※not離反if





 酔うと人間の本性が出ると言う。笑い上戸、泣き上戸、甘え上戸など色々あるけれど、これは予想していなかった。
 そもそもいつだって夏油は理性的で、今までのお酒の席でだって自分の上限を理解して、うまくコントロールしていたから。

「……ん、んぅ、」
「なまえ、くち、あけて」

 唇がくっついて、離れて、またくっついて。後頭部に回された手のおかげで逃れられない。何を馬鹿なことを、と思うのに、腰にも回された腕だとか、熱っぽい視線だとか、時折唇を食むその仕草に絆されて薄く口を開けてしまうわたしは、もはや同罪なんだろうな。
 それにしてもおかしい。たとえば夏油が酔ったらキス魔になる類の人間だったとしても、そうだとしてもだ。わたしたちは付き合ってなどいなくて、たしか夏油には彼女がいるのではなかったか。よくコロコロと変わるから、今どんな女の子なのか知らないけど。

 何度かわたしの名前を呼んではいるけど、きっと彼女だかセフレだかと間違えているんだろうから、拒んであげないといけないのに。まるで自分が夏油の特別な存在になったような感覚がどうしてか心地よくて、つい流されてしまう。

 そもそも、ただわたしの家で、下戸の五条を除いた3人で宅飲みをするだけの筈だった。それなのに硝子に急患の連絡が入って、お酒を飲もうがザルな硝子はそれを了承して、渋々といった様子で高専に向かった。迎えの車はすぐに来たので、その術師が助かることを祈る。ともかくそうして、わたしと夏油は仕切り直して新しく各自のアルコールの缶を開けた。

 私が2杯目のチューハイに口をつける頃には夏油は5本目の缶ビールのプルタブを開けていて、今日はペースが早いなとは思っていた。まあ外では羽目を外しにくいし、宅飲みぐらい好きにさせようと呑気に思っていたわたしに夏油が近づき、カーペットに置いていたわたしの手にその大きな手が重なった。わたしがそれに気付き思わず夏油の方を振り向いたとき、不意に唇が塞がれたのだ。

 そうして今に至るのだけれど、経緯をどうにか頭で整理してみても、何故こうなったのかはやっぱり分からない。

 舌を絡め取られ、なぞり合う感覚に背骨が震える。ちゅく、ちゅ、ぴちゃ。テレビはいつの間にか消されていて、それらしい水音と互いの吐息だけが鼓膜を埋め尽くす。このままではまずいと、夏油を正気に戻さなければと、頭の片隅では思うのに。さすがモテる男は違うというべきか、夏油の巧みなそれに気持ちよくなってしまっている自分がいて、頭が回らなくなってくる。

 それでもどうにか夏油の胸元のシャツを適当に掴んで腕を突っ張ると、ようやく唇が離れた。最後にぺろりと舌で下唇を舐めたのは間違いなく余計だと思ったけど、少し乗ってしまったわたしも悪いので、水に流すことにした。

「……夏油、飲み過ぎ。ほら水、飲んで」
「……酔ってないよ」
「酔っ払いはみんなそう言うんだって」
「違う」

 いまいち要領を得ないその様子は、普段の頭の回転が早い夏油にしてはあまりに珍しいけれど、まあ酔っているので仕方がない。主語がないので何が違うのかも分からなくて、とにかくペットボトルからガラスのコップに移し替えた水を押し付ける。ゆっくりとそれを受け取り、ようやく口をつけてくれた。さてわたしも人のことは言えないので、同じように水を飲んで酔いを醒ます。

「どうしてキス、拒まなかったの」
「……まあ、いきなりだったし、わたしも酔ってたしね」

 自分でしておいてどんな質問だと思うけど、とりあえず律儀に答える。正直なことを言うとキスが上手くて気持ちよかったからというのが6割くらいを占めるかもしれないけど、さすがにわたしにも羞恥心ってものがある。それにこのままずるずると曖昧に受け入れて、夏油のセフレの一人になったりしたら、それはそれで同期としてこの先が色々やりづらい。

「まあ、忘れようよ。わたしもそうするし」
「……じゃあ、もう一回、したい」
「…………は?」
「なまえは、酔っ払いの愚行だと思って、ぜんぶ忘れてくれ。私は、覚えているから」

 そうして肩を抱かれ、距離が近づき、再び唇が重なる。さっきよりも強引に舌が捩じ込まれ、好き勝手に口内をまさぐる。不意を突かれた時よりも、よほど今の方が混乱した。何が起きているのか分からない。
 夏油は彼女と勘違いしているのではなく、間違いなくわたしだと認識していて、その上でキスをしている。ということだけは、何とか理解できるけど。

「ん、ゃ……っ、げと、まって」
「……は、ぁ」
「なんで、こんなことすんの。彼女いたんじゃ、ないの」
「……きみが好きだから。あと、彼女はいない」
「は?」
「続き、いい?」
「よ、くないでしょ……!」

 夏油の唇との間に手を入れ、いまだわたしにキスをしようと迫るその口を覆った。不満そうな顔をしながらも、おとなしくなるのは少しかわいいかもしれないけど、騙されてはいけない。そもそもが百戦錬磨なのだから。

 いや、というか、好き?

 さっき言われたことを反芻し、流石に聞き間違いでは済ませられないそのストレートな言葉に、脳が一瞬で茹だりそうになる。理解してからは諸々それどころではなくて、つい夏油の口を塞いでいた手を外して問いかける。

「え、なに、夏油、わたしのこと好きなの……?」
「気付いていないのはきみぐらいだよ」
「本当に……? や、でもさ、彼女いたよね?」
「きみが他の男と付き合っている間だけはね」
「えっと、ちなみに、いつから……」
「高専の時から、ずっと」

 まさに寝耳に水、何もかも初耳である。

 思い返せば確かに、そうと取れなくもないアプローチがあったような気がしなくもない。だけど本当にその程度で、夏油から何か特別な感情を感じたことはなかったように思う。何せ、割と誰にでも優しいのだ。硝子はクズだと言うし、まあ実際そういう部分もあるかもしれないけど、基本的には愛想がよくて優しい男という印象に違いはない。

「高専のときからあまりに男として意識されないから、きみのことは諦めようと思って、適当に彼女を作ってた」
「それは、ごめん……?」
「だけど今日、私と二人きりなのにきみがあまりに無防備だったから、どうせ何とも思われていないなら嫌われてもさほど変わらないと思って、アルコールの力を借りた。まあ、それほど酔えなかったけど」
「………」
「ずっと触れたかった。きみが忘れるって言うなら、それでもいいから。今夜一度だけ、私にすべてを許してくれないか」

 夏油のそれが、そういう意味だということは分かってる。さっきのキスを見る限り、きっとこの先の行為だってそれなりに慣れていて上手いのだろうし、わたしは気持ちいい思いができるかもしれない。

 だけど、無理だ。わたしの顔が熱いのは、アルコールのせいじゃない。熱を孕んだ目も、いつもの強さ逞しさは見る影もないその頼りなさげな声も、縋るような言葉も、全部がわたしの知らない夏油で、何故だか心臓が忙しそうに胸を叩く。こんな状態で、わたしを好きだと言う夏油に抱かれたら、それこそおかしくなってしまう。

「あの、夏油」
「……ごめん、忘れてくれ。今日はもう帰るから、」
「ちゃんと考えるから、もうちょっと時間、もらってもいい?」
「…………え」

 とりあえず自分の気持ちも分からないので、時間がほしくてそう言ったけど。帰ろうとしていた夏油の言葉を遮ってまでこんなことを言って、弄ぶみたいに思われてしまっただろうか。「別にキープとかそういうのじゃないから、わたしが考えてる間に他に好きな人ができたら、もちろんその人と付き合っていいし」とよく分からないことを追加で口走り、より焦りが増した。

 夏油は暫しの沈黙のあと、ようやく口を開いた。

「いつまでも待つから、イエスだけ聞かせて」
「……モテる男ってすごいね」
「もう開き直っただけだよ。あと単純に、きみにフラれたら立ち直れない」

 夏油はそれだけ言い残して、ソファの背にかけられていた上着に手を伸ばした。え、終電ないのに帰るの? と思わず言った私に、苦く笑って言う。

「後片付けも碌にしなくて申し訳ないけど、今日は帰るよ。タクシーを拾うか、こっそり呪霊を使うから」
「けど、」
「これ以上ここにいて、きみに何もしない自信がないんだ」

 じゃあまたね、戸締りはきちんとするんだよ、とお母さんみたいなことを言って、リビングを出ていく。少し呆けていたわたしが慌てて玄関に行くと、靴を履き終えた夏油が振り返る。改めて私服を見ると、濃紺のコートの下に、白のシンプルなカットソーと、チャコールグレーの細身なパンツ。スタイルが良いことも相まってそれはもうお洒落で、モテるだろうなと思う。そんな夏油が、さして女らしくもない自分を好きだとか、にわかに信じがたいけれど。

「あ、えっと、おやすみ。気をつけてね」
「ありがとう。おやすみ」

 さらりと前髪をかき分けられて、額にキスが落とされる。その仕草も、やわらかく細められた視線も、私を好きだという男のそれに違いはなかった。

 玄関のドアが閉まって、へたりとその場に座り込んだ。明日からどうしたらいいんだろう。いや、明日はわたしも夏油も休みだから会わないけど、来週あたりに4人で会うことになっていた気がするし、その前に高専なんかでたまたま会うことだってある。

 顔に手をやるとあまりに熱くて、その熱さをアルコールのせいにしたくて、とりあえず冷たい水を飲むため、冷蔵庫に向かった。

 わたしのマンションのエントランスを出てすぐのところに、同じく顔を手で覆ってしゃがみ込む夏油がいたことなど、知る由もない。




list

TOP