やらかした。
 わたしの心の中の第一声はそれだった。

 朝起きたら何をどうした経緯も朧げなまま、見覚えのない部屋のベッドの上だった。服は何も身につけていなくて、そして隣にはあまりにも見覚えのありすぎる顔。
 ここで場所が見知らぬラブホテルで、隣にも知らない男がいたのならまだ良かった。というか過去にお酒に溺れて一度だけ、ワンナイトだって経験したので、その時はとりあえず硝子にピルを貰ったりしたぐらいで、特に気にせず過ごしたことを覚えている。

 だけど今回は同僚兼同期。しかも五条家の次期当主。そんな人間と一夜の過ちなんてやらかしたにもほどがある。頭を抱えるとはまさにこのこと。いや地位もそうだけど、そもそも仕事で必ず顔を合わせる時が来る。気まずい。全部覚えてなければまだよかったのに、今回はところどころトんでいるもののばっちり覚えてしまっている。
 昔からわたしを揶揄ってばかりいるこの男の、欲情した表情が瞼の裏に焼き付いている。夢であれと思うのに、油断したら体に触れる手や舌の感触だって思い出しそうだ。それぐらいすごく丁寧に、それでいて激しく抱かれた気がする。正直言って、めちゃくちゃ気持ちよかった記憶しかない。
 そんな信じたくない記憶の限りでは、部屋に入るなりキスをされ、そのままベッドにもつれ込んでまた唇が塞がれて、執拗に胸を責められてから、下を長い指がまさぐった。その前戯の間もそして繋がってからも、ひどく甘い声で「かわいい」や「好き」と言われた気がするものだから、きっと五条も相当酔っていたはず。下戸だってお酒を飲みたい気分なときもあるらしい。二度と五条の参加する飲み会には行かないが。
 いつもの黒いアイマスクは最初のキスの時に五条自らにより乱雑に剥ぎ取られていたから、日頃見えないあの宝石みたいな眼が熱を帯びていたこともなかなか頭から離れてくれない。いま隣にいる男は眠っているから、その眼は長い睫毛と閉じられた瞼で隠れているけれど。

 とりあえずこのままだと、五条が目覚めた時にどうしたらいいか分からない。もしかしたらわたしを好きな子だと思って代わりに抱いた可能性だってあるし、それなら相手が誰だか分からないまま、もしくは相手が誰でも良かったので気にしないという可能性も大いにある。だけどそうだとしても、わたしが気にしないでいられる理由にはならない。

 いくら冷静になろうとしてもとりあえず焦りに焦ったわたしは、結論から言うとその場から逃げた。手早く服を身につけ、文字通り逃げるように家を後にした。鍵がかけられないことは申し訳なかったけど、それを気にする余裕はなかった。ベッドサイドに使用済みのアレがあったことは流石に見たしある意味ほっとした。ヤってしまった事実も突き立てられたけど。

 五条の家の場所なんて詳しくは知らなかったから地図アプリを開いて場所を確認した。駅近の一等地だった。
 そのまま振り返ることなく歩き、改札を潜り抜け、6時台の電車に乗って家へ帰った。駅の時計を見て早朝だということを知ったくらいだったので、自分が相当テンパっているのが分かる。五条が何も、そう本当に何も、もういっそ相手の顔だけじゃなく何だったらこの夜の全てを覚えていないなんて奇跡を、ただ祈った。

 さて家に帰ってシャワーを浴びたら、少しぐらい冷静になれた感覚だ。それでも五条にメッセージも何も送れず、明日からどんな顔をして会えばいいのかと再び頭を抱えそうになっていると、運良く明日からの長期の出張依頼が入った。期間は2週間。間髪入れず了承した。
 2週間もあればなんとかなる気がする。時間が解決してくれるという言葉もあるぐらいだし、まずは任務に集中して、そして忘れよう。なんなら五条は数日で忘れているかもしれないわけだし。

 そうして物理的にも離れられた出張中も、合間に何度かスマホを見ていたけど、仕事用にもプライベートの方にも、五条から何の連絡もなくてホッとした。もしくは、覚えているけど無かったことにしようと思ったのかもしれない。そう思っていたのに。

「ねえ」
「ご、五条……? お疲れ様、」
「ちょっと来て」

 それなのに、出張から戻った次の日。報告書や溜まった雑務を片付けようと高専へ着いた瞬間、ずっとわたしの頭を占領していて、だけど少しずつ薄れていった張本人が、待ち構えるように校舎の入り口に立っていた。
 五条の私室に連れ込まれてドアが閉まった途端、顎を持ち上げられて唇に触れる、感じたことのある温度。

「んっ、ふ、……ん、ぅ」

 背中から腰に腕を回すその仕草、昔から変わらないどこか爽やかな香り、啄まれて離れてまた触れるそのキスの間隔。重ねられる唇の角度すら、あの日と同じ。

「無かったことにしないから」
「……え」
「オマエ相当酔ってたし覚えてないのは仕方ないけど、でも明らかにヤった形跡があって、隣に寝てたのが僕だって分かってたよね。なのに、なんで帰ったの?」

 無かったことにしないって、なんで帰ったのって、そんなの逆になんで? とこっちが聞きたい。一夜の過ちっていうのは、つまりは間違いなのだ。なにかの間違いで身体を重ねてしまった。お互いに本意ではなかった、ただお酒に溺れたせいなんだ。
 知らない人ならまだ起きるまで待つぐらいのことはできたかもしれない。だけどそうじゃないから、それこそW無かったことWにした方がいいと思うのに。
 わたしが視線で訴えたのを、どう捉えたかは分からない。ただあの日と同じように、何にも遮られない五条の眼がわたしを視ているというだけなのに、自分が獲物になったような感覚だった。

「思い出させてあげる」
「……っ、ま、って」
「散々待った。もう待たないよ」

 五条の身体を押し返そうとしたわたしの腕は容易く外され、掬うようにまた唇がくっついては離れて、また食まれて。下唇を啄まれるたびわざとらしく響くリップ音に羞恥がつのる。呼吸のリズムを他人に乱されているせいで、さして苦しくとないのに息が乱れる。
 そうしている間に仮眠にも使われている大きなソファに押し倒され、今度は深く唇が重なって舌を追いかけられる。五条の手が服の裾から侵入して腰をなぞられた感触に、ふるりと背中から震えた。対抗しようとして、右手が五条の左手に絡められ縫い付けられていることを知る。
 ようやく呼吸が自由になったのは、その大きな手が私の下着を押し上げて胸を直に包んだ時だった。

「ッあぅ、」
「あの日もこうやってキスして脱がせて、オマエの全部を見て、全部に触ったんだよ」
「や、まって……っ」
「胸弱いよね。舌でされるのが好きなの? 舐めてあげたらすごく感じてた」

 尖りを指先で擦られ、息を吐くごとに声が溢れる。今は舐められこそしていないものの、あの日もまずはこうして執拗に指先で快感を高められた。その記憶が段々と引っ張りだされる。
 再現するようなその動きに腰が浮きそうになって、目隠しを外した悟のその背にある天井を見て、此処がいつ誰が来るかも分からない高専だということを思い出した。そしてそれでも五条は、わたしがあの日の行為を知らないフリを続ければこのまま最後まで事に及ぶだろうということにも漸く気付いた。

「お、ぼえてる、から!」
「……え?」
「ぜ、全部覚えてるから、しなくていいから……っ」

 胸に触れる五条の手を両手で掴んで退けて、その胸を今度こそ押してなんとか五条との身体の間に空間を作る。体重なんかかけられていないはずなのに、覆い被さられた時の体格差を感じてつい胸がぎゅっとなった。ついでに、胸を押した時の鍛えられたその硬さにも。
 同期で同僚で、悪友だったはずだった。どうしてこんなにも胸が痛くて熱いのか分からない。誤作動だと思いたいけど、まともに五条の顔が見られないのが現実だった。

「……覚えてんの?」
「た、たぶん」
「じゃあ僕が言ったことも?」
「.……え、っと」

 行為や感触や快感は覚えている。気が狂いそうなほど何度も求められた。それは覚えているけど、何か、言われていたっけ。いやたしかに最中に何かをしつこいぐらい言われていた気がするけど、なんだったっけ。
 はぁ、と五条がため息をついてわたしを起こして、わたしの服を整えた。その仕草がやけに優しくて手慣れていて、たとえばセフレや元カノなんかがいっぱいいるんだろうな、なんて思っていたら、どこか縋るように抱きしめられた。

「好き」
「え、……?」
「オマエのことが好き。……なんだよ、やっぱり覚えてないんじゃん」

 あんなに言ったのに、と拗ねたような声がして、抱きしめる力が強くなった。どこか高専の時を思い出させるような声と口調。あの頃は本当にただ揶揄われていただけだったのに、いつからそんな風に思っていたんだろう。

──なまえ、かわいい
──好き。なまえ、好きだよ。愛してる

 覚えてる。思い出した。耳が、鼓膜が、それらを理解して記憶する脳の回路の端っこに至るまで全てが。その蒼の瞳が迷いなくわたしを視て、愛おしいものを触るように優しく触れて、本当に心からわたしに好意を伝えて泣きそうな顔でわたしを抱く五条を憶えてる。

「なまえ?」
「〜〜〜ッ!」

 五条がわたしの顔を覗き込むのが耐え難くて、ドン、と渾身の力を込めて五条を押し退けたのに、その身体はほんの少し後ろに揺れただけだった。顔が熱い。俯いて隠して何度か呼吸して、それでもなかなか冷めてくれない。顔から火が出るなんて比喩、今までは大袈裟な言い回しだと思っていたのに。

「……軽蔑した? 僕のこと、やっぱり好きにはなれない?」
「…………それは」
「最低だってのは分かってるよ。でもずっとなまえが欲しかったから我慢できなかった」
「……なかったことにならないなら、わたしはどうしたらいいの」
「僕の彼女になって」

 その言葉と同時に、長い指がわたしの髪を耳にかけた。熱くて仕方ないこの顔を隠したくて下を向いているのに、五条は決して無理のない力でわたしを上向かせて目を合わせる。
 わたしの顔を見て、少し驚いた顔をした。その眼に何がどう映っているのか、その眼が特別に目で追う何かがあるとしたらそれはどんな存在か、知りたいと思ったことがないわけじゃない。だけど実際にじっと見つめられると、どうしていいか分からなくなる。絶対に赤くなっているだろう顔を隠すこともできず、かと言って振り解けない。

「……何その顔、かわいすぎ。期待すんだけど」
「……目が悪くなったんじゃないの」
「ねえ、脈ありって、考えていいの?」

 否定するのも肯定するのも違うような気がしてしまって、五条の問いかけに答えられないまま、まるでキスをするときみたいに頬に指が添えられる。

「自分で言っといて何だけど僕、重いよ。だからオマエが潰れないように、他の男の物になるのだって一応目を瞑ってきたんだけど」

 わたしに彼氏ができてそれを報告した時も、酔っ払い同士で一線を超えちゃったなんて話を何気なくした時も。五条はさして面白くもなさそうに適当に聞き流していたように見えたけど、今まで何も言ってこなかっただけで実は思うところがあったんだろうか?

「一回僕のモノにしたら、もう手放せないよ。もしなまえに言いよる男がいたら二度と近づかないよう脅すし、他の男と寝たなんて知ったらその男のこと殺しちゃうかも」
「……五条が言うと冗談に聞こえないよ」
「安心して。冗談じゃないからね」

 安心って言葉を辞書で引いてから言いなよって茶化したかったけど、五条の青い眼があまりにも真剣にわたしを見るものだから、呼吸とともに飲み込んでしまう。

「なまえの最後になりたいって、ずっと思ってた」

 そんなの本当に重いよって、重い男はモテないよって、今までなら言えてたのにな。どうしてか何も言えないまま、今日だけで何度も近づき過ぎた距離まで、また五条の顔が近付く。五条以外の呪術師の最後なんて本当にあっけなく訪れるはずな訳で、それなのにわたしなんかの最期が欲しいと言う。

「好き。ずっとなまえだけが好き。……死ぬまでずっと、僕のそばにいて」

 目を閉じたらまた呼吸が止まった。ただ触れるだけのそれは温かくて柔らかくて、少し震えているようにも感じた。
 呼吸を堰き止めていた唇が離れ、反射的に瞼を持ち上げたら、思いがけず顔を赤くした五条と目が合った。どうやらわたしは思いのほか本気で、この男に愛されているらしい。




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