※主人×メイドパロ
※設定などふわっとしてますので軽い気持ちでお読みください








 許されない気持ちだと分かっている。絶対に叶わない思いだということも。

「おかえりなさいませ、悟様」
「ただいま」

 綺麗に微笑んだ悟様はよそ行きのスーツを着られていて、いつもより数段見目麗しい。今日は御三家を中心に集まる規模の大きなパーティーだと聞いたし、きっとたくさんの方の視線を集めたのだろう。それこそ、彼に見初められたいと思う綺麗な女性はきっと、両手の指では数え切れないほどいるに違いない。

 わたしは決めていた。今日をもって、この馬鹿な恋を終わらせる。二週間後の日付で退職届も用意した。この屋敷に仕えて5年。不毛な片思いを続けて、28歳となり適齢期を迎えた悟様がいつかどこかのご令嬢を奥様に迎えられることは想像に難くないのに、それだけで息がつまって苦しくなるほど心臓が軋むようになってしまった。これではきっと、純粋な気持ちで悟様を支えられない。

 悟様の私室へ招かれ、そのまま一歩離れてお着替えを待つ。ネクタイを緩めたその手には黒いハーフグローブが嵌められたままで、目元のサングラスと相まって何処となくミステリアスな雰囲気を纏っている。毎日お顔を拝見しているわたしですらそんなことを思うのだから、今日初めて悟様にお会いしたご令嬢はきっと、この綺麗すぎる五条悟という方に視線を奪われて、漆黒の奥にある宇宙を閉じ込めたような蒼の瞳や隠された指先なんかを見て、この方のことをより深く知りたいと思ったことだろう。

 考えても仕方ないことに思考を放り出していると、首元のネクタイを緩めジャケットを脱ごうとした悟様がぴたりと動きを止めた。脱いだものをお預かりしようと伸ばしかけた手が少し空を彷徨った。

「何か考え事? ずいぶん思い詰めた顔してるけど」

 表に出したつもりはなかったのに、感情の機微に聡いこの人の前ではあまり意味がなかった。この先の思いだけはどうにか隠さなければならないけれど。

「……少し、お話がありまして。お疲れのところ申し訳ございませんが、お食事など終わられましたら、少しお時間よろしいでしょうか?」
「なに? 今でもいいよ」

 思ったより早いタイミングで話すことになり、一瞬呼吸が喉元で滞ったけれど、細く深く深呼吸をして、正面からわたしを見据える悟様と向かい合う。
 ただの使用人であるわたしにも、こうして優しい言葉を選んでくださるところが好きだった。側仕えとなって3年、この悟様の私室へ呼ばれ、朝があまり強くない悟様を起こしたり、着替えの手伝いをしたり、朝食を食べたがらない悟様へ少し甘めのホットケーキやフレンチトーストを用意したりと、大したことのない仕事しか与えられていないわたしに、言われるがまま従うだけの面白味の無いわたしに、日々、柔らかな笑顔を見せてくださるところが好きだった。

「退職を、考えています」

 悟様の目が見られないまま呟いたそれは、思いのほか暗いトーンで響いてしまって、声が地面にぽとりと落ちたような気がした。沈黙が耳に痛くて、悟様の足元を見ることしかできない。

「何か、仕事で嫌なことでもあった?」
「……いいえ。皆様、とても良くしてくださっています」
「じゃあ、なんで?」

 教えて、なまえ。そう優しい声でわたしの名前を呼び、グローブが嵌められたままの指が、わたしの前髪を少しばかり避けて、耳にかけるような仕草をした。いつの間にかとても近くに悟様が立っていて、わたしは心臓が口から出そうだと、人生で初めて思った。

「結婚を、することに、なって」
「……へえ。おめでとう」
「……あ、りがとう、ございます」

 呼吸が浅くなる。分かっていたことだ。悟様にとって自分は、ただの使用人であるということ。御三家のひとつである五条家の当主、そんな方と並べるわけがないだろう。むしろ、悟様はわたしなんかの結婚に、お祝いの言葉をくださっている。それは十分すぎるほど凄いことであって、悲しむ権利なんかありはしない。

 結婚、は少し飛躍した話だ。正しくはお見合い。その為に実家に帰り、数名の見合い候補と会う。その中から一生を添い遂げる男性を選び、そのまま結婚する。好きでもない人と結婚なんて、と昔から思っていた。だけど悟様を好きになってしまってからは、好きな人と結婚できる人がこの世にいるんだ、なんて思うほどに、それが奇跡的な確率の話に思えた。

 わたしももう24歳だ。この界隈は女は早々に嫁に行くのが当たり前で、それは我が家も例に漏れずだ。行き遅れると両親に急かされている。五条家の分家の末端の生まれで術式も大したことのない、しかも女子など、嫁に行くしか家に貢献出来る要素がない。
 両親はある程度わたしの意思を尊重してくれている。しかし、このままたとえば30歳に近付けば近付くほど、貰い手は少なくなっていくこととお相手の選択肢が減ることを危惧しているんだろう。
 家族の親愛以外は知らない。誰かを好きになったことなんかなかった。だからこそ、初めて知ったこの恋が実るところを見てみたかったけれど。

「幸せになりなよ」

 貴方がいないところに幸せなんかない、なんて、そんな思い上がったことを言えたら、どれだけ。




「───なんて、言うと思った?」
「え、っ」

 ほんの少しの浮遊感、ほどなくして背中を受け止める柔らかい何か。目の前には天井と悟様が見えて、自分がベッドに寝ていてその上に悟様が乗り上げているのだと分かるのに、数秒かかった。逆光で表情が分からないけれど、さらりと揺れる銀髪は間違いなく彼のもので、それを理解してもなお混乱する。

「呑気だね。辞めていいよって簡単に言うと思ったの?」
「さ、悟様……?」
「結婚なんて、いつ決まったのかな。僕、知らなかったんだけど」
「あ、の、意味が、」
「僕から逃げられるなんて、思わない方がいいよってこと」

 その言葉を理解する前に、唇が塞がれる。それが悟様によるキスだということは、今度はすぐに分かったけれど。柔らかな感触が、時折離れてまたくっつく。言葉は少しの仄暗さがあったのに、そのキスはなんだか酷く優しいもののように思えて、涙で視界が滲んだ。ファーストキスがこんなにも突然で、幸せで、悲しいものとは知らなかった。

「……そんなに嫌だった?」
「………あ、の」
「結婚する相手がいるってことは、初めてじゃないんでしょ」
「……はじめて、です」
「え……?」
「嘘を、つきました。申し訳ございません」
「……結婚する、っていうのが嘘?」
「は、い」

 悟様は右手の指先を噛んでハーフグローブを抜き取り、わたしの目尻に指を添えて、ほんの少しだけ溢れた涙を拭った。その色っぽい仕草と直に自分に触れた体温に心臓が痛いくらい脈打つけれど、その何もかもの理由は分からない。
 悟様はわたしの首元に顔を埋めて、ごめんね、と言うその謝罪は、何を意味しているのだろう。上質なスーツとシャツの感触、そしてほのかに香る香水の香り。わたしはこの香りが好きで、だけど悟様の身支度をお手伝いしお見送りをするとき、この残り香に切なくなる。

 それが、今はこんなにも近い。いつもと違って、自分の顔が熱くてたまらない。切ない気持ちになるのは相変わらずだけど。

「は、離して、ください。謝る必要もありません。貴方は主人で、わたしはただのメイドです」
「……、でも、酷いことしたからね」

 悟様はわたしをより強く抱きしめ直し、静かに深く、息を吐いた。その息遣いがすぐ側で聞こえて、つい呼吸を止めてしまう。
 そもそも、男の人とこんなに距離が近いのは初めてだ。もちろんこの屋敷には執事だっているし、異性と話す機会はあるけれど、恋人なんかいたことがないわたしにとって、今までこんなにも心臓に負荷がかかることはそうそうなかった。はなしてください、ともう一度言ったそれなんとも頼りなくて、本当にわたしの声なのかと疑いたくなるような響きになった。

 悟様は密着した状態から身体を起こしてくださったけど、見下ろされる体勢はそのままで、頭がくらくらする。身体中の血液がそこに集まったんじゃないかってくらい、触れられていた場所が熱を持つ。

「結婚が嘘ってことは、仕事辞めるのも嘘?」
「あ、いえ……。結婚ではないですが、お見合いをする、ので」
「………ふぅん」

 思考が読み取りづらいその呟きは少し怒りや不機嫌の色を含んでいるような気がして、わたしの方が混乱してしまう。悟様は「どこの家の、何て男?」と静かな声で問いかける。親からまだ何も聞いていなくて何も知らないから、正直にそのまま答えた。

「で、なまえは結婚したいの?」
「……はい」
「本当?」
「本当、です」

 本当は悟様が好きで、悟様にとって唯一無二の特別な存在になりたいなんて、どの口が言えるだろう。

「好きな人が、いるんです。だけどその人とは絶対に、結ばれないから」

 だから誰でも良いなんてそんな浅ましいこと、綺麗なこの人の前では言いたくなかったけれど。

「……そう。好きでもない相手と結婚できるなら、僕とするくらい、いいよね」

 悟様がネクタイをほどいて、片方残っていた左手のグローブも外し、ベッドの下へ放り投げた。もう一度降ってきたキスは、明確にこれからの行為を予告するような、息もできなくなるほど深いキスだった。メイド服のボタンが早急に外され、悟様の手が、唇が、舌が、衣服で隠されていたわたしの身体を暴き、触れている。

 やがて初めて男性を受け入れたそこは痛みこそあれど、悟様と繋がっているというだけでもう頭が溶けそうなほどに心地よく、そして胸が締め付けられるように痛かった。

 朝起きたら、隣に悟様はいなかった。ぬくもりもない。朝早くからどこかへ出かけられたのかもしれない。ベッドサイドにあるテーブルには書き置きがあって、『おはよう。なまえは今日休むって執事長に伝えておいたから』と悟様の文字で書いてあった。少しばかり腰が痛いのでありがたくお休みをいただくことにした。

 衣服を整えて、シャワーを浴びようと自室へ向かう。今まで感じたことのない圧迫感と快楽とで朦朧とする意識の中覚えているのは、悟様の腕の中で、何度も名前を呼ばれたこと。一生分だと言われればそれを信じてしまいそうなくらい、何度も何度も、熱を孕んだような声で呼ばれた気がする。

 悟様にとっては他意のない、ただの気まぐれ。わたしに思い出をくださったのだろう。ここに居られるのはあと二週間ほどで、多忙な悟様の側に居られる時間は僅かだ。悟様に気持ちを気付かれたのかどうかは分からない。だけどもう何でもいい。初めてを好きな人にもらってもらった。その幸せだけを覚えておきたいのに、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。この体はままならないなあと思った。



▽▲▽▲▽



 二週間後、引き継ぎなども終え、住み込みでずっとお世話になっていた五条家を去る日。結局あの日の行為の理由や意味は分からないままだけど、それでも良かった。ただの気まぐれでも気の迷いでも、好きな人とのそれはあまりにも幸せで、自分には過ぎるほどの餞別だったから。

 今日は悟様はいらっしゃらなくて、お会いすることはできない。執事の伊地知さんにスケジュールを聞いた限りでは、今日はお見合いらしい。きっと、わたしなんかと違って、綺麗で才能のある素敵なご令嬢なんだろう。最後に会いたかったとは思ったけれど、離れ際に顔を見たら何かを見透かされそうだったし、これで良かったんだ。

「みょうじさん」
「あ、伏黒くん。お見送りしてくれるの?」
「あー、見送りっつーか、……」

 珍しく歯切れの悪い伏黒くんの言葉をおとなしく待つ。困ったような呆れたような不思議な表情で、「あんま詳しいこと言えねぇけど」と前置きし、少し言いにくそうに言った。

「……その、見合い、頑張ってください」
「ふふ、お見合いって頑張るものだっけ? ……でも、ありがとう」
「まあ、何かあったら力になるんで」

 6歳くらい年下だけど、今や悟様の右腕と言っても差し支えない伏黒くんは、希少で有用な術式を持ったすごい人だ。そして、ただの使用人であるわたしにも優しい。実は昔はとても彼のことが羨ましかった。たとえばわたしが伏黒くんのような優れた呪術の才能を持っていたら、まだ少しくらい望みがあったかもしらないから。才能だけではなくて過酷な特訓の末に身につけたものと知ってからは、ただただ尊敬の念だけを抱いているけれど。



 年に一度帰るか帰らないかだった実家は、久しぶりとはいえ見慣れたものだった。家の中に入るまでは。

「ただいまー」
「なまえ……! 遅かったじゃない、ほら早くこちらへいらっしゃい、」
「どうしたの、お母さん。帰る時間ならちゃんと連絡してたでしょ」
「と、とにかく早く。お待たせしているから……!」

 待たせる? わたしへお客様が訪ねてきたような口ぶりだけど、心当たりがない。もしや明日からのお見合いの相手が早めに来たりしたのだろうかとふと思って、少し重い気持ちで客間のドアを開けた。

「失礼します、………?」
「ああなまえ、おかえり。私服久しぶりに見た、よく似合ってるよ」
「は、え、悟様……?」
「僕以外に見える?」
「い、いえ……」

 平凡な我が家のさして座り心地の良くないソファに、あまりに似つかわしく無い優美なひと。何度瞬きを繰り返しても悟様に間違いはなく、だけど、夢かと思って軽く手の甲を摘んでみた。痛い。

 両親はいつの間にか居なくなっていて、悟様は「気を遣わせちゃったかな」なんて言っている。見合いでよくあると聞く「あとは若いお二人で……」なんていうのが頭に浮かんだけれど、わたしと悟様は決してそんな間柄ではない。では無いはず、だけど。

「さ、悟様、つかぬことをお聞きしますが、どうしてわたしの家に……? 今日はお見合いのご予定と、お伺いしたのですが」
「うん。お見合いだよ。だからご両親に挨拶しないとでしょ?」
「はぁ、……!?」
「なんか今日のなまえ、百面相っていうか、色々忙しいね? 見たことない顔ばっかりだ」

 嬉しそうな悟様に、貴方のせいだとそう言いたいけれど、それすら声にならない。そしてお見合いのくだりが理解できなくて、言葉が追いつかない。以前のパーティースーツよりもベーシックな、濃紺のスーツ。決して華美でもないのに輝いて見えるのは、きっと悟様だからだろう。
 悟様から目を逸らせないでいると、「そんなに見つめられると照れるね」と困ったように笑われた。たしかに見つめていた自覚があるので、何も言えない。

「ねえ。結婚、僕じゃダメなの」
「え……?」
「好きな人とは、絶対に結ばれないんでしょ。なら僕のことを好きになって、僕と結婚してよ」

 悟様は意志の強い瞳でわたしを捉えてそう言った。何が起きているのか分からない。あの時のキスも夜の行為も離さないという言葉も、今の告白のような台詞も。
 絶対に叶わないと思っていた。どうしてこんなにも自分とはかけ離れた高貴な人を好きになってしまったのだろうと、何度も思って、何度も諦めようとした。だけど仕事で側にいられることがどうしても嬉しくて気持ちを変えられなくて、うまく気持ちを捨てることもできなくて、だから自分から離れようとしたのに。

 涙で視界が滲む。今度は水の膜が張ってまもなくして、決壊した涙がみっともなく頬を濡らす。「そんなに嫌だった?」と、あの日と同じ言葉が鼓膜を揺らして、思わず首を横に振った。

「好きなひとが、いるんです」
「うん」
「初恋なんです。絶対に、実ることがない」
「……、うん」
「そのひとは、とても強くて、格好良くて、きれいな銀色の髪と、蒼の瞳をもって、いて」
「……は?」
「ずっと、ずっと悟様を、お慕いしておりました、っ」

 最後の言葉を言い終えると同時にがばりと抱きしめられ、あの香水の匂いが鼻をくすぐった。自分のものか悟様のものか分からないほど急いた互いの心臓の音が、今この状況が現実なのだと教えてくれる。

「……あークソ、何それ、じゃああの時、……」
「悟様、あの、離してくださ、」
「無理。オマエほんとふざけんな」
「す、すみません……」

 悟様はずいぶんと荒々しい口調になったけれど、それを怖いと思わなかったのは、その声がか細いものだったから。
 謝罪への言葉は返ってこず、ただ強く抱きしめられたまま時間が過ぎていく。わたしが煩い心臓が胸を打つ音を聴くのにようやく少し慣れてきた頃、悟様が何度か息を吐いて吸って、考え事をしていることに気付いた。吐息がかかってくすぐったい。それが恥ずかしいけれど、身を捩ってみたところで状況は変わらず、そもそも悟様に物申すことのできる立場ではないので、ただ静かに待った。

「……、じゃあとりあえず、戻ってきてくれるよね?」
「っ、でも、いいんでしょうか。一度辞めてしまったので……」
「それ受理してないし、あとメイドとして戻るんじゃないよ」
「え……?」

 顎を掬われ、顔が近付いて、そっと唇が重なる。本当に一瞬くっついて離れただけなのに、身体ぜんぶを抱きしめられていたさっきより、心臓が痛い。

「今日、お見合いだって言ったよね」

 情欲の見え隠れする獰猛な瞳が、いつも以上に青々と煌めいている。まさかあの日、肌を重ねたあの行為すべてが悟様の意思だったなんてことが、そんな幸福なことがあり得るのだろうか。

「愛してるよ。……一生、逃がさないから」

 なまえ、僕のものになって。

 鼓膜が溶け出すのではないかと思うほど甘い声で名前を呼ばれ、顔が熱くなる。何度も名前を呼ばれたあの夜を思い出してそれから、頭を過ぎるあの日の情事、ぞくぞくと背中を這うあの日の快感。悟様に知られたくないのに、どうしてかすべてを知ってほしいような気がする。こんなもどかしい感情が、愛というものなのだろうか。




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