寂しかった。
そんなものが言い訳になるなら、世の中のカップルはそれが原因で破局などしないのであって、つまりはそんな一人の女の気持ちなど、誰にも何処にも通用しない、ぺらぺらの紙の盾だ。

結論だけを述べるなら、浮気をしてしまった。悟じゃない人と寝てしまった。名前も知らない。年齢も知らない。ただ、バーで意気投合しただけの男。薬指に指輪があったから、抱かれる直前にそれを外してと頼んだことだけを覚えている。あとは何も記憶になく、朝感じた腰の鈍痛だけがリアルだった。

寂しかったのだ。
大好きだった人が何処かへいってしまったあの日から心にぽっかりと穴が空いたようで、それを見かねた悟が自分と恋人にならないかと言ったのが10年前、一緒に住まないかと私に持ちかけたのが、3年前。大好きだった人が、紛れもない悟の手によってこの世からいなくなったのは、昨年のこと。それでも私と悟は、変わらず恋人同士のままだ。

そんな悟は3ヶ月の海外出張で、広い部屋にぽつんと私だけが取り残されたような感覚。悟は日頃から、私に無理をさせたくないと言って、夜の恋人らしい触れ合いは滅多になく、だけど彼から注がれる愛情は本物だった。たまにベッドへ誘われたと思ったら、優しく優しく、甘く、心地よい胸焼けを覚えるほどに丁寧に抱いてくれる。
私はそんな風に愛してくれる悟といると、自分があまりにも黒く汚い存在のように感じられることがあった。それは彼の見目麗しいその顔か、完璧な身体か、少々難のあるはずの性格が私の前では鳴りを潜めることが要因なのか、自分でも分からない。
とにかく彼がこれだけ長期間いないのは初めてで、いつもお姫様にでもなったかのように愛されていたせいか、悟がいなくて一人になった途端に、その心がどうしてか渇いてしまった。

悟が旅だって2週間。アルコールでその渇きを潤すために行った筈のバーで、思いの外会話のテンポが合う男性と出会い、5杯目のカクテルの、濃いめに入れてもらったカシスリキュールが頭の螺子をゆるめたことも相まって、なし崩しにホテルへ連れ立った。柔和な雰囲気で、悟よりは低いけどそこそこに背の高い男性だった。黒い髪と、笑うたび細められる黒い瞳が気に入った。

翌朝うっすらと思い出したその男性との会話は、彼は奥さんとレスで、倦怠期で悩んでいるというものだった気がする。彼は結婚している身である分、私よりも更に『寂しかった』では済まないが、私とはもう会うこともないので、バレなければ大丈夫だろう。結婚指輪を嵌めたその男を見送って、少しホテルでぼんやりした後、身支度を整えて帰宅した。

バレなければ大丈夫なのは私も同じかもしれないけど、自分は案外真面目な性格だったらしい。初めての『浮気』という行為が思ったより精神を蝕んでいて、悟のいない冷たいベッドで眠れない夜が続いた。

「……先生、大丈夫ですか?」
「え?」
「なんだか疲れているような気がしたので」

この乙骨という生徒は、私の中で特別で、それを差し引いても少し異質だった。二年生で特級術師。もう解呪したとはいえ、彼が入学した当初は、被呪者が呪術高専に通うなんてと色々な騒ぎになったことを覚えている。そんな特殊な境遇でありながら、彼は穏やかで優しい性格をしていた。あたかも普通の青年に見えること、それがまったくもって普通ではなかった。

だからだろうか。異常なまでに『普通に見える』彼と、この間バーで親身に私の話を聞いてくれた男性の姿が重なった。
気付けば、悟と住んでいる自分の家に彼を招き、簡単な料理を振る舞い、一本だけと開けた缶チューハイを頼りに、私は自身の過ちを彼に曝け出していた。

「記憶がなくなるほどお酒を飲むのは危ないので、その点は少し控えられた方が良いと思いますけど……。一度きりなわけですし、寝不足になるほど気に病まれていると伝えれば、五条先生なら許してくれるんじゃないでしょうか」

彼はそう言って、私の意見を否定せず、かといって大きく肯定もせず、ただ話を聞いてくれた。二人分の洗い物をしてくれて、テーブルも拭いてくれた。悟と食事をした時のことを思い出すその気遣いに少しきゅんとしてしまって、この広い家に誰かといることの心地よさだと、自分に言い聞かせた。

結局、私のせいで終電を逃した彼はそのまま泊まっていくことになり、私と悟が眠るためのキングサイズのベッドに一緒に入る。そして彼は、そうすることが当たり前のように、私を腕に抱いて眠った。その日の私は久しぶりに、自分でも驚くほどよく眠れた。

それからも、休みの前日に彼はやってきた。高専の寮は学生の出入りに関しては放任で、任務や鍛錬に影響さえなければ、友人の家に泊まると事づけるだけで外泊の許可が降りる。とはいえ、ほぼ毎週となると流石に同級生などにも怪しまれるだろうと言えば、「彼女ができたって言ってあるから大丈夫です」と穏やかに笑う。そして今日も、私の安眠を手伝ってくれる。はずだった。

「ねえ、先生」
「ん……?」
「例の男は、先生のどこに触れたんですか?」

その言葉を最後に、彼は薄暗い寝室で私に跨った。こちらを見下ろす、その異常なまでに穏やかな瞳。シーツに縫い付けられた腕は痛くはなく、だけど絶対に逃げられないと思わせる力で抑えられていて困惑が増した。

「乙骨くん、待って」
「五条先生は、どんな風に触れるんですか? 貴女のことをとても大切にしているあの人のことだからきっと、優しく丁寧に抱くんでしょうね」
「っ、ん」

私の首元へ顔をうずめた彼は唇で肌を辿りながら、徐に鎖骨の下に吸い付いた。部屋着のスウェットの襟ぐりを伸ばすようにして付けられたそれは、キスマークに違いなかった。だけど私はといえば、こんな事態になっても、頭の中の警鐘がひとつも鳴らない。

「五条先生のあの眼は、この呪術界のたくさんのことがよく視える。……だからきっと、大事な先生のことが、ときどき見えなくなるんです」

私のことを慰めると同時に、まるで悟を庇うようにも捉えられるその言葉は、これから行われる不道徳な行為の正当性を求めていると、安易に理解できた。

「……乙骨くんには、里香ちゃんがいるんじゃないの」
「ずるい言い方だなあ。……でも、そうですね。だからこれは、知らない男と慰め合った夜と、なんら変わりありません」

服の裾から手が侵入して、臍のあたりをつうとなぞられる。体温の低い手に、ひくりと息が詰まった。

「だけど僕は、術師としても男としても未熟なので、あまり色々なことを考えられないんです」
「ぅ、……あ、」
「貴女が五条先生のことを考えているなら、ここで止めます。だけど、『もういない男』のことを考えているなら、僕をその人だと思えばいい。……僕なら今、貴女だけを、思うままに愛せます」

下着の上から、胸の尖りを一瞬掠めた指。その手は悟のものと比べて小さく、他にも線の細く見える体躯、あどけなさの残る顔、獲物を前にした余裕のない表情もすべて、私“を”愛した男のものとはかけ離れているのに、その危うさと、髪や瞳の漆黒だけが、私“が”愛した男と似ていた。
あの夜に一度だけ抱かれた名前も知らない男も、黒い髪と黒の瞳を持っていて、年齢ならばあちらの方が近いのに。この青年にだけ彼を重ねてしまうのは、この子が『彼ら』と同じ特級呪術師だからだろうか。

この乙骨という生徒は、私の中で特別だった。あの人と戦い、暴挙を止め、最後には勝利した。とどめを刺したのは悟だけれど、この青年との戦いであの人は──傑は、致命傷を負ったと聞く。

私は寂しかったのだ。
それは、傑を失ったあの日からずっと消えることはない。悟が側にいてくれても、傑に雰囲気の似た男と一夜を過ごしても消えない。そしてそれはきっと私の中のすべての感情に勘付いた、傑に打ち勝ったこの青年に今から抱かれようと、何一つ薄れることはない。

「……すぐ、る」

だというのに、だからこんな行為はやめるべきななのに、縋らずにはいられなかった。私を大切に大切に、宝物のように愛してくれる悟には、決してさらけ出せない気持ち。それごと抱いてくれるというこの年の離れた生徒に、つけ込まれずにいられなかった。

目尻に溢れた涙は舐め取られたけれど、傑、と呼び続けるこの口が塞がれることは、この行為が終わるまで、終ぞ無かった。




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