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 離婚のきっかけなんていうのはほんの些細なことだと、何かのトーク番組で見た気がするけれど、本当にその通りだ。コップに並々注がれていた水が表面張力でギリギリのところを保っていて、だけどそれはたった一滴で決壊する。その一滴が何であれきっと内容としては大したことじゃなくて、ただのタイミングだ。だけど理由はどうあれ、溢れた水は戻らない。

「君ってこんなに口煩い子だっけ。僕、今日はややこしい案件ばっかで疲れてるんだけど」

 その一言は、我慢に我慢を重ねてきた私の心をへし折るには十分で、だけどその場ではどうにか取り繕って、「そうだよね、ごめん」と返事をした。人間、限界を超えると言い返す気力すら湧いてこないらしい。

「明日早いから先に寝るね。おやすみ」

 つとめていつも通りにそう言って、寝室に向かった。ベッドは二つあり、当たり前にサイズは違うけれど、シーツや枕のカバーは同じライトグレー。私たちはこんなにもちぐはぐなのに寝具があんまりにお揃いで、つい苦笑が漏れた。

 ベッドサイドの明かりを消して、壁の方を向く。以前は少なくとも1、2ヶ月に一度くらいはあった行為も、すっかりご無沙汰だ。もう何ヶ月彼に触れられていないだろう。笑顔を見ていないだろう。甘い声で囁かれていないだろう。

 彼と結婚して呪術師を辞め、慣れないオフィスワークに転職した。その仕事で忙しい時も少しお高いスキンケアを使ってお肌のお手入れをし、彼が好きだと言った髪のケアも欠かさなかった。見目麗しい彼の隣に並んでも恥ずかしくないような妻でいたかったから。
 もともと仕事はしなくていいと言われていたけれど、危ない仕事をしている彼のことを一人で家で待つのは耐えられないと思ったから、呪術界と関係ないところで社員として働くことを決めた。

 どんなに疲れていても、よほど時間が遅くならない限りは出来合いの惣菜をなるべく買わず、できる限り料理を手作りした。昔、私の手料理が好きだと言ってくれて嬉しかったから、大変な任務を多く任される彼が少しでもホッとする家庭の味を食べられるようにと思ってのことだった。

 家事は全て自分がやった。任務で忙しい彼の負担を、すこしでも減らしたかった。

 家は常に整理整頓し綺麗な空間を保っていたのも、殺伐とした世界で最強の呪術師として名を馳せる彼が、この家にいる間はほんのちょっとでも、快適な空間で一息ついてもらいたかったから。

 どこか、何か、間違えたのだろうか。今日は疲れていて、仕事で大きなプロジェクトを任されたばかりで、プレッシャーからミスが重なり、少しイライラしてしまった。だから「脱いだ服くらい洗濯機に入れておいてよ」なんて、いつもなら黙ってしてあげられることができず、つい小言が漏れてしまった。そうして悟に言われた言葉は、私の胸に鉛となって落ちてきた。

 結婚して5年。コップに並々注がれたものを決壊させる一滴。限界というのは案外、すぐ近くにあるものらしい。

 離婚しよう。
 きっと、彼には私では駄目だったのだ。そう心に決めた瞬間から、ダムにヒビが入ったように涙が溢れて、声を殺して少しだけ泣いた。


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 翌朝、いつもより1時間早く起床し、隣に眠る悟を起こさないよう、そろりとベッドを抜け出す。疲れているであろう彼を起こしたくないなんてそれらしい理由を並べるものの、結局は顔を合わせても何を話してどんな顔をしていいかわからないだけだ。

 キッチンに立ち、なるべく静かに何品かの作り置きと、ついでに自分のお弁当を作り、朝ごはんには菓子パンを口に入れた。昨日の悟の夜ご飯の食器がシンクに置いてある。水が張ってあるだけまだましな方だと思える自分は、随分と清々しい気持ちになっていることに気付いた。離婚をすると決めたから、色々なことに諦めがついたのかもしれない。

 まずは住むところから探そう。職場から数駅のところには住宅街もあるから、その辺りでマンションを借りられれば良い。いっそ転職も一つの手だとは思ったけれど、メンバーになってしまったプロジェクトが動き出したばかりだ。会社の人に事情を説明すればそれもどうにかなるとは思うけれど、お世話になっているからできるだけ迷惑はかけたくない。もし辞めるなら終わった後。

 冷静に考えてみると離婚するのにはある程度準備も必要だから、一ヶ月後、ちょうどプロジェクトの納期に合わせて引っ越しと転職をするのが良いかもしれない。

 悟の分のお弁当も一応作って、お盆に乗せた朝ごはんの横に置いておく。Wもしよければ持っていって食べて。要らなかったら冷蔵庫に入れておいてくださいWというメモを添えた。
初めの頃は、お弁当を食べてくれた時は「美味しかった」と言ってくれたし、お昼を取る余裕があるか分からない時はきちんと冷蔵庫に入れた上で「ごめん、今日は急に出張が入るかもしれないから置いていく。夜、食べるから置いておいて」なんて気の利いたメッセージをくれたものだ。今となっては随分と昔のことのように思えるけれど。

「行ってきます」

 無言で玄関を出そうになって、どうにかその言葉を口にした。まるで一人暮らしをしていた時のような気持ちになっていることに気付いて、乾いた笑いが零れた。いってらっしゃいなんて言葉は、もちろん返ってこなかった。