ほんの出来心だった。傑や硝子との距離が近いアイツにいつも自分ばかり嫉妬してモヤモヤしていたから、同じようにアイツにも、俺のことで頭をいっぱいにしてほしくて。

 他の女と出かけて、実際は無下限があるから触られてすらないけど一応腕なんか組ませて。手を繋いだりキスしたりは当然しないから、別に構わないと思っていた。

「……もういい、別れよ。悟なんか大嫌い」
 だからその言葉を聞いた時、怒ったような表情なのに潤んだ瞳のせいで隠しきれない悲しさと寂しさを滲ませたなまえを見て初めて、自分の行動がとんでもなく恋人を傷つけるものだったと気付いたが、もう遅い。

「……大嫌い……」
 アイツに言われた言葉を反復してみる。別に喧嘩が初めてってわけじゃない。どうでもいいことでたくさん言い合ってきた。それでも最後はなまえが仕方ないなって折れてくれて、「ごめんね」って困ったように笑って、俺はようやくその後に「悪かった」と呟く。今までの喧嘩はせいぜいその程度のもので、W嫌いWやW別れるWなんて言葉が出てくることはなかったのに。
 心臓の内側か裏側か、とにかく触れない胸の奥がどくどくと不整脈を刻んで、服の上から掴んでみても治らない。掌に汗が滲んできて気持ち悪くて、シャツで乱暴に拭った。

 頭を冷やして、明日の朝謝ろう。どんな言葉でどう謝るかを頭に思い浮かべると、次に考えてしまうのはそれに対してアイツがどんな反応をするか。考え始めたら止まらなくて、ついでにアイツと元に戻れないような、嫌な予感が胸を過ぎって寝付けない。
 結局2時頃まで眠れなかったのに、目覚まし無しで目が覚めたと思ったら4時半だった。カーテンをちょっとだけ開けて外を見ると夜みたいな暗さで、自然とため息が溢れる。もう一回寝ようと思うものの眠気がやって来る気配はない。何度か寝返りを打って、こんな時にアイツが此処に居たらな、なんて思って目を閉じてそれでも眠れず目が冴えて、無駄な思考を打ち消したくてまた寝返りをうって目を閉じる。瞼の裏には、アイツの笑顔と泣き顔がぼんやりと浮かんだ。

 世間一般の男は、恋人の笑顔が好きなのかもしれない。だけど俺はアイツの泣き顔が好きだった。笑顔なんて誰でも見られるものより、自分にだけ見せる泣き顔の方がより特別感を感じられて満たされた。
 任務で自分を庇ってかすり傷を負った俺にびっくりして泣く、切ないラブストーリーとやらの映画を見て泣く、喧嘩して仲直りするときにごめんねと頼りない声で呟いて泣く。俺に好きだと言ってきた時に「俺も」と言ったらその時は、ぽろぽろと泣いて笑っていた。
 今まで俺の周りには冷めた大人か、どちらかというとドライな傑や硝子しかいなかったから、そんな泣き顔を見るのが初めてで、感情が顔に出やすいその反応すべてが新鮮だった。思えば、それが今回の俺の馬鹿な行動のきっかけだったかもしれない。

 だけどあの時のあいつは、確かに泣きそうではあったものの泣かなかった。あの泣き顔を見て慰めるのは俺だけがいいのに、俺の前で泣いてくれなかったからそれもできない。でもやっぱりアイツのことだから、堪えきれていなければ部屋で一人で泣いただろうな。

 顔が見たい、会いたい。けど、こんな時間に寝込みを襲うみたいな真似をすれば、さすがに今度こそ本当に嫌われるかもしれない。いや、もう取り返しがつかないのかもしれないけど。
 目を閉じたら今度は、俺に「大嫌い」と言った時の顔が浮かんだ。眠気は相変わらずやって来ないまま、空が明るくなってくる頃まで目を閉じて寝転がっていた。



 次の日は思い切り避けられ、その後も任務ですれ違ってほぼ顔を合わせられず、高専内でどうにか捕まえようと探して見つけても他人行儀な態度に俺の心が折れて。そんなことを繰り返していたら、アイツが俺に「別れよう」と言ってから一週間が経過していた。あいつの態度で分かる。このままだと本当に、まともに口を訊いてもらえない。
 一日の終わりにベッドに入っても、もやもやが晴れなくて眠れない。思えば、誰かに拒絶されるなんて生まれて初めてだ。今日も話せなかったって自己嫌悪と自分への苛立ちと、俺のことは避けてんのに傑と笑顔で話すなまえの顔が目を瞑ると同時に浮かんできて、身体は疲れてる筈なのに目が冴える。何やってんだ、俺。

 このままじゃ本当に任務に支障が出ると思って、硝子に医務室へついてきてもらって睡眠薬を貰った。眠れないことを小さく打ち明けると、「自業自得」とは言われたもののいつもの俺を揶揄う雰囲気じゃなくて「お前にも人の心があったんだな」とただ感心された。俺をなんだと思ってんの。

 もらった睡眠薬を言われた通りに飲んでベッドに入る。確かに飲まないよりは身体も頭も眠気に委ねられる気がするけど、1,2時間置きに意識が浮上するような感覚。もっとちゃんと寝たいのに眠れない。
 あいつ、今日は一年と任務行ってたみたいだったな。六眼で見た限り大きな怪我はなかったけど、呪霊の攻撃掠ったり擦りむいたりして傷作ってねえかな。俺にはよそよそしい態度だけど一年には優しく笑ってた。いいな。俺もあいつの笑ってる顔、ちゃんと見たい。
 あいつがいつか、俺じゃない誰かを好きになったらどうしよう。そしたらそいつにだけ特別な笑顔を見せて、俺の好きな泣き顔だって見せて、肌を重ねて熱を受け入れる時のちょっと苦しそうな表情とか、気持ちよくなってきて熱に浮かされたような眼とか、そういうのも全部そいつのもんになって。

「……いやだ」

 会いたい。
 気付いたらベッドから立ち上がって、部屋を出ていた。

 女子寮に入っちゃいけないことは分かってる。今は夜中の12時半で、きっとアイツは寝てるだろうし、起こすのは流石に悪い。分かってるけど。
明日も絶対避けられるんだろうなって思ったら心臓が苦しくて、もう限界だった。

 気付いたらアイツの部屋の前にいて、そしたら思いがけず明かりが漏れていたから、思わずノックをしていた。

「だれ……? 硝子?」
 こんな時間なんだから、不審に思うのも分かる。震えそうになる声で「俺」と呟いた。

「……え、悟?」
名前を呼ばれるのすらも久しぶりな気がして、じわりと目の奥が熱くなった。ドアは開かない。

「なまえ……? あのさ、」
「何しに来たの」
 俺の喉をただ、空気が通った。突き放すような言葉、温度のない声。付き合ってた時には聞いたことがないもの。

「ご、めん」
 今度はなまえが息を呑んだ気がした。俺が悪いことは分かってる。全部謝るから、前みたいに話せよ。

「顔見て言いたい。頼むから、開けて」

 その言葉を聞いてもしばらく沈黙が続いたけど、「開けてくれるまで帰らない」と付け加えればその数秒後に、カチャリと鍵が回る音がした。扉が開いて、ふわっと香ったシャンプーか何かの香り。気まずそうに俺を見る目。昼間のような突き放す態度に感じないのは実際にそうなのか、俺の欲目がそう見せるのか。
 完全に拒絶された訳じゃないってだけなのにその顔を見たら安心して、その場にしゃがみこんだ。

「さ、悟……?」
「ごめん」
「っ、」
「何回でも謝るし、もう二度としねえから。おまえが誰かと喋るたびに俺ばっか嫉妬して、だからおまえにも妬いて欲しくてやっただけ。他の女なんか興味ないから触らせてもないし、これからも触らせない、から」
 ほんとは抱きしめたかったけど、こいつの中では別れてるから今の俺は彼氏じゃない。彼氏じゃない男がどう触れてもきっと駄目だろうし、というかこんな夜中に押しかけた時点で、何かしたら怖がらせるに決まってる。
 だけどほんの少しでも俺のことを考えて欲しくて、しゃがんだまま服の裾をちょんと摘んだ。あいつの顔見るのがこわくて、自分の中に何かを恐れる感情があったんだなと他人事のように思う。

「……分かったけど、そもそもなんでこんな時間に……」
「眠れねぇの」
「え、」
「オマエが大嫌いとか言うから、あの日から眠れねえの」
 自分のメンタルはもっと強いと思ってた。それこそ、精神の乱れは術式や呪力操作に影響するから幼少期からどんなことにも動じないよう躾けられてきたし、実際に今まで自分の身や仲間に何か起こってもさして気にならなかった。傑がそこそこの怪我して帰ってきて丸2日寝てた時も、一年がヤバい任務に当てられて緊急要請がかかった時も、そこにあるのは焦りや恐怖じゃなくて、むしろ少し白状な自分を客観的に見てため息を吐くような気持ちだったのに。

「床でいいから、今日、ここで寝ていい?」
「え、え……?」
「オマエがいたら寝れそう、だから」
 急激にグラつく視界。今さら睡眠薬の効果が出始めたのか、意識を保てない。分かるのはなまえがそこにいること、戸惑ってること、大声出すなりして追い出したっていいのに、倒れ込もうとする俺を支えようとしてる気がするってこと。


▽▲▽▲▽


「ん……」
 何かあったかくて柔らかいものに包まれてる気がして心地よくて、目を開けたくない。だけど時間が気になったのと、あと妙に頭がすっきりしていく感覚に身を委ねてそのまま瞼を持ち上げたら、すぐ目の前に鎖骨があって。まさかと思ってそっと見上げるとなまえの寝顔があった。
 声が出そうになったのを必死に飲み込んで今の状況を見てみると、なまえが俺を抱き寄せている、且つ俺も同じように抱きしめている。なまえの胸元に頭を預けるみたいな体制で、俺の足は当然、ベッドからはみ出ていた。早く離れないと色々とまずい気がする。

「んんー……」
 とりあえず腕を外して抜け出し、身体を起こした瞬間、なまえが眠そうに唸る声。そんな仕草すらかわいいと思うとか俺はもう駄目かも知れない。

 なまえ、と恐る恐る名前を呼べばぱちりと目が開いて、とろりとした視線で俺を見てからほんの少しだけ笑顔になった。「おはよう」と言われたので同じ言葉を返したと思うが、きちんと声になっているだろうか。

「よく眠れた?」
「え、あー、うん」
「ほんとはね、硝子に聞いてたの。悟が不眠症になったかもって」
「……は……!?」
 誰にも言うなって言ったのに、硝子のやつ……! 気怠げに我が物顔で医務室の薬箱を漁った同級生に心の中で悪態をつく。失恋で不眠になるとかマジで馬鹿すぎるなと改めて思って、こいつの顔を見られない。

「どうせ他の理由でしょとか、もし原因がわたしのことだったとしても大した症状じゃないんでしょ、すぐに忘れちゃってまたいつも通りの悟になるでしょって思ってた。だって浮気してフラれて眠れなくなるって、聞いたことないし」
「……それは、悪かった」
「ごめんは昨日聞いたよ。……そんなにやきもち妬かせたかった?」
「ん……」
「馬鹿だなあ」
 ばか、って言葉にこんなにきゅんとしたのは初めてかもしれない。その台詞とともに間近で笑うなまえについ手が伸びそうになって、慌てて引っ込めた。いまだ笑いが治らないこいつを咎めたい気持ちは、もっと笑顔を見てたい気持ちに天秤が傾いてしまって意味を成さない。

「悟目立つから、いつもハラハラしてたよ」
「え?」
「美人な補助監督とか、かわいい先輩とか、デートの時も色んな女の子が悟のこと見てたもん」
 知らなかった。だって俺が誰といても、いつも通りに見えたから。もしかして、なまえも同じ気持ちだった? じゃあ俺、ほんとに余計なことしてただ泣かせただけじゃねえか。間抜けすぎる。

「……んなの、気付かねえよ」
 昨晩は情けない姿を見せたと思うし、今のだって相当情けない声だったと思う。だけどなまえがちゃんと俺を好きでいてくれていたらしいことを知れて、そんなこともうどうでもよくなった。目の前で好きな奴が笑ってくれているんだから、格好悪いところだって見せていいんだと今更気付く。

「なぁ、おまえのことが好き。もう一回、付き合って」
「うん。わたしも悟のことが好きだよ」
 ちょっと涙目になりながら笑う、その顔が好きだった。ずっと見たいと思っていた表情が見られて、今度こそ我慢できずに抱きしめた。

「……あ、でも、土曜日に傑と出かける約束しちゃったから、それだけ行ってきてもいい?」
「……は? 二人で?」
「うん。前にテレビで坦々麺の美味しいお店が出ててね。辛いメニューが多いから、悟について来てもらうのもなーって思ってたの」
 腕の中でにこにこと笑ってなんて事ないように言ったその言葉に、反射的に「俺もついていく」と慌てて言えば、また可笑しそうに笑った。




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