何が正しいのか。何が正しかったのか。どうすればよかったのか。どうすれば傑を止められたのか。
 そもそも、傑は間違っていたのか? 間違っているのは、本当に、傑の方なのか?

 あの日傑を殺せなかった俺は、どっちだろうか。

 傑は俺なんかよりよほど正論を剣や盾として振りかざすことができるタイプで、助けるべきもの、守るべきこと、それらが明確にあった。俺は弱い奴らのことを考えるのなんか面倒で、だから傑が善だと言えば、それを俺の中の善とした。

 次からは、今からは、何を基準にして呪術師をやればいい? 何を助けて、何を守って、何を殺せばいい?

「五条くん」
「……んだよ」
「……ひどい顔してるね。ちゃんと寝てる?」

 俺にへらりと微笑んだそいつに、腹の底が苛立って唸るのを感じる。

「……たかだか二級どまりの雑魚が、気安く話しかけんな」
「うん、ごめん」
「俺は弱ぇ奴は嫌いなんだよ。どうせ一生かかっても一級にも上がれねえだろ」
「……うん、そうだね。ごめんね」

 俺の理不尽で身勝手な暴言にも表情を変えず、にこにこ、へらへら。いつも通りの馬鹿らしい笑顔を崩さないこいつにまたイライラする。分かってんなら失せろと言って歩き出せば、「五条くんにお願いがあって」と言うので、思わず立ち止まる。欲の無さそうな印象だったこいつが俺にお願いなんか、高専に入って同期としてやってきて、初めて聞いたからだ。

「なんでもするから、わたしを側に置いて、わたしの味方になってほしい」
「……あ゛? ふざけんなよ。なんで俺が、」
「わたしの家族、非術師なの。いつか危ない目に遭いそうになったら、最強の五条くんが守ってくれないかなって」

 もちろん、五条くんが本気出したら誰も勝てないから、非術師を守る側でいてほしいっていう、わたしの我儘。もしも五条くんの正義を、わたしに委ねてくれるなら、何だってするよ。

 俺が凄んでも殺気をぶつけても、顔色を変えずにそんなことをつらつらと述べるみょうじ。それが本心かどうかはこの際、どうでも良かった。傑がいなくなって、行動理由に歪みが生じていた俺をこの上なく苛つかせるのには十分だった。

「……なら今夜、俺の部屋に来て、俺のこと慰めろよ」
「え?」
「なんでもするんだろ」

 さっきまでの笑顔に代わり、ほんの少しではあるけど目を丸くしたみょうじを見るのは、なんとなく気分が良かった。
 だけどそれも一瞬で、またすぐにいつもの間抜けな笑顔になって「いいよ」と言った。心の中で舌打ちする。何も面白くなんか無いのに、何で笑ってんだ。意味分かんねぇ。

 そうして、本当に夜に俺の部屋を訪れたみょうじを、手酷く好き勝手に抱いた。 
 みょうじは処女でそれなりに痛がっていたけれど、ひとつも声を出さなかった。こいつは弱いから任務や鍛錬でよく怪我をしていたし、痛みにはそこそこ耐性があるのかもしれない。

 そこからは呼べば部屋に来るようになって、そして俺が部屋へ行けばなんの戸惑いもなく招き入れられるようになった。思春期男子としての性欲も相まって、たびたび身体を重ねた。身体の相性は悪くなく、日々の任務や家の連中のことで溜まったストレスを、みょうじを抱くことで解消していた。

 時々どちらかの部屋へ行って、俺が求める日は身体を重ねる。ただ、俺の部屋でそういうことをした時には朝になるとあいつはもう隣にいないことが多く、それがなんとなく気に食わなくなって、それに気付いてから俺は毎回、あいつの部屋に行くようになった。
 あいつは声を出さないから、誰かに聞かれることもない。硝子に小言を言われても面倒だし、女子寮にいることがバレて説教されるのもダルいから、それは都合がいいことのはずなのに、俺の腕の中で乱れるこいつの甘い声のひとつくらいを聞きたいだとか、そんなことを思い始めた俺は、たぶんどこかがおかしい。

 ある日の朝、隣で眠っていたはずのみょうじがいつも通り先に起きて、シャワーを浴びて、少し血色の良くなった顔で部屋に戻ってきていた。
 いつもなら俺が起きるまで本でも読むか、音を小さくしてテレビを見たりするのに、今日はクローゼットからワンピースを取り出して、そして鏡の前で化粧をしていた。
 まるでデートにでも行くようなそれに、胸のあたりがチリチリと焼けて、気付いたら声をかけていた。

「どっか行くの」
「あ、五条くん。おはよう」
「……、で、誰とどこ行くわけ」

 俺の質問を気にも留めず、呑気に朝の挨拶をしてみせるこいつに、微かな憤りを覚える。挨拶を返さなかったのは、答えが返ってこないことへのその苛立ちだとか、たぶんそんな理由。餓鬼だとは思うけど、何故そんな気分になっているのかは分からないので仕方ない。

「あぁ、一人だよ。前にテレビで見たカフェに行きたいんだ。そこ、ワッフルとパフェが美味しいんだって」
「一人でんなもん食うのかよ」
「やっぱり寂しいかな。あ、五条くんも一緒に行かない? たまには外で甘いもの食べようよ」

 甘いものは好きだ。それを食べに行くだけ。別に普通のことだから、そいつの誘いに二つ返事で了承した俺は、軽く化粧をして私服に身を包んだ、見慣れない姿のみょうじと、街へ繰り出していた。周りのカップルに倣って視界の端でそのゆらゆら揺れるその左手を掴みそうになって、そんな間柄じゃないことに気付き、右手をズボンのポケットにいれた。

 目的のカフェに行って、互いにワッフルとパフェを注文する。評判通りの美味さで、少しずつ気分が晴れていく。傑のことで、そしてそんな心情でこなす日々の任務で擦り切れた心が、この甘さと、目の前に座る無邪気なみょうじの笑顔とで、修復されていく。
 カフェを出た後は、みょうじの行きたいところへ付き合った。今までは控えめで受動的な性格だと思っていたが、次はここに行きたい、このお店を見たい、とずいぶん気ままに言うみょうじに振り回された。
 だけどそれも案外悪くなかった。任務以外で一日外の空気を吸うのは久しぶりで、淀んだ肺の空気が入れ替わる心地だった。

 その日は何の滞りもなく終わったはずだったのに、なぜか最後まで、その空っぽの手が妙に視界にチラついていた。





「……は? 出張?」
「うん。仙台にね、二週間ぐらいかな? 今日のお昼に出発するんだ」

 二週間の長期任務に行く。何気ない会話の中で普通に告げられたので、つい反応が遅れた。こいつと身体を重ねたりせず、理由なく一緒に寝るようにもなってしばらく経った頃の、何の変哲もない日の朝のことだった。あまりにいつも通りで、それがまた気に食わない。

 なんで俺にもっと早く言わないんだ。
 そんな言葉が浮かんですぐに喉で生成されたけど、すんでのところで飲み込んだ。別に、俺にいちいち報告する義務はない。俺だって、こいつに何も言わずに泊まりの任務に行くことだってザラにあった。分かっているのにもやもやするのは、ただ俺がどこかおかしくなってるだけ。

 そうして、こいつが隣にいることが当たり前になってから初めて、しばらく離れて過ごすことになった。あいつは律儀に毎晩メールを送ってきて、それに返したり返さなかったりした。メールは送ってくるくせに電話はかけてこないことに、意味もなくイラついたけど、じゃあ自分からかけるかというとそれは何だか癪で、結局ケータイは閉じてそこらに放り投げた。





 あいつが帰ってくる予定だと言っていた日の朝、たまたま出くわした硝子に「なまえにクズなことしてないだろうな」と言って睨まれ、そこからみょうじの話になった。一緒にいるようになった経緯を聞かれたので、あいつが持ちかけた交渉を話す。

「俺に、味方になってほしいって。家族が非術師だから、何かあったら守ってくれって言われたんだよ」
「……家族?」
「あいつも一般家庭出身だろ」
「そうじゃなくて。あの子の両親、あの子が小さい時に、呪霊に襲われて亡くなってるって聞いたけど」
「……は?」

 硝子の言葉に、みょうじがあの日俺に言ってきたことを思い出す。一言一句違わずに覚えているとは言わないが、あいつは間違いなくそう言ったはずだ。それに一人っ子だということもいつか言っていた。その上両親もいないのなら、何のために俺に近付いたのか。

 帰ってきたら、俺に嘘ついたこと、問い詰めてやる。
 そう思っていたのに、あいつは夜になっても帰ってこなかった。毎日届いていたメールも送られてはこず、指先を何十秒か彷徨わせた末に電話をかけてみたけれど、電源が入っていないというアナウンスが流れて、無意識に舌打ちをした。
 たまたま任務が延びただけ。呪霊の発生は波があるし、そんなのはよくあることだ。そう思っても俺は変な胸騒ぎを感じてその日は一睡もできず、寝不足のまま朝になって、それでも結局みょうじは帰ってこなかった。





 呪霊発生の現場に、呪霊とみょうじの残穢と、みょうじのものと思われる多量の血痕があったことから、遺体は見つからないものの、致死にあたるその出血量の多さと、跡形もないことから呪霊の領域に引き摺り込まれた可能性が高く、おそらく生きていないだろうと推測された。そしてその一週間後には、死んだと断定された。
 身体の一部すらも俺の元に帰ってこないとか、だからおまえは万年二級なんだよ。




 その死を受け入れることしかできなかった、その次の日。勝手知ったるあいつの部屋を訪れた。思わずノックをしそうになった手は、虚しく空を切る。

 嗅ぎ慣れたあいつの匂いが残っている気がするその部屋は、当然あの日のままだ。あいつがお気に入りだと言っていたラグマット、テレビのリモコンと読みかけの本がよく置かれていた楕円の白いテーブル、住んでいた家から持ってきたという電気ケトル、よくホットミルクを飲んでいた淡いピンクのマグカップ、たまの休みに活躍する化粧ポーチ。
 数え切れないほど肌を重ねたベッドに座れば、より色濃くあいつの匂いを感じた。変態か俺は。

 ふと見上げた本棚は、見たところ作家もジャンルもばらばらで、雑誌や文庫なども規則性なく収納されている。几帳面に見えていたあいつは、いざ一緒に過ごしてみると案外大雑把なところがあって、そんな性格が本棚から垣間見えた。

 ふと、背表紙がほんの少し他の本よりも飛び出したノートが目について、何気なく手に取った。日記とかならさすがに読まずに処分してやろうと思って表紙を捲ると、W五条くん健やか作戦Wと書かれていて、予想もしていなかった自分の名前に驚く。気付けば次のページを開いていた。

『最近の五条くんはあまり眠れてないみたいで、サングラスで見えにくいけどクマができてるし、なんとなく少しやせたと思う。夏油くんのとき、様子が変なのになんとなく気付いてたのに何もできなかったから、今度は絶対に後悔しないようにやりきることに決めた。』

 なんだこれ。報告書より少し丸っこい字で書かれたそれはスムーズに読み進められるものの、内容が頭に入ってくるのには随分と時間がかかった。

『健康には食事が大切だから、まずは五条くんにちゃんとしたご飯を食べさせること。バランスはともかく、お菓子以外のちゃんとした食事で、栄養を摂れるように。』
 そういえば、あいつといるようになってから、適当だった食事が規則正しくなって、三食しっかり食べるのが当たり前になっていた。

『睡眠も重要だから、とにかく五条くんがきちんと眠れるようにすること。お風呂はちゃんと湯船に浸かってもらって、寝る直前はゲームしたりケータイを見ないように言うようにする。』
 そういえば時々お節介なこと言われていた気がする。少しずつ睡眠時間が戻るようになっていったし、あとはあいつと何もせずにただ一緒に眠るようになってから、夜中に目が覚めることもなくなって、より深く眠れるようになった。

『任務以外にもときどき外に連れ出して、息抜きしてもらう。
◯月×日 追記
五条くんはフルーツの中では苺が好き。パフェをすごく美味しそうに食べてた。ちょっとかわいかった。』
 かわいいとか言われても嬉しくねえ。つーか勝手に見んなよ。おまえも美味そうにワッフル食ってただろ。人のこと言えねえくせに。

『そういう相手も必要だろうから、わたしでよければ、夜のお誘いは断らないこと。あと、スキンケアを怠らないこと。怪我をしたら、すぐに硝子にお世話になること。
きっと五条くんも、傷だらけな人じゃなくて、お肌がきれいな人に触りたいだろうから』
 そんなもん気にしたことはない。おまえだから触ってんだって、おまえだから抱いてんだって、なんで分かんねえんだよ。

『おはようとおやすみとか、ただいまとおかえりとか。そういう何気ないあいさつを、当たり前に返してくれるまで、言い続けること』
 時々、なんとなく照れ臭くなったり変な意地張って、返さなくて悪かった。反省してるから、いつもみたいにただいまって言えよ。次からは全部ちゃんと返すって、約束するから。

『ぜんぶ達成して五条くんが前みたいに元気になって、わたしが一級になったら、五条くんに好きって告白する。
それでいつか、五条くんのことを名前で呼んで、五条くんに名前で呼ばれたい』

「……なまえ」

 最中に何度か呼びそうになっては止めた、その名前を口にする。返事しろよ。呼んでやっただろ。そもそも、そんなことぐらい早く言えよ。名前なんていくらでも呼んでやるし、俺の名前だって好きに呼ばせてやるのに。
 それに一級になったらなんて、もしかして、俺が雑魚とか二級のくせにとか言ったこと、根に持ってんのかよ。悪かったから、謝るから、帰ってきてちゃんと言え。

「……なんで、おまえまでいなくなってんの。なあ、なまえ」

 捲ってみてもその先は白紙で、そんなかわいい我儘が最後のページだった。俺が何を言っても当然、返事なんか返ってこない。だけどノートを閉じた時、背後に一瞬あいつの呪力を感じて、瞬間的に振り向いた。
 だけどそこには誰もいなくて、気のせいかと肩を落としていると、この部屋のちょうど真ん中のあたりに手紙が落ちていた。この部屋に入った時には、絶対になかったものだ。

 少し年季の入ったこのノートと違い、比較的新しそうな白い封筒には「五条くんへ」と書かれていて、柄にもなく呼吸が止まった。


[五条くんへ

この手紙を読む頃には、きっとわたしはこの世にはいないのでしょう。
なんて、ずいぶん大層なこと書いちゃったけど、これはそういう術式を込めた便箋ってだけだから、わたしが特別すごいわけじゃないです。
わたしは弱いからいつ死ぬか分からないので、こうして手紙を残しています。]

 術式。この手紙が現れたのは便箋の効果らしい。条件は分からないがとりあえず、もうこの世にあいつはいないということなんだろう。

[すごくおこがましいけど、この手紙を読む頃には、少しだけでも、わたしはあなたに近づけていますか? 大切に思ってくれていたりしますか?
なんて、意味のない質問でごめんなさい。]

 意味ないなんて言うな。大切だよ。ずっと俺といたくせに分かんねぇかよ。そんなことも知らずに、なんで勝手にいなくなってんだ。

[いつか、呪術師として生きる五条くんの中の何かにヒビが入って、どうでも良くなって全部ぜんぶ壊そうかって思ったとき、ほんのちょっとだけ、頭の片隅にでもいいから、馬鹿で弱いわたしのことを思い出して、思いとどまってほしいです。]

 思い出すどころか、忘れられるわけねぇだろ。あんなに毎日、俺にしつこく構ってきたくせに。

[五条くんにいつか愛を教えられるのがわたしだったらいいのにって、五条くんの側にいるようになってから、ずっと思っていました。]

 愛。知識としては知っていて、だけど縁がないと思っていたものの名前。

[もしもいつか、五条くんが誰か一人を愛したら、五条くんはきっと今よりもっと格好よくなって、強くなって、弱い人に優しくなれると思います。たとえばその中に非術師みたいな、呪いに為す術がない人たちも含まれていたら嬉しいです。
できればわたしが生きているうちに、そんな五条くんを見たかったなあ。]

 もしかして今、教えてくれてんのか。愛ってこんな、苦しくて、しんどくて、心臓の奥が痛くなるもんなの? お前が俺に教えたかったのってこんな気持ちなわけ?
 こんなものが愛だっていうなら、一生知らないままで良かったのに。

[なんて、それらしいことを言ったけど。わたしの中でひそかに実行していた『五条くん健やか作戦』というものを含めて、全部わたしの下心です。]

 それ、さっき見た。勝手に見たのは悪かったけど、人の名前使ってだせぇ作戦名つけてんじゃねえよ。

[五条くんと過ごせて、本当に幸せでした。はじての相手が五条くんで本当に嬉しかったし、5回目の時に初めてキスされたとき、五条くんにとっては何でもないことって分かってても、それだけで心臓が壊れそうなほどドキドキして、その日の夜はあんまり眠れなかったのを覚えています。
初めて二人で出かけた時、五条くんにとってはただのお出かけでも、わたしにとっては立派なデートでした。誘ったのはわたしだけどまさかOKがもらえると思わなくて、心の準備が足りなくてすごく緊張したの。本当は手を繋いでみたかったけど、恋人でもないから言えなかったことだけが、ちょっとだけ心残り。
とにかくわたしにとっては、キスもデートも全部五条くんが初めてでした。重たい女でごめんね。]

 順序なんか全部すっ飛ばして、キスするより先に手ぇ出して、しかも優しくなんかしてやれなくて酷いハジメテだったのに、嬉しかったとか馬鹿じゃねえの。あの日、もっと優しく抱けば良かったって、今頃後悔してるのに。
 キスはなんとなくしたんじゃなくて、ただ純粋におまえが可愛かったから、したくてしたんだよ。その時はそれだけだったけど、もっと意味あるもんにすればよかったって、今更思っても遅いよな。
 あの日カフェに行ったのは、俺だってデートだったって思ってんだよ。手だって繋ごうとしたけどその日は結局できなくて、だけど、またW次Wだってあると思ってたのに。

[五条くんはものすごく強いからきっと大丈夫だと思うけど、長生きして、幸せになってほしいです。]

 無責任なこと言ってんな。幸せになれってんなら、隣で俺を幸せにしてみろよ。

[今までありがとう。あなたのことが本当にずっと、大好きでした。

実はこっそり一級に昇級していた みょうじなまえより]

 一級なんて、いつの間に昇級してたんだよ。学生のうちになるのはめちゃくちゃすげえことって夜蛾セン言ってたよな。なのに、俺、おまえのこと何も知らなかった。おまえはあんなに俺のこと見てくれてたのに。

「直接、言えよ。一級になったら告白するって、書いてた、くせに」

 喉が震える。息がつっかえる。言葉が途切れる。胸が千切れるように痛む。全部初めてだ。こんなもの、俺は知らない。こんな形で、知りたくなかった。

 白い便箋が、降りはじめのまだらな雨に打たれたみたいに、ぱたぱたと丸い滲みをつくる。濡らしたくなんかないのに、俺の目からは拭っても拭っても止まらない涙が溢れていた。これが愛なら、こんなに胸が苦しいものなら、知らないままが良かった。

 でもおまえが俺のことを愛していたんだとして、おまえもこんな気持ちを抱えて、俺の隣にいたとしたら。おまえと唯一お揃いのもんがこの感情なら、全部飲み込んで、願いを叶えてやる。
 優しい俺に、いや、優しくなった俺に、あの世で感謝しとけよ。






 正論が何か、善悪の境界線はどこか、誰を守ることが正義か、なんて結局分からない。

「硝子。俺、強いよね?」
「……夜蛾サンも言ってたんでしょ。生意気なぐらいだって」

 ただ、俺が初めて愛した女は、非術師や仲間の呪術師を守るために戦っていたから。俺にそうなって欲しいって、最後までそれだけを願っていたから。

「……傑がさ、最後に会った時、生き方は決めたからあとは精一杯やる、って言ってたんだよ」
「へえ。そんで?」
「俺も生き方、決めたって話」
「……ちょっと前まで死にそうな顔してて笑えたのにな。あの子に感謝しろよ」

 あの子と言われて脳裏に浮かぶあいつの顔は、笑顔ばかりだった。もちろんほんのちょっとだけ、抱いてる時の色っぽい顔も思い浮かべたけど、これは不可抗力だから許してほしい。好きな女のあんな綺麗でかわいい姿、すぐに忘れられる男なんかいないんだよ。

 それにしても、感謝。感謝か。おまえはたぶんそんなこと望んじゃいないんだろうけど、硝子の言う通り、俺は柄にもなくおまえに感謝してるよ。非術師を仲間と守っていく。そのために俺が教鞭を取るなんて知ったら、おまえはびっくりしてから、きっといつもの気の抜けた顔で笑うんだろうな。
 ちゃんと俺のこと見守ってて。おまえがいる限り俺は、道を違えずにいられるんだから。

 なんとなく見上げてみると雲ひとつない晴天で、いつだったか、俺の眼は青空みたいで綺麗だって、あいつが言ってたことを思い出した。

 これからの日常で、こうしてふとした瞬間にあいつを思い出すんだろう。これはこれで悪くないけど、まるで一生解けない呪いみたいだと思った。
 この俺を呪えるのなんて、世界中探してもおまえだけなんだから、俺がそっちに行くまで、目移りすんなよ。浮気したらその男の方、ぶっ殺すから。




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