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 百鬼夜行から4日経ち、後処理も落ち着いた頃、彼女の電話番号が表示されたスマートフォンの画面を前に、僕は悩んでいた。もう一度約束を取り付けたいという気持ちと、親友すら手にかけた僕が彼女に会っていいのかと迷う気持ち。傑のことは吹っ切れたが、自分のこの手が綺麗になるわけじゃない。

 もう一度彼女に求愛して良いものなのか、やっぱりもう別の誰かとの人生を応援するべきなのか。きっと世間一般の恋人同士は、仕事でクリスマスイブが丸々潰れるなんてことはそう無いのだろう。

 「本当に仕事?」と電話越しに言われた時、僕は何も言えなかった。彼女がそう思うのも無理はなかったし、いつだったか、仕事を頑張っている彼女に「浮気じゃないよね?」なんて最低なメッセージを送ってしまったことを、今更ながら思い出したから。

 時刻は20時半。今日くらいはお茶漬けで済ませてしまってもいいかと思い、習慣化していたスーパーに立ち寄らず帰路につく。
 すると、マンションの前に人影があって、それは、僕が見間違える筈はないけれど、でもここにいるはずがない人で。

「あ、さとる、」
「……なんで」
「仕事で疲れてるのに、急に来てごめん。この間のこと、謝りた、っ」

 距離を詰め、彼女で、なまえで間違いないと分かった瞬間、反射的にその華奢な体を抱き締めた。その身体はどこもかしこも冷え切っていて、そう短くない時間、此処にいたのがうかがえた。
 一体いつから僕を待っていたんだろう。冷たい空気とともに吸い込んだ、久しぶりの彼女の匂い。不謹慎にもそれだけできゅんとしてしまって、身体が熱くなりそうだった。

「……あの、悟、……大丈夫? この間、ひどいこと言ってごめん。任務だって、分かってたの。疑うつもりなんて、なくて」
「もういいよ。本当に大丈夫。分かってるから」

 彼女がこれを言うためだけにここに来たとは考えにくい。きっと誰かから伝え聞いたのだ。傑のことと、僕のことを。その上で、会いに来てくれた。
 こんな時間に一人でいるなんて危ない、なんて野暮なことは言わない。もし彼女の身に何かあったらと思うと肝が冷えるけれど、本当はものすごく言いたいけど、それは後でいい。

「……上がって。温かいココアでも、淹れるから」

 冷えた身体を気遣うようなふりをして、その手を攫って部屋に招き入れる僕は、彼女の目にはどう写っているのだろう。打算や欲が無いとは言い切れないけど、何もせずに一緒の空間にいられることが、この家に一時的にでも彼女が帰ってきたということが、何より嬉しかった。

 お揃いのマグカップの、一回り小さな彼女の方にココアを入れれば、彼女は両手でそれを持った。本当は僕がその手のひらを温めてあげたかったけど、彼女の爪に僕の瞳の色に似た色のネイルが施されているのに気付いてしまって、つい自惚れずにはいられなくて。
 安易に彼女に触れればタガが外れてしまいそうだったので、その役割はピンクのマグカップに譲ることにする。もどかしい距離を空けて、僕も彼女の隣に座る。

「……家、綺麗にしてるね」
「ちゃんとしてたら、いつか帰ってきてくれるかなって、思って」

 彼女が息を呑んだ。直接的なことを言うのは、今までずっと避けてきた。言って、断られるのが怖くて、ヨリを戻す気はないと言われるのが怖くて、僕が逃げていただけだけど。

「僕、ずっと謝りたくて。今まで、何にも分かってなかった。君がしてくれてたことを、当たり前みたいに思ってた。任務とか出張とか、そんなのただの言い訳で、君に甘えてた」
「……うん」
「君からの離婚届と、メモと、婚約指輪を見た時、本当に心臓が止まるかと思った。敬語で書かれてて、それにも勝手に距離を感じて悲しくなって、君を傷付けてたことにもようやく気付いた」
「………」
「でも、好きなんだ。君を愛してる。散々馬鹿なことした僕の言えたことじゃないけど、僕の奥さんは、君しか──」

 その言葉を言い終わる前に、彼女の唇が、彼女によって、僕のそれに触れた。あまりの衝撃に何が起こったか分からなくて、次いでやってきた幸福感と湧き上がる情欲に、己を制御できない。
 彼女の後頭部に、マグカップを持っていない方の手を回し、夢中でキスをした。唇を食むと、誘うように開いたそこに舌を捩じ込む。彼女の儚い声が、吐息が、僕の脳を溶かしていくようだった。

 彼女のマグカップはいつの間にかテーブルに置かれていたようで、キスの合間に僕もそれに倣った。青とピンクのマグカップは少し隙間を開けて仲良く並んでいて、そのすぐそばで噛み付くようにキスを続ける僕を呆れたように見ている気がした。






「……ごめん」

 ようやく彼女を解放すると、息を乱した彼女の瞳から涙がひとつ落ちる。やってしまった。謝罪の次に何を言えばいいか分からなくて言葉を探すも、彼女の唇の感触や息遣い、キスの合間にこぼれた悩ましげな声が頭を巡って、うまく機能しない。

「なんで、謝るの?」
「え、」
「やっぱり、他に、彼女がいるの……?」
「っそんなのいるわけない、ずっと君のことしか考えてない。……その、了承もなしに触れたから、怖がらせたかと思って……」
「先にキスしたのは私だよ。……私は、謝らないけど」

 彼女の声がこの部屋に響くだけでも奇跡だと思うのに、その頬を染めているのは明らかに外との気温差ではなくて、それがあまりにも、たまらなくて。

「それって……」
「だって私達、夫婦だもん。キスくらい、普通のことでしょ?」

 彼女が恥ずかしそうに笑って、そんなことを言うものだから、僕は本当に目の奥が熱くなった。彼女がいなくなって半年、彼女にとって自分は過去の男になっているのかもしれないと何度も思ったけど、その度に手に入れたいと思って、だけどうまく手を伸ばせなくて。

 胸がぎゅっとなる。彼女を抱きしめて、「もう一度、僕の奥さんになってくれる?」と言った声は、情けなくも震えていた。うん、と言った彼女も涙声で、ああ、今度こそ本当に泣かせてしまったと思う反面、笑顔ばかり入っていた僕の頭の中の引き出しに、そのかわいい泣き顔を収められることが嬉しかった。