れたいのは及川でしょ」
「なんでそうなるわけ」
「今のはそういう意味じゃないの」
「違う」

 違う。歯切れの悪い言葉から一転、及川ははっきりとそう言ってみせた。わたしは及川を見上げたまま、ただ息をするのを繰り返す。整った顔がすぐ近くにある。こんなに綺麗な顔をしているのに、バレーに対して貪欲で、色々と不器用で、それでいて素直だ。上手くなりたい、強くなりたい。バレーが好きだ、バレーが楽しい。言葉には表れないけれど、試合や練習を見ていれば分かる。わたしは、そんな及川が好きなのだ。

「好きだよ」
「は、」
「バレーが好きでバレーの仲間が大事で、それに一直線な及川のことが、たぶんずっと好きだよ」

 わたしが卒業式の日に告白をしたときのように、目を真ん丸くした及川は、みるみるうちに顔を真っ赤にした。その珍しい表情の変化に、わたしはやっぱりあの日と同じように、目を見開いたのだった。

「……お、まえ、普段全然そんな素振り見せないじゃん!」
「え?」
「俺の名前だって呼ばないし、試合の日程とかも聞いてこないし、お前の家で好き勝手してんのに文句も言わないし、わがままだってきいたことないし、」
「お、及川……?」
「……あーーー……カッコ悪……」

 及川がわたしの上に覆いかぶさるようにしてくっついてきたので顔は見えなくなったけれど、触れている部分がいちいち熱いような気がするから、きっと照れているんだろう。「なんでお前は俺と付き合ってられるのかなって思っただけなんだけど」と独り言みたいに呟く及川にさっき言われたことを、ひとつひとつ頭の中で整理する。好きだという素振りが見えない、と言ったその原因らしい4つのことを思って、すこし首をかしげた。

「名前で呼ばないのは呼んでいいのかが分からなかっただけだし、試合の日程なんかは及川本人に聞かなくてもすこし調べれば分かるから観に行けるし……、家で好き勝手されるのは及川がここで寛げてるってことだからむしろ嬉しいし、わがまま言いたいことが特に無いから言ってないだけ。ああでも、及川の家には一回くらい入ってみたいかも」
「……ちょっと待って。試合……」
「観に行ってるよ。こっそり行ってこっそり帰ってるけど」
「はあ!?」

 がばりと起き上がった及川の頬っぺたはまったく赤みはひいておらず、なんだか今日は珍しいことの連続だなあと暢気なことを思った。観に来るならそう言ってよ、と続いた言葉は正しくわたしの鼓膜に届いたけれど、まあもっともだと思いつつもわたしには、可愛げがないから。

「わたしみたいなのが及川の彼女だって、周りに知られたくなかったから」

 たぶんわたしの言葉を脳が処理した頃合いだったんだろう。すこし頬の赤さが残ったまま、だけど及川はぎろりと眉を寄せた。不機嫌というより怒ってる、いや拗ねてるって感じだなあ、なんて呑気なことを思っていた。すると、及川の指がわたしの着ている自分のシャツのボタンにかかった。

「及川、なにすんの、」
「うるさい」
「え、」
「俺の彼女は、お前でしょ」

 ボタンを開けられて露わになった、その鎖骨のあたりにゆるく歯を立てられた。そのまま唇が胸を辿って、やがて離れた。顔を軽くゆがめる程度にはびりりと走った痛みに、息がつまる。きっと痕が残っているだろうそこを、すこし硬くなった指の腹でなぞられる。その感触が、及川がバレーに懸けてきた証みたいで好きだった。

「バレーしかしてなくて、頭の中だってバレーのことばっかりで、すぐカノジョのこと放ったらかしにするてんで駄目な俺を間違いなく『好き』とか言った物好きが、お前なんだからさ。自分が俺のカノジョだって、堂々としてなよ。あとまあ家は、別に来てもいいんだけど。我慢しないよ、俺」
「………」
「あとついでに言っとくけど、お前のその、彼シャツ?すごい興奮する」
「は?」
「しばらくオカズに困んないね」

 欲情していますという表情をいつもより格段に隠さないのは、言葉にオブラートってものが欠けているように思えるのは、これはなんだろう。バレーをしているときのように楽しげにわたしを見下ろすその表情は、なんとなく自分に向けられるのがいたたまれないくらい、好戦的な色をしている。

「W普段はWバレーのことしか考えてないけど。こうしてる時はほんとに、お前のことだけ考えてるから」

 手の甲で頬を撫でられて、ぞくりと情欲が移される気がした。オカズ云々はこの際置いておくとして、一気に覚醒した思考回路で、及川、と呼びながらその胸板を目一杯押した。重力でも力でも勝る及川はびくともしなかったけれど、すんなり触れるのをやめて少し体を起こした。

「名前で呼んで。そしたら我慢できるかもよ」

 ああ我慢なんかする気ないんだ、と思った私の勘はきっと間違いではない。名前を呼んだら読んだで変にスイッチが入るくせに。そう思って諦めて、「徹」とごく小さな声で呟いた。照れくさそうに笑う及川徹は、その瞳の中の欲を隠し通せてさえいれば、間違いなく神様がやっと創った奇跡みたいな、完璧な人間だっただろうに、残念だ。




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