それは実るどころか咲くことさえなくて、そもそも芽生えることも本当は許されていない気持ちだった。生まれが違って立場が違って、持つ力も圧倒的に違う。気付いてしまえばそれごと飲み込まなきゃいけないようなこの感情を恋だって言うなら、ドラマや少女漫画で見るような、この世にあるもっと綺麗で希望に満ち溢れた事象は何て名前なんだろう。

「はー? 好みのタイプぅ?」
「悟はどうせ……、……」
「……、………んでそこでなまえが出てくんだよ」

 自分の名前が聞こえたので足を止めてしまった。つい息を潜めてしまって、ついでに足は縫い付けられたように動かなくて、ああ、盗み聞きなんてダメなのにな。

「……アイツと真逆の女だし」

 ところどころ聞こえにくいところはあるけれど、女性のタイプについての話題だということにはもちろんすぐに気付いた。話の流れ的にどうやら、悟の好みのタイプがWわたしと真逆の女W。なんとなく分かっていたのにじわじわ胸が痛くなって、自分でも馬鹿だと思う。そもそも、叶うわけがないのだ。たまたま同級生というだけで、彼は五条家の次期当主。この世でもっとも才能に満ち溢れた人のひとり。名前で呼んで名前で呼ばれて、だけどそれだって特別な意味があるわけじゃない。わたしが傑みたいに強ければ、硝子みたいな替えの効かない力があれば、また違ったかもしれないけど。
 そんな隔たりだけじゃなくて、そもそも悟の思い描く女性と対極の位置に自分がいるってことが、新たに分かったってだけ。

 悟の好みの女性ってどんな人だろう。既に好きな人がいるのか、もしくは漠然とモデルや女優さんを思い浮かべてのことか。むしろ婚約者や許嫁とか、そんなのがいたっておかしくない。
 とにかくきっとわたしみたいに負けん気が強くて女の子らしくない奴じゃなくて、ふわふわしててお上品でおしとやかで、綺麗で可愛い子のことを思い浮かべてるんだろうな。それともスタイルがよくて色っぽくて、恋愛に慣れた大人の女性かな? どちらにしてもわたしは彼氏がいたことがないってことはいつか話した気がするから、そう言う恋愛初心者なところも理想とは程遠いのかもしれない。

 その日はせっかくの週末だったのに、ぐるぐるとそんな事ばかりを考えてしまって、何をするでもなくただぼーっとしていた。わたしが呪術師をやっている限り何をしたって、たとえそのタイプとやらに近付いたって、悟がわたしを女として見ることなんかないのに、気付けばわたしは美容院の予約を取っていた。
 次の週末に美容院へ行って、長かった髪を切った。失恋したら髪を切るなんて古いかな、なんて思ったけどなんだか気分が軽くなった気がするから、あながち間違っていないらしい。そういえば悟の言っていた『わたしと真逆の女』っていう理想の女の子と比べた表現には、前の長かった髪も含まれてるのかな。

 髪を切ってショートボブにした次の日、教室には傑と硝子がいて、二人とも似合っていると褒めてくれた。

「前の長い髪も良かったけど、短いのも似合ってるよ。かわいいね」
「あ、ありがと、傑」

 特に傑は日頃から気がつくタイプだし女の子には紳士だから、可愛いなんて言葉もするりと出てくる。照れてしまって顔が熱くなるのを感じて、だけど嬉しいから素直にお礼を言った。男の子に面と向かって可愛いなんて言われたことがないわたしは、お世辞だと分かっていてもつい頬が緩んでしまうのは仕方ない。

 最後に教室に入ってきた悟は、わたしを見て一瞬驚いたような顔をしたものの、何も言わずに席についた。傑みたいに褒めてくれるとまではいかなくても、友達だから何か言ってくれるかなって思ったのにな。



 髪を切って気分転換ができたお陰か、お世辞かもしれないとはいえ傑や硝子に褒められたお陰か。とにかく少しお洒落が楽しくなった私は、休みの日にはいろんな服を着てみるようになった。髪が短いと大振りなピアスなんかが映えそうだなと思って、傑にピアスホールを開けた時のことを聞いてみたけれど、やっぱり身体に穴を開けるのは怖くてイヤリングにした。任務でもっと怖い思いをしているのにねって傑に揶揄われたけれど、それとこれとは話が別だと反論だけしておいた。

 髪を切って、イヤリングやネックレスをつけて、ほとんどすっぴんで出かけていた頃に比べればちゃんと化粧なんかをして、カジュアルなパンツ系ばかりじゃなくてたまにはワンピースで。似合うとか似合わないとかは置いておいて、今までとは違う自分になれるのが楽しかったから、硝子と遊びに行く時も一人でブラブラするときも、少しでも普通の女の子のような、可愛くて綺麗な自分になれるよう努力した。

 髪を切った日から一ヶ月が経って、今日はお給料日後の最初の週末だ。今日はもともと、映画を観に行ってからコスメやネックレスを探して渋谷あたりでウインドウショッピングでもしようと思っていた。百貨店にも立ち寄るかもしれないからと、綺麗目な白のブラウスと花柄のミモレ丈のスカートを選んだ。そして化粧品を買うのにしっかりしたメイクは違うかと思って、チークやアイメイクは控えめにして、代わりに赤とピンクの中間のような少しはっきりした色のリップをつけてみる。なんとなく顔が明るくなった気がして、お化粧ってすごいななんて思う。

 全部の支度を終えて鏡の前でくるりと回れば、こんなわたしにもいつか素敵な恋ができるんじゃないかと思えた。いつ死ぬか分からないなんてことは分かっているからこそ、死ぬまでに一度くらい、好きになった人に「好き」と言われてみたい。

 そんな、今日のお出かけ日和な空模様と同じく晴れやかな気持ちで部屋を出ると、寮の入り口でこちらに向かってくる悟に鉢合わせた。

「っあ、おはよ、悟」
「……はよ」

そのただの挨拶の一言がやけに元気がないように見えて、何かあったの、なんて事情を聞こうとした時。わたしの言葉を遮って悟が言った。

「んだよそのカッコ。全然似合ってねえ」

 ………は?
 そんな意味のない言葉がつい、止まった呼吸の代わりに外に出てくるようだった。
 思いを自覚した日も、悟が女の子に声をかけられていた日も、自分が悟の思い描く女の子になんてなれないと知ったあの日も。何度も何度も飲み込んできた気持ちが、自分に自信を持つことでなんとか忘れられるかもしれないと思った恋心が、その言葉に引っ張り出されるように顔を出して、そしてぐちゃぐちゃになる心地がした。
 胸が痛くてたまらない。──なんでそんなこと言われなくちゃいけないの?

「……わたし別に、悟のためにお洒落してるんじゃないから」
「………は、」
「待ち合わせに遅れるからどいてくれる?」

 待ち合わせなんて嘘。一人で買い物に行くだけ。だからどんな格好しようが自分で自由に決めていいのに、前の自分なら選ばないような服を選んだ。百貨店に行くからなんてそれらしい言い訳でもしないと、自分をごまかせなかった。
 本当は、悟の思い描く理想のタイプにだっていつか近付いてみたかったから。

 でもそれもどうでもよくなって、サングラスの隙間から見える青い瞳から目を逸らす。今日は映画じゃなくて、クレープとかアイスクリームとか、そのあたりに適当に寄ってヤケ食いでもしちゃおうかな。
 その場から動かない悟の横を無理やり通り過ぎようとして、ぐん、と腕を掴まれ引かれる感覚。骨が軋むんじゃないかってぐらい強いそれに少し息を詰めると一瞬で力は緩んだものの、その手が離れる気配はない。

「何……?」
「だれ」
「え?」
「んなカッコで待ち合わせする奴って誰。硝子は明日まで任務だし違うよな。……傑?」
「……悟には関係ないでしょ」

 手を振り払おうと腕に力を入れてみたけれど敵わず、むしろただ掴まれているだけだったのが引っ張られて、悟との距離がより近付いた。

「最近やたら気合い入れてんの、やっぱ傑のためかよ」

 そんな無遠慮な悟の言葉に、どうしようもない切なさが胸に迫り上がるのを感じる。
 わたしと真逆の女の子がいいんでしょ。だから今までよりもお洒落の仕方だって変えてみたのに、これでも似合ってないって言われて、どうしたらいいの。そもそも、「似合ってる?」なんて烏滸がましく意見を求めたりしたわけじゃないんだから。わたしがどんな格好してようと誰と何処に行こうと、わたしに異性としての興味がないならもう放っておいてよ。

 なんでこんな人を好きになっちゃったんだろう。

「……は? おい、泣いてんの」

 悟の動揺した声とその言葉で目の奥が熱くなる感覚を自覚して、ひとつの瞬きを合図に頬が少しだけ濡れた。今日のアイメイクは透明マスカラくらいしか付けていなかったからまだ酷い顔にならなくて良かったな、なんて呑気なことを思ったけど、拭っても止まらない涙は流石に自分でも予想外で、緩んだ悟の手から自分の手を外して悟に背中を向けた。バッグから取り出したハンカチでそっと目を押さえた。

「おい、」
「ごめん、大丈夫。でもせっかく出かけるのに目腫れたら嫌だし、もう行くね」

 悟は何も悪くない。ただ疑問に思ったことを聞いただけ。でもわたしは悟とこれ以上一緒にいるとまた泣いちゃうから。こうやって意地悪言っちゃうのもきっと、うまくいかない原因なんだろうな。

「嫌だ」

 静かな声だった。それが耳元で聞こえた頃には、後ろから伸びた腕が肩に回されて背中があったかくなって。それが悟の腕と背中だってことはすぐには理解できなくて、ただ驚きでうまく呼吸ができなかった。

「せっかく伸ばしてた髪切って、わざわざ足見せるようなスカート履いて、アイツみたいにピアスつけて、そんなに傑の好みに近付きてえの? 傑が可愛いって言ったから?」
「……え……?」
「俺の言えねえこと、あいつはすぐ言えるけど。けど俺は、……」
「悟? あの、とりあえず離して、」
「ぜってーヤダ。離したらオマエ、その格好でデート行くんだろ」

 悟の言葉の意味が分からなくて、だからこの会話の終着点も分からない。ただ、学校で会うよりも少しヒールの高い靴を履いているせいか頭の位置が近くて、話すたびに悟の息が耳にかかるような気がする。余計に頭が回らないからとにかく離してほしいのに、それも叶わない。

「っだから、悟には関係ないから」

 あの日、悟の声で紡がれた言葉が蘇る。友達として仲良くするだけじゃ物足りなくなってしまったわたしは、その視界にただ映ることも随分な奇跡だって、分かっているのに全然分かってない。こんな馬鹿な奴は放っておいてほしいのに。とにかく突き放してでも、この勘違いしそうになる距離をやめたくて語気を強めると、背中に触れる悟の身体がびくりと揺れた。

「関係ある」
「何が、」
「す、きだから、行かせたくない」

 背中が熱い。自分の体温か悟の体温か分からないけど、とにかく背中が熱くて心臓が痛くて苦しくて、「すき」という言葉を呟いた悟の吐息がまたとびきり熱かった気がして、鼓膜から焼かれるみたいにもう全部が熱い。

「おまえが好きだから、んなカッコで、他の奴と、でかけてほしく、ない……」

 最後の方は心許なくて消えそうな声で、いつもの自信満々な態度は見る影もなくて。訳が分からなくて、だけどぎゅうぎゅうと縋るように抱きしめられるものだから、惚れた弱みも相まって、わたしは悟の腕の中でしばらくじっとしていた。


▽▲▽▲▽


「黒髪ショート、デカめのピアス、パンツよりスカート派、5cmくらいの高さの細めのヒール」
「……えっと、それが何?」
「…………傑の好みのタイプ」

 結局あの後、寮の管理人さんが通りがかって「青春だねえ」なんて言葉をかけられ、ぴたりとくっついていた身体は悟によってバッと離された。離してと何度も言っていたはずなのに、少し名残惜しく感じてしまったわたしは現金な女なのかもしれない。デートに行くなら俺も着いていくからと無茶を言う悟に、「もともと待ち合わせなんてしてないの」と嘘についての謝罪とともに言えば、顔を真っ赤にして色々と悪態をつかれた。

「……マジでデートじゃねえんだよな?」
「だからそうだって」
「じゃあ、ちょっと待ってろ」
「え?」
「5分で準備してくるから待ってろ。先に行ったらデコピンすっからな!」

 そんな捨て台詞とともに悟は男子寮へ走っていき、5分と言わず3分後には私服に着替えてやってきて、わたしの手首を掴んで歩き出した。その広い背中に声をかけても、その手は離れない。

「好きだっつったろ。誰のためにお洒落してんだか知んねーけど、アプローチぐらい好きにさせろよ」

 道中、赤い顔でそんなことを言われてしまったら、「わたしが好きなのは悟だよ」と言えなくなって、ついこくりと頷いてしまった。
 結局、映画を一緒に観てウインドウショッピングをして、カフェで休憩している今も言い出せなくて、ただ何でもない話をしていたら言われたのが、さっきの傑の好みのタイプの羅列だ。

 なるほど、ピアスではなくイヤリングだということを除けば、たしかに今のわたしに当て嵌まる。だから可愛いとか似合ってるとかよく言ってくれてたんだな、と傑のくれた言葉を思い浮かべていると、「俺は」と悟が不機嫌そうに声をかけた。

「今のも全然可愛いけど、前の長い髪も似合ってたし、特にポニーテールとか好きだった」
「え?」
「スカートも似合うけど、他の男に肌見せんのより、おまえ脚とか細いしスキニー? とかああいうの履いてる方がなんか、逆に女っぽくて好き」
「あの」
「ネックレスとかそういうのは、前たまにつけてた華奢なやつがおまえに似合うと思う。あと、これは今更言っても仕方ねえけど、俺はどっちかっつーと身体に穴開けてほしくねーから、ピアスよりイヤリングのが好きかも。で、細いヒールとか転びそうだからスニーカーでいいと思うし、つーか身長そのままのがかわいーからぺったんこの靴でいい」
「………」
「あとは、化粧したらそりゃ大人っぽくなるしイイけど。別に化粧なんかしなくても、俺はおまえなら」
「も、もういい。もういいから」

 話を遮られてむっとする悟には申し訳ないけど、キャパオーバーだ。あの日言ってた好みのタイプってなんだったの? 私のことが好みじゃないって話じゃないの? 分からないけど悟が言ってることが嘘や冗談には思えなくて、顔から火が出そうだ。

「……顔まっかじゃん。なあ俺、ちょっとはチャンスある? って、まー急にそんなわけ」
「ある」
「ねーか、…………え?」
「悟がわたしのことタイプじゃないって言ってたから、あれこれ変えてみただけ、だから」

 ぽかんと口を開けた悟はみるみるうちに顔が真っ赤になって、それを笑ってあげたかったけど、わたしも人のこと言えないんだと思うととにかく恥ずかしい。あと周りに人がいるカフェで普通の高校生の青春みたいなことをしたのが更に居た堪れない。
 とにかく急いでアイスティーを飲み干して、悟の手を引っ張ってカフェを出た。人通りの疎らな道に来て悟を振り返ると、もともと白い肌に映えすぎるのか顔は真っ赤なままで、きゅんとしてしまった。

 後日ゆっくり話を聞けば、好みのタイプの話をしていたあの日、「悟はどうせタイプとかそういうのじゃなくて、なまえが好きなだけだろ」と何故か傑に片想いがバレていて揶揄われ、売り言葉に買い言葉で「なまえと真逆の女だし」と言ってしまったらしい。

「んで髪切ったおまえにわざわざ可愛いっつって、照れるおまえを見てる俺の反応伺ってんだよ。あいつマジでタチ悪ぃ」
「えー、じゃあ傑は可愛いって思ってくれてる訳じゃなかったのかあ……」
「は? おまえ俺の彼女なのに傑に可愛いって言われたいわけ」
「まあ……、傑みたいな人に言われると自信つくっていうか」
「……俺が一生言うから、傑には言われなくていい」

悟の足の間に座らされたまま、奇しくも初デートとなった日と同じように後ろから抱きしめられてぎゅうぎゅうと力を込められる。本当は悟に言われるのが一番嬉しいって伝えたら、どんな顔するんだろう。そう思いながら、少し高い位置にある頭を撫でてみると、かぷりと耳朶を噛まれて肩が跳ねた。

「そういやピアスはできれば開けんなよ」
「……イヤリングだって気付いてたの?」
「髪短くても耳に髪かけんのエロいなって思って見てた時に気付いた」
「……すけべ……」
「はあ? 俺めちゃくちゃ紳士だから。言っとくけど傑なんかもっと手ぇ早いしスケベだからな」

 恋人ができたことがなくて彼氏彼女の作法なんかが分からないわたしは、この言葉の後にそっと顎を掬われ唇を奪われるなんて思いもしなかった。
 芽生えさせることすら諦めていたのに、いざ芽を出してみると花が咲くのも実るのもほんの一瞬だったわたしの恋心には、たとえばこの命が枯れるその日まで、水をやり続けようと誓った。




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