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 朝起きて、瞼を持ち上げて視界が開けた瞬間、彼女の寝顔が思ったよりすぐそばにあって、一瞬で頭が覚醒した。




 昨日、もう一度やり直してくれることになったなまえは、今月末には今の仕事を辞めて、荷物をまとめて戻ってきてくれるという話になった。会社には、もしかしたら働ける期間は限られているかも、と入社の際に伝えていてくれたらしい。僕とこうなることを予感してくれていたと、そんな風に自惚れることしかできない。

 時間も時間だし、と彼女がそのままこの家に泊まることになってまず僕が直面したのは、理性との葛藤だった。

 何せ、ずっと触れていなかった。もちろん浮気なんてしていないから、正直なところ溜まっていた。結婚してからこうなるまで、少なくとも2ヶ月に一度くらいは身体を重ねていたように思うけれど、主に僕のせいで別れる前の数ヶ月していなかったし、当然だけどここ半年は彼女に触れられなかった。
 いや、まあ、本当に申し訳ないことに、なまえを思い浮かべての自慰なんかは、数回だけしたけれど。

 とにかく、正直言ってキスだけでかなり危なかった僕にとって、彼女と同じ部屋で眠ることは拷問に近かった。疲れているはずが全く眠気はやって来ず、しかし隣の彼女からはほどなくして穏やかな寝息が聴こえてきて、またあらぬ欲がふくらむ。
 きっと疲れているんだろう、自分の隣で安心して眠ってくれるのは嬉しい。ただその反面、あっさりと眠ったその穏やかな寝顔を見るのは少し複雑だった。

 ちなみに寝室に入った時には、僕が枕元やベッドサイドに、あの日のメモやなまえからの手紙を置いているのがばれて、それはもう恥ずかしかった。しかし彼女は深く追及せず、僕の好きな笑顔で困ったように笑って、悟も疲れてるんだから早く寝よう、と僕を気遣った。
 なまえはどこまでも優しかった。まあ案の定、僕にまともな眠気が来ることはなかったけれど。



 いつ眠ったかどうかもよく分からないまま、こうして朝を迎えた。寝不足による疲れは確かにあるけれど、なまえの寝顔を眺めてこれ以上ない幸せに浸っていると、枕元に置いてある彼女のスマートフォンが、メッセージの受信を通知した。
 何気なくその画面を見てピシリと固まる。明らかな男の名前と、『良いお店を見つけたので、今度ご飯にでも行きませんか』という内容。…………は?

 なまえは律儀な性格だから、離婚が成立していない状態で他に彼氏を作るとは思っていないが、こうもわかりやすくアプローチするような男と、連絡先を交換しているという事実。ぐるぐると考えていると、布擦れの音がして、彼女が唸った。
 やがてぱちぱちと数度瞬きをして、僕を視界に入れると「おはよう」と微笑んだ。それだけで心が温かくなったり体が熱くなったりして忙しかったが、それより先に、言葉を選んで尋ねる。

「おはよう。……あの、起きてすぐなのにごめん。これは疑ってるどかじゃなくて、ただの確認なんだけど」
「? うん……?」
「今、メッセージの通知がチラッと見えたんだけど、……こいつ、誰?」
「……こいつ……?」

 寝起きでとろりとした瞳のまま、スマートフォンを操作する。誰のことかすぐに分かったのか、「ああ、この人」とことも無げに言う。疚しさを感じなくて少しホッとするけれど、なんでもない反応をするほど、その男が彼女の日常に溶け込んでいるのかと思うと、顔も知らない男に対して殺意すら湧いた。

「友達に誘われてついて行ったゆるい婚活パーティーで、連絡先交換しただけ。たまにメッセージが来るんだよね」
「……婚活パーティー……」

 なまえからそんなイベントの名前を聞くことになると思わなくて、心臓がひやりとする。間もなくしてぎゅっと狭く痛くなった。改めて、彼女は本当に自分との関係を終わらせて、新たに他の男と出逢おうとしていたのだと気付いて、過去の馬鹿な自分を呪った。
 なまえが手を伸ばして、小さな手で僕の手の甲に触れる。どうやら無意識にシーツを掴んで皺を作っていたようで、彼女が少し悲しそうな顔をした。どうしてだろう。馬鹿な僕には難しい。

「……怒ってる、よね。やっぱり、嫌いになった?」

 そんな顔をさせたいわけじゃなくて、だけどうまく言葉にできなくて、首を横に振る。自分が情けなくて、と言うと、なまえは不思議そうな顔をした。

「僕が会えない間に、君と会ってる男がいたと思うと、羨ましくて。……まあ、全部僕のせいなんだけど」

 なまえは数回の瞬きの後、頬を朱に染めた。「もしかして、妬いてくれてるの?」小さな声でそう言った彼女は、ついには耳まで赤くなっていた。妬いたかどうか? そんなの、妬いたに決まってる。
 彼女の腕を掴んで、そっと抱き寄せると、少し強ばる身体。その髪からはよく知るシャンプーの香りがして、すう、と息を吸い込んだ。

「妬いた」
「っ、ほんとに……?」
「当たり前でしょ。そんなに意外?」
「うん、だって、前の会社の飲み会とかも、特に心配されてなかったから……」
「それは、君を信用してたから。君が帰ってくるのは僕のところなんだし、束縛しすぎるのも良くないし、それぐらいは良いかなって。……でも今回のは、そういうのじゃなくて、僕の知らないところで、僕の知らないなまえを見られたことが、死ぬほど悔しい」
「ふふ、悟も嫉妬なんてするんだね」
「……僕をなんだと思ってるの」

 彼女が腕の中で笑う。ああ、幸せだ。

 彼女の寝顔を見ていた時、これ以上の幸せはないと思っていたけれど、あっという間に更新されていく。

 昨日彼女に見つかってそのまま枕元に置いておいたメモがちらりと視界に入った。何度も何度も読み返して、一言一句違わずすべて覚えてしまった書き置き。馬鹿な僕にも最後まで優しい言葉を選ぶ彼女へ募る愛しさ、「さようなら」の言葉の切なさ、君がここにいないことの証明であるそれを見て募る、どうしようもなくやるせ無い気持ち。

 離婚届は丁寧に折りたたんで引き出しに入れてある。縁起でもないから彼女が帰ってきたら破り捨てようと思っていたけれど、僕への戒めとして、そのまま持っておこう。なにかの拍子に見つかると誤解をあらぬ生むから、彼女にもきちんと話した上で、そっと保管しておく。僕がまた馬鹿なことをしでかさないように、見守っていてもらいたい。

 結婚指輪はすぐにでも返して身につけてほしかったけど、僕の首にかかっているのはまだ言い出せなくて、内緒にしたままだ。肌身離さず持っていたなんてことがバレたらきっと驚かれるだろうけど、それでほんの少しでも僕の寂しさが伝わってくれればいい。

 なまえがいなくなったあの時の焦燥が昨日のことのように鮮明に思い出せる。その存在を確かめるように、腕の中の存在をぎゅっと強く抱き締めた。
 ずっとこうしてたいけど、そろそろ離さないと色々やばい。ああでも柔らかい、温かい。昨日ろくに寝られなかったせいか、瞼が重い。今日は休みだと彼女にも伝えてあるから、もう、いいか。

「……本当にお疲れさま。おやすみ、悟」

 まるで魔法の言葉のようなそれに抗えず、ぐらりと身体が傾く。抱き寄せたままの彼女を下敷きにしてしまいそうで、だけど少しも体が言うことをきかなくて、そのまま目を閉じた。

 再び目を開けた時、どうやら彼女を抱きこんで眠ってしまったせいで柔らかな感触が目の前にあった。彼女の胸に顔を埋めるような体勢につい身体が下世話な反応をしてしまって、ちょっとだけ怒られるのは、また別の話。