もう疲れた。何もかも。ブラック企業とまではいかないが限りなく黒に近いグレーな会社に勤めて3年目、ひとまず一社で3年はキャリアを積もうだとかいう昔ながらの考えと社会人としての意地、それだけでなんとかやってきたけれど。仕事内容に加えて上司からの無理難題。疲れが日々蓄積して、今日は特に何もかもが重たく暗い思考になってしまう。

 家に着いても疲労は消えず、明日は休みだというのに明後日はまた仕事に行かなければならないと思うと、明日の楽しみよりも次の日の憂鬱が勝ってしまう。ああもう、いつだったか後輩の七海くんが言っていたように、労働はクソ。

 何をする気も起きなくてただベッドに寝転んで、だけど眠気もやって来ず起き上がってぼーっとしていると、メッセージが届いたことを知らせる音と震えるスマートフォン。
 夏油傑、という名前が差出人に見えて、W今何してる?Wという、ありがちなたった一言だけの文面だったけれど、なんとなく目の奥が熱くなって。気付いたらWもうやだWW仕事やめたいWなんてどうにもならないメッセージを送ってしまっていた。
 夏油は高校の同級生だ。在学中はほとんど接点がなかったけれど、同窓会で久しぶりに会って、その飲み会でなんとなく連絡先を交換した。そんな友人にいきなりあんな暗い内容のメッセージを送りつけるなんて。きっと困らせてしまうと、少し考えたら分かるのに。

 それを訂正し謝罪する間もなく、今度は着信を知らせるバイブレーション。反射的に通話のマークをタップしてしまって、慌てて耳にスマホを当てる。

『もしもし?』
「もしもし、あの、えっと、夏油ごめん、ね」
『何が?』
「さっきの、あんなの送るつもりだったんじゃなくて、ちょっと疲れちゃってて……」
『ああ、そんなことか。気にしてないよ、寧ろ仕事で疲れてるのにごめんね。今、少しだけ話せるかい?』

 一人でいるとまた嫌なことばかり考えてしまいそうで、二つ返事で了承したら、律儀にも「ありがとう」なんて言われてしまって落ち着かない。
 夏油は少し話せるかなんて尋ねておいて、落ち着いた言葉と声音でわたしを誘導し、気付いたら結局わたしが自分のことばかり話していた。胸の中のもやもやした気持ちを吐きだして吐き出して、終わる頃には少しすっきりしたけれど。それでも明日の休みをただ楽しみに思えるほど前向きになれなくて、話を聞いてもらったのに切り替えが上手くできない自分に嫌気が差して笑ってしまう。

「……こんなんじゃ、だめだよね。面倒臭いやつでごめん」

 ただ話を聞いて時々相槌を打ってくれて、嫌そうな素振りも見せず何もかも吐き出させてくれた夏油の優しさに今更罪悪感が込み上げてきて、話聞いてくれてありがとう、と自分の話の終わりを予感させてみる。すると夏油が「私から提案があるんだけど」と今日初めて自分の話を始めたので、すっかり熱くなったスマホを反対の耳に当て直してから続きを促す。

『予めゴールを決めておいたら、少し気持ちが楽になると思わないか?』
「ゴール……?」
『今すぐ辞めたら、って言ってあげたいけど、そう簡単な話じゃないだろうしね。でもこのまま続ければ本当にただつらいだけだし、それなら、いつまで続けていつ辞めるかを決めてみるのはどうかな』

 その穏やかな声も相まって夏油の話はすんなりと心に落ちてきたけれど、自分自身がいざそうすることを想像すると、その先の不安も一緒に脳裏を過ぎってしまう。
 つい無言になってしまったわたしの内心を察したのかどうなのか、夏油はくすりと笑って「回りくどい言い方だったね」なんて笑う。回りくどいというよりも現実味の有無の問題なんだと思うけれどもそれを言葉にできずにいると、夏油はゆっくりと言った。

『3ヶ月頑張って、3ヶ月後にわたしと結婚して寿退社。どう?』
「……、………え?」
『流石に3ヶ月は短いかな。でもきみをこれ以上、そんな猿みたいな上司のもとで働かせたくはないし……』

 いや違う、期間の問題じゃない。そう言いたいけど頭が追いつかなくて、あ、とかえっと、なんて意味のない言葉ばかり発して消える。
というかわたしたちはただの友達で、付き合ってすらない。それがいきなり結婚? ただでさえ夏油みたいに頭の回転は速くないのに、疲労困憊の脳では到底、情報を処理できない。

「えっと、あの、夏油? お、お酒飲んでる?」

 ようやく絞り出した一言は、情けない声と微妙に脈絡のない台詞になってしまった。でも仕方ない。だってあの夏油だ。同じクラスになったことは一度だけであまり知らないけれど、五条とつるんでいてちょっとやんちゃではあったものの成績も良くてそれなりに真面目だった印象がある。
 連絡先を交換して以来たまにメッセージをやり取りする仲になっても、こんなにも飛躍した話題は無かった。ひどく落ち着いた声だけど酔っ払っているというなら、まだ理解できなくもないけど。

『飲んでないよ。どうして?』
「いや、どうしてって、じゃあ何でそんなこと、を」
『本心だよ。きみと結婚したいぐらい、きみのことが好きだから』
「は……?」
『少しも気付いてなかった? 同窓会で男が連絡先を聞くなんて、落としたいって理由しかないよ。少なくとも私はね』

 ようやく追いついたはずの会話のキャッチボールがまた成立しなくなる。好き? いつから? 誰が誰を? ───あの夏油が、私を?

『ちなみに同窓会も、最初は行くつもりなかったけど。きみがいると聞いたから参加したんだ』
「あの、ちょっと待って、」
『そもそも、男がW今何してる?Wなんて、下心しかないよ。勇気を出して送って、それに返信が来たかと思えばその子が他でもない自分に弱音を吐いてくれたんだ。タイミングとか色々あるだろうけど、それでも、舞い上がらない方が難しいと思わないか?』

 わたしを置いてけぼりにして、つらつらと饒舌に話すその声に、今更ながらどきどきと鼓動が早まる。『明日も仕事だよね、長々と話してごめんね』と、最後までわたしを思いやるその言葉も、下心なのだと一度言われてしまえばただの優しさ故ではない可能性も考えてしまって、顔が熱くなった。明日は休みだと言うこともできずに、ただ肯定することしかできない。

『ただでさえ仕事が大変なのに、私に時間や思考を避けとは言わないよ。返事も急がないしね』
「っえ、あ、うん、」
『でも、仕事の悩みなんか忘れるくらい、私のことで頭がいっぱいになればいいのにな、とは思ってるから』

 じゃあおやすみ、と終始変わりない声と口調とで終わりの挨拶までも済ませた夏油との通話を切り、ベッドに倒れ込んだ。夏油が学生時代にモテていたことはなんとなく知っていたけれど、その片鱗をまざまざと見せつけられた気がする。

 帰宅直後までのネガティブな考えや虚な感情はどこかへ消え去り、だけど別の種類の疲労がじわじわと身体を侵食する。ドッドッと速く煩い鼓動はどうすれば良いか分からず、服の上から心臓を押さえてみてもさして効果はない。
 化粧を落とすことすら億劫だったけれど、底辺に落ちていた自己評価は夏油の告白によって単純にも急上昇し、お風呂に入る気力が湧いてきた。愛情とは偉大なものなのかもしれない。

 とりあえずは明日、ゆっくり考えよう。夏油の「おやすみ」が鼓膜に焼き付いて手強かったけれど、諸々終わらせてベッドに入る頃には、どこか晴れやかな気持ちとともに心地よい眠気がわたしの身体を包んでくれていた。




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