きっかけなんてどうでもいい。

「……はぁ、もういい。ちょっと消えてくれる? 距離置いた方がいいと思うからさ」

 きっかけや経緯なんてどうでもいい。ただ悟は消えろと、そう言った。仮にも私たちは恋人同士で、だけど最近悟は休みの日になるとどこかへ出かけてしまって、一緒に過ごす時間なんてなかった。

 悟には言ってなかったけど、付き合い始めた時からわたしは自分に自信がなかった。御三家の次期当主と術師の家系ではない一般家庭出身のわたしが釣り合わないなんてことは、最初から分かっていた。それでも彼が好きと言ってくれたから、ここまで恋人でいられたのに。もうわたしのことが嫌いになったならいっそ言ってほしいと、最近はよく思っていたけれど、消えろって言われるのは予想外だったな。

 その日は悟の家からどうやって帰ったか覚えてないけど、気付いたら自分の部屋にいて勝手に涙が溢れていた。W潮時Wという言葉が頭を過ぎる。

 それから、別れ話をされると思うと連絡を取るのも怖くて数日が経った。今日は前からデートの約束していた日だ。きっとキャンセルなんだろうけど一応待ち合わせ場所に行って、もし来なかったら気晴らしにそのまま買い物にでも行こう。そう呑気なことを思って待ち合わせ場所に行けば、彼は現れた。だけどその隣には、綺麗な女の人が立っていた。

「……ぁ、」

 なんで。そう言おうとしたけど、言葉にならなかった。その二人の手が繋がれていて、それが何だかとてもお似合いだったから。

「……あれ、悟さん、えっと、この方はお知り合いですか?」
「……あー……、W同僚Wだよ」

 寄り添う女の人の質問にそう答えた悟に、ガツンと頭を殴られたような衝撃。青天の霹靂って、こういうことを言うんだろう。同僚? 私が? わたしたちはいつの間にか終わっていて、わたしは悟の恋人ではなくなっていたらしい。

「あっ、そうでしたか。ご挨拶が遅れました。私、悟さんの婚約者の──…」

 女の人の言葉が私の鼓膜を震わせて、そこから悟の顔を見ることなく、その女性に軽く会釈をして踵を返した。婚約者と名乗ったその人の名前はもう覚えていない。ただ、私と悟は終わっていて、そしてその人が既に悟と将来を約束しているらしいということだけは分かった。

 最近会えなかったのもそういうことか。それならそうと言ってくれたら良かったのに。彼女面して色々言っちゃったから、悟は私に苛ついたのかな。
 ネガティブな思考は止まることを知らず、心臓が痛くて苦しくてもう涙も出なくて、気付いたら指先に呪力を込めていた。

 私には、誰にも言っていない術式の使い道がある。右手の指先に呪力を溜めて、そっとこめかみに触れた。

 夜蛾先生も含めてみんなに話している術式の効果は、呪霊に対してはまた違うけれど、対呪詛師であれば神経に関与し、脳から伝達する信号を乱すことで、触れたものの動きを鈍らせることができるというもの。だけど本当は記憶を操作することもできる。呪力を食う上にそもそも必要な場面がないから今まで使ったことはなかった。そういえば昔、硝子にだけ言ったかもしれない。彼女が覚えているかは分からないけど。

「もう、いいや」

 記憶を消す場合、術式を使ってから100時間後に発動する。100時間その人に会わないことが発動の条件として課した縛り。破れば──つまり100時間以内に一目でも会えば、この術式は成功しない。

 今の時刻はちょうど12時。今から約4日間。時間としては4日後の16時頃だろうか。その時間になったら悟のことは全部忘れられる。この締め付けるような胸の痛みだって、他の誰かと手を繋いで歩く悟の姿だって、あの日消えろと言われたその冷たい声や視線だって忘れて、楽になれるんだ。



 術式を自身に使い、そうして何も変わらずに朝が来て夜が来る、なんてことない日常。悟からの連絡は来ないまま3日が過ぎ、いよいよ4日後。ふと時計を見ると時刻は奇しくもあの日と同じ、12時。それでも、ただ任務に行くだけの日常。

 14時頃に現場に到着し、補助監督が帳を下ろしている間に、「今日会える?」とメッセージを送ってみる。忙しい悟のことだ、当然、すぐに既読になんてならない。

 わたしはどうしたいんだろう。会って術式が失敗する、それを望んでいるんだろうか。なんて、あの日すべてを忘れる覚悟をしたはずなのに自分の弱さに苦笑する。

 どっちみち、今更だ。任務が終わって家に帰る頃には、晩ご飯の準備をする時間なんだから。きっといつの間にか16時を過ぎていて、忘れたことすら忘れている。



 その日の任務は二級呪霊を祓うものだったはずだけど、それらを終えた時、思いがけず大きな呪力を肌で感じた。一級相当の呪霊とやり合うのは久しぶりで、少し嫌な汗をかく。どうにか祓ったが一度壁に頭を打ちつけたためか、外傷は大したことないのに平衡感覚が馬鹿になっていて体がふらつく。
 そういえば、今は何時だろう? そして悟の返事はどうだろうか。スマートフォンを操作してメッセージを見ると、悟からの返信。

『今日は予定があるから会えない』

「……そっか」

 ぐらりと揺れて、霞む視界。脳を揺らされたせいで意識が途切れそうになる。帳の外で待つ補助監督に無事を伝えないと心配をかけてしまうのに、頭が回らない。この怪我だけで死にはしないと思うけど、すぐに動くのは難しそうだ。わたしの術式が発動するまであと1時間もない。やっぱり駄目だったな。そもそもあの女の人といるかもしれないし、デート中ならそりゃわたしなんかに会えないよね。

 次に目が覚めたら、悟のことは覚えていない。この術式を使ったことすらも全部忘れている。
 忘れてからもう一度思い出す方法は一応あるけれど、私以外に知っている人はいないしその条件が偶然成立することはない。ぐらつく視界を必死で保つものの座ってもいられなくて、仕方なく力を抜いて倒れ込む。

『今までありがとう』

 血がついたスマートフォンを操作してどうにかそれだけを送って、そして目眩と頭の鈍痛に誘われるようにして意識を手放した。涙が伝って頬が濡れた感触だけが妙にリアルだった。

 ああ、わたしはこんなにも、彼を愛してしまっていたらしい。





▽▲▽▲▽





 硝子から「あの子の意識が戻った」と連絡があった。任務は一瞬で終わらせて、すぐに高専へ飛ぶ。






 数日前。彼女からの「会える?」という内容のメッセージに、五条家の会合に呼ばれていて苛ついていた自分がそっけなく「会えない」と返した、その数分後。次いで届いたメッセージに、生まれて初めて心臓が凍った。

『今までありがとう』

「…………は?」

 別れ話なんかじゃなくまるで最後の言葉みたいなそれ。許嫁なんか放って家を飛び出し、伊地知に電話して、彼女に割り当てられた任務について聞き出す。彼女の任務の場所は此処から遠く、術式を使って飛んでも時間がかかった。補助監督はちょうど捜索のために術師を手配しようとしていたところだったようで、帳は上がったのに帰還しないのだと不安げな顔で僕を見た。僕が行くからと増援は断り、すぐに廃ビルに入って呪力を探る。

 今までありがとうなんて、死の間際の最期の言葉みたいな真似、やめてよ。冗談にしては笑えないよ。あんな後味悪いまま謝ることもできなくて、そのまま君に会えないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。

 幸いなことに、彼女はすぐに見つかった。頭から血を流していたので見つけた瞬間は肝が冷えたが、それ以外に大きな傷や出血は見当たらない。内臓などが傷付いている気配もなく、呼吸や心拍の乱れも然程ないその状態に、少し安堵する。

 『今までありがとう』なんてやっぱり、大袈裟だったんだ。妙な胸騒ぎはするものの、気のせいだと頭を振り、そのまま高専へ連れて行き、硝子に治療を頼んだ。






 言い訳になるが、連日、家の奴に呼び出されて苛ついていた。家が無理矢理決めた婚約者の女に会うことを渋る僕を説得しようとしつこい、血筋にうるさい奴ら。

 彼女に酷い言葉を浴びせてしまった数日後、約束していたデートは無しになってしまったかなと思いつつ、もしも来てくれるならばと待ち合わせ場所へ行った時、偶然会った自身の婚約者。この女は、俺が婚約を解消しようとしていることは知らず、やんわりとデートを強請ってくる。そしてその最悪なタイミングで、彼女は来てしまった。

 その女がいる前で彼女のことを恋人だと言えば、家の奴らがまた騒ぎ立てて面倒なことになるのが、目に見えていた。だから咄嗟にああ言ったけど、その時の彼女の傷付いた顔が、頭から離れなくて。その後謝ろうにも勇気が出す、切り出されるかもしれない別れの言葉を考えて怖気付いた。



 あの後、次に会った時どんな顔をしたらいいんだろう、どう謝ろう、どうやって説明したら誤解が解けるだろうなんて悠長なことを言っている場合ではなかったのだと本格的に思い知らされたのは、彼女が目覚めたという連絡を僕に寄越した硝子に、医務室の前で会った時だった。

「硝子、あの子は、」
「命に別状はないし、頭を打ってるから一応大事を取るってだけで、来週には退院できる。
ただ──……、……いや、これは実際に会ったほうが早いか」

 取り乱すなよ、と念押しして硝子が医務室の扉を開けた。ドクンと心臓が大きく軋む。長年の付き合いだ。彼女の身に何かよくないことが起こっているのだということぐらい分かる。しかし、それでも予想できなかったこと。

「薬は飲んだか?」
「うん。ありがとう、硝子」

 にこりと硝子に笑顔を見せる彼女。元気そうで、まずは安心した。笑った顔を久しぶりに見た気がする。その笑顔を酷いことをした僕にも向けてくれるだろうかと、結果としてまるで見当違いなことを考えた僕を、この世の悪魔も天使も神や仏ですらも、高らかに嘲笑ったような気配がした。

「……えっと、その人が……?」
「ああ。五条悟。アンタを此処に運んできた特級術師なんだが、……こいつのこと、やっぱり分からないか?」
「うん……。すみません、えっと、五条さん……?」
「───……」

 何が起きているのか、分からなかった。

 心臓が痛い。呼吸が浅い。吐き気も迫り上がる。脳が、身体のすべてが、彼女の言葉を理解することを拒否しようと躍起になっている。

 五条さん。そんな呼び方、学生の時の付き合っていなかった頃ですら呼ばれたことがない。まだ怒ってるの、なんて言えるはずもなかった。彼女はまるで初対面の人間を見るような表情で、僕を見上げていたから。

 冗談? いや、彼女はそんな冗談や演技ができるタイプじゃない。じゃあ何かの術式の影響? 咄嗟に目隠しを下ろして視てみても、呪霊の残穢は感じられない。たとえば彼女の内部に忌々しい呪霊の術式が侵食していたとしても、この眼には写るはずなのに。

 見る限り、硝子のことは覚えている。それが意味すること。彼女は僕のことだけを忘れたんじゃないか、という可能性。

 その後、彼女にどんな顔でどんな言葉を返したか覚えていない。硝子がその場を適当に誤魔化して僕を廊下に連れ出し、医務室から十分に離れたところで、ぽつりと呟いた。

「昔、あの子に聞いたことがある。あの子の、術式について」

 術式。彼女自身の。
 考えないようにしていたその可能性。彼女の体から異質な呪力は感じられなかった。頭を強く打った物理的な要因による記憶喪失の可能性だってある。だけど彼女の頭部は、切れていて出血こそあるがそこまで大きな衝撃は受けていないというのが、怪我の具合を診た時の硝子の判断。

「記憶を、操作できると言っていた」
「……記憶を……」
「特定の誰かの記憶を消す時は、術式を使ってから100時間、その『誰か』に会わないのが、発動のための縛りだと言ってたはずだ」

 硝子はそれだけ言って踵を返した。きっと、知っていることは本当にそれだけなんだろう。

 100時間。約4日間。彼女が任務で怪我を負った日の、その4日前は? 婚約者といる時に、彼女と鉢合わせた日だ。

 怪我をした彼女を助けたあの日──100時間という猶予があったにも関わらず術式が発動したと思われるあの日、彼女が「今日会える?」という連絡を僕にしてきたのは、もしかして記憶が消える日の、最後の数時間だったんじゃないか? 任務の前に連絡を入れてもし僕から会えるという返事が返ってきたら、任務の後、術式が発動してしまう前に僕に会って、術式を発動させないための、最後の賭けだったとしたら?

 あの『今までありがとう』は、僕を忘れる前の、最後の。

「……ほんと、馬鹿だね」

 自分自身の何もかもが馬鹿らしくて、つい自嘲する。彼女に言った言葉を思い出した。僕が彼女に消えろと、そう言っただろうが。彼女は自分の出来うる限り、消えるに限りなく近い方法で、僕の元を去ろうとした。彼女にとっての僕は同級生としての思い出すらない、本当に今日会ったばかりの他人になったのだ。

 高専の時から積み重ねてきた思い出。僕に恋をしてくれていた気持ち、愛情。それらは彼女の中には既に無い。

 今の彼女は僕のせいで悲しむなんてこともなくて、だからあの日のように傷付いた顔を見ることもきっとない。さっき硝子に見せたような笑顔で日々を過ごして、そして優しい彼女のことだから「はじめまして」からもう一度仲良くなれば、僕にも同じ笑顔を向けてくれるようになるかもしれない。

 このまま僕と彼女は今日出会った人間として、他人として過ごす。それが今の彼女にとっての幸せなのだろうと、分かっているけれど。

 手放したくなくて、もう一度恋人として僕に笑ってほしくて、何よりあの日のことやこれまでのことを謝りたくて、怒ってほしくて。つい何もかもの願いが溢れかけたけれど、喉と唇を跨いで溢れたのは掠れた呼吸だけ。

 ああ、僕はこんなにも彼女のことを、愛してしまっているのだ。




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