物心ついた時に婚約が決まっていた、いわゆる許嫁という位置付けの女は、まるで人形のようだった。自分の脳は、そのように記憶している。

10歳になっても、15歳になっても、それは変わらなかった。呪力はそこそこ、術式もそこそこ、容姿はまあまあ。だが性格はそれなりに気に入っていた。
会合だの何だのとなれば、そこまで派手ではないものの皺なく綺麗に着物を着てきちんと指先まで身なりを整え、自分の半歩から一歩後ろを歩き、少し俯いて控えめに挨拶をする。そんな理想の振る舞いができる女だった。

ただ、笑わない。笑顔を一度も見たことがない。それが気に入らなかった。仮にも次期当主である自分が、許嫁の知りえない部分があるということが気に食わない。だがどうすれば女が笑うかなど、自分には分からなかった。

そもそも、女の名前はなんというのだったか。何せ格式ばったことが必要な場でしか会わない上、会話もさほど交わさない。故に、名前を呼ぶ必要などなく、実際に暫く呼んでいないので覚えていない。向こうは「直哉さま」とよく呼んでいたけれど。

「なあ」
「はい」
「……あー、なんや。お腹すいてへん? 和菓子とか好きやったら、持ってこさせよか」
「………」

名前は女中に聞いてようやく知ったが、いざとなると呼ぶに呼べない。そして、何か会話をと思って口から出たのはそんな言葉だった。見合いもなく決まった婚約だったものだから、女の好きな食べ物、趣味など、何も知らない。知っているのは出自と術式だけ。

結局その答えを聞く前に付き人に呼び出され、和菓子という限定的な嗜好品が好きなのかどうかさえ、知ることは叶わなかった。

ある日、現当主である父親に呼び出された。任務のことか、鍛錬のことか、それとも禪院家に楯突く輩の始末か何かか。
自分一人呼ばれるなどどうせ面倒事に違いないと、重い腰を上げて部屋へ入れば、父はこともなげにこう言った。

「お前と許嫁との婚姻は破棄することとなった」
「…………は?」
「近いうちに見合い写真を見繕うよう言ってある。何人かに会って次の相手を決めろ」

話は以上だ、と父は言い、いつものように酒を煽った。あの女との婚姻を破棄。意味は分かるが訳は分からず、数秒立ち止まっていると、アルコールの匂いを強めたその声は薄っすらと笑った。

「アレは五条の坊に見初められた」

これが知りたいんだろうとでも言いたげに言った実の父親の言葉が耳朶に響くが、脳への到達にはもう数秒かかった。

「……天才の中の天才かって、あんな人形みたいな愛想の無い女選ぶんや。大層な眼と術式持っとっても結局、乳があったらええんやね」

言い終わりに父の顔を見ることなく、そのまま踵を返した。襖を閉める直前に鼻で笑う声が聞こえて、手のひらに力が入る。

女の名前はついこの間知った。術式は最初から知っている。出自もしかり。それ以外には、人形のように表情が抜け落ちていること。知っていることはこれが全て。

話を詳しく聞けば、呪術高専へ行って同級生である五条悟に出会い、その五条悟が自分との婚姻を破棄させるよう根回しをしたらしい。

五条悟。六眼と無下現呪術の抱き合わせはおよそ数百年ぶり。その才能だけで、たとえば何を成さずとも、生まれた時から特別。手に入らないものはきっと無いのだろうと、初めて五条家と禪院家の次期当主として顔を合わせた時に思ったのは確かに記憶しているが、まさかその手が自身の持ち物に伸びることがあるとは思わなかった。

ほんの一瞬、脳を掠めた殺意。彼女に対してだろうそれは、ただの影となって脳の隙間に紛れた。


▽▲▽▲▽


再開は突然だった。父に話をされた一ヶ月後、任務から帰ると、元許嫁のその女が禪院家の前で車に乗り込もうとするところだった。父親に挨拶でもしたのだろうか。実際に会うのは4ヶ月ぶり。もちろん、4ヶ月前とさほど変わったことはない。

呼びかけたのは、完全に無意識だった。女の名前を呼んだのは、これが初めてだ。

「……お久しぶりでございます」
「久しぶりやね。急に婚約破棄やなんて、つれへんなあ」

名前を呼んだことに女はさして動揺することもなく振り返って、社交辞令をひとつ。それとなく言葉を続けても、女はじっと自分を見ていた。

「五条家の、悟くん? 男前らしいし、ええ男捕まえたんやね。金やら権力やら、キミがそんなんに興味あるとは知らんかったわ」

俺の言葉に嫌悪を覚えるわけでも軽蔑するわけでもなく、ただとびきり目を細め、控えめに口角を上げて、ふわりと女は笑った。いつも人形のようだった女の、初めて見る表情だった。口紅も何も塗っていない健康的な色味の唇が、誘うように開かれる。

「私を『隣』に立たせてくれる、素敵な人ですよ。貴方では到底、敵わないほど」

その言葉を咀嚼する俺を置いて、女はさっさと車に乗り込んだ。
殺せば良かった。此処は禪院家の敷地のすぐ前だ。何の痕跡も残すことなく処理できたはずだった。
女は男を立てるべき。隣に立つなど馬鹿げている。刺されて死ねばいい。俺になら、此処でなら、それができたはずだったのに。

「…………五条悟、ねえ」

あの日の殺意がまさか女ではなく、その男に向いていようとは、俺も、誰も彼も、知る由もないことだった。




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