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 買ってきた食材をエコバッグから取り出して、冷蔵庫に入れるものと、そのまま料理に使うものとを分ける。ありがたいことにとても歓迎してくれた前の仕事に出戻って一週間。今日は定時ぴったりで上がれたので、色々と食材を買い込んでしまった。

 ここに帰ってきて三週間。悟は相変わらず忙しそうにしているけれど、『お疲れ。今日は11時頃に帰る。疲れてたら寝ていいよ』と、明確な帰宅時間と、労りの言葉なんかがメッセージを彩るようになった。

 あと変わったことは、もう一つ。

「ただいま」

 玄関の鍵を開ける音が聞こえてからほどなくして、ドアが開く音と悟の声がリビングに届く。あまり響かないよう抑えられているのは、わたしが寝ていることも想定しているからだろう。このぐらいの時間、起きて待っていられるのに。

「おかえりなさい。お疲れ様」
「……うん、ただいま」

 帰ってくるなり、その広い腕の中に抱きしめられる。玄関で出迎えたときは、これが恒例となっている。
 初めこそ、任務で何かあったのかとか体調が悪いのかとか色々心配になったけど、今ではもうすっかり慣れてしまった。まるで存在を確かめるようにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、窮屈そうに腰をかがめ、肩に顔が埋められる。

「……なまえ」
「っん、」

 そうして時々、顎をそっと持ち上げられ、キスをされる。触れるだけで終わる時もあれば、いやらしく腰をなぞられながら深いキスをされることもある。それでも、キスだけ。今まではそうだったのに、今日は悟の様子がいつもと違った。

「あのさ」
「うん……?」
「……今日、だめかな」

 唇が離れて間も無くして呟かれたその言葉の意味が分かって、つい呼吸を止めてしまった。
 実はわたしたちは、帰ってきてから一度もそういう行為をしていない。一度悟が誘ってくれたことがあったけど、あまりに久しぶりすぎてわたしがつい身構えてしまって、悟は困ったように笑って「また今度にしよう」と言ってくれたのだ。

 半年以上していなくて、悟が知らない男の人みたいに思えてしまったからかもしれない。申し訳ないと思うけど、離れていた日を埋めるのに、少し時間が欲しかったのが本音だった。

 そんな面倒なわたしを、悟は待ってくれていた。そして今、もう一度悟がわたしに触れたいと言ってくれている。

「なまえが緊張するのも分かるし、僕も緊張してる。けど、それ以上に触れたいし、触れられたい。もしもなまえが嫌じゃなかったら、今夜抱かせてほしい。……優しく、するから」

 ひとつひとつの言葉が丁寧に選ばれて、懇願するような切ない声で。熱を孕んだ蒼の瞳に見つめられて、胸がきゅうっと狭くなる感覚。やがてもう一度抱き寄せられて、その力は縋るような頼りなさと、ほんのちょっと痛いぐらいの力強さがあった。

「……いい、よ」
「…………え、」
「ご飯食べてお風呂入って、悟が疲れてなかったら、その、いいよ」

 付き合った当初はさておき、結婚してからは夜の行為に対してこんな風に問いかけられたことはなかった。なんとなく流れで触れられていたから、イエスの意思を示しただけなのに頭から火が出そうなほど恥ずかしい。

 悟の顔が見られずその胸に顔をうずめていると、ほんの一瞬緩んだ腕に再度力が込められて、ゆっくりと抱きしめられた。「ありがとう」と小さく掠れた声で呟かれて、指先でそっと頭や耳をなぞられる。それは行為の最中に悟がよくする仕草のひとつで、きっと無意識なんだろうけどわたしは勝手に思い出してしまって、身体がぶわりと熱くなった気がした。


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 玄関までわざわざ出迎えてくれるなまえ。今日は金曜日で、僕も彼女も明日は休み。彼女の手料理が食べられることやその笑顔を見るだけで癒されるし、確かに幸せだけど。側にいるからこそ、もう色々と限界だった。

 大切にしたい気持ちはもちろんあるけど、半年以上ずっと離れていて触れられなくて、だけど今は毎日なまえが家にいて。なまえがこの家に泊まった日はどうにか堪え、正式に帰ってきてくれてすぐのとき、堪えきれなくて一度やんわりとお誘いをしてみたけれど、ずいぶんと身体が強張ったのでそこからは我慢していた。

 久しぶりだから緊張するのも分かるし、どうしていいか分からないのも理解できる。正直いって、僕もものすごく緊張していたし。
 だから彼女がいいと言ってくれるまでいつまでも待つつもりだったけど、毎日同じ部屋で寝ることの幸福と比例するように、触れたい気持ちが大きくなっていく。手を伸ばせば触れられる距離にいるから、彼女に触れて、その体温を感じたい。繋がって一つになって、幸せな気持ちよさに溺れたい。

 そう思って言葉を選んで伝えたものの、思いのほか切羽詰まった声で懇願してしまって、格好悪いところを見せてしまった。だけど今更だ。彼女にはもっと情けないところをたくさん見せたし、だからなんと思われようと僕の全部を見せたいと思う。

 風呂から上がって髪を乾かして、気持ちを落ち着かせるために水を飲んでから、彼女の待つ寝室へ向かう。もしかして寝ちゃってたりしないよな、なんて思いながらドアを開けると、僕の方のベッドに座った彼女がパッと顔を上げた。その顔はほんのりと赤くて、緊張と恥ずかしさが伺える。

「おまたせ。起きて待っててくれてありがとう」
「ううん、……えっと、悟」
「ん?」
「この間、断っちゃってごめん。その、嫌だったとかじゃなくて。緊張、してて」

 恥ずかしそうにこちらを見るその顔がかわいくて唸りそうになるものの、努めて冷静にその頭を撫でる。
 「大丈夫だよ」というありきたりな言葉とともに、さらさらと指からすり抜けていく髪の感触を堪能していると、恥ずかしがったなまえが僕の手から逃れようと仰け反り、ぐらりと後ろに倒れた。
 慌てて後頭部に手を差し入れて衝撃を和らげるよう支えれば奇しくも押し倒すような体勢になって、自分の下に無防備な彼女がいるその光景に、こくりと喉が鳴る。

 ごめんと名ばかりの謝罪をして一旦退こうとする僕の服の袖を、彼女がちょん、と摘んだ。

「悟、その、大丈夫だから」

 彼女の言葉に、理性がぐらりと揺れる。覆い被さるように唇を塞げば、くぐもった声が漏れた。何度も何度も触れて離れて、逃げる舌を捕まえて吸い付くと、儚い声が鼻に抜ける。きゅっと僕の服を握るその手に指を絡めてシーツに縫い付ければ、改めて感じるその小ささにきゅんとした。
 ああそう言えば、そろそろネイルサロンに行かないといけないと言っていた。次はどんな色にするか分からないが、今の彼女の指先は、僕の瞳の色だ。指のその先まで全てが僕のものになったようで、独占欲が満たされる。

 細くて白い首筋を唇で辿ると、なまえが身じろいだ。これをしたときに僕の髪がくすぐったいんだと、いつだったか言っていた気がする。そんな何気ない仕草までかわいい。見えるところに痕をつけるときっと怒られるからもしつけるなら彼女からは見えない場所がいいけど、それでもやっぱり許可なく付けない方がいいだろうか。虫除けはしたいけど嫌われたくはないので、今は指先の蒼で我慢することにする。

 その肌に直接触れたくて、お揃いのパジャマのボタンを一つずつ開けると、下着……ではなく、少し透け感のあるキャミソールが覗いて、思わず手が止まった。
 ……え、何これ。ベビードールってやつ? ゆるいパジャマから覗くセクシーなそれに興奮せざるを得ないけど、こういうのを身につけるタイプだっただろうか。もしかして僕のために着てくれた?

 そういえば結婚した当初くらいに、下着を買いに行くという彼女についていって、いつかこういうの着て欲しいな、なんて冗談まじりに言った気がする。けどまさか今ここでそんなものを身につけてくれていると思わなくて、しかも、いかにも防御力の低い頼りない薄いキャミソールと下着はたぶんセットなんだろうけど、それが薄い青色なことも、僕のためだと自惚れるしかなくて。この部屋に入った時からそうだったけど、更にもう色々と無理だった。

 彼女の首元に顔を埋め、大好きな匂いを吸い込んで心を落ち着かせる。……ダメだ逆に自身の興奮を増幅させてしまっているかもしれない。
 歯止めがきかなくなるとまずいから本当に落ち着きたいのに、この薄暗い空間と彼女の全部が、僕の余裕を取り払う。なまえはなまえで、僕の突然の行動に分かりやすく戸惑っているのが分かる。

「さ、悟……?」
「……これ、めちゃくちゃエッチでかわいいんだけど、僕のために着てくれたの?」
「じ、実は、ちょっと太っちゃったかもしれなくて……。これ、昔買ったやつで、着たことなかったんだけど、その、今の身体見ても、悟があんまりその気にならないかもって不安で、それで」
「はーーー……」

 何そのかわいい心配。杞憂もいいとこなんだけど。なんならきみが帰ってきてからずっとムラムラしてたのに、伝わってなかった? なら僕が隠し通せてるってことだからそれは別にいいことなのかもしれないけど、ここからは隠せそうにないから心配になる。僕のこの気持ちをぶつけても大丈夫なのかと。

 「そんなのできみに興奮しないなんてありえないよ」と冷静さをかき集めて何とかそれだけを言えば、本当? と少し安堵したような声が溢れる。ああもう、僕の奥さんはなんてかわいいんだろうか。

「あの、悟」
「なに……?」
「……だいすき」

 僕を見上げるなまえは照れ臭そうにしながらも泣きそうな顔で、だけど幸せそうにそう言った。今ここでそんなこと言うなんて、反則じゃないか。

 もう一度ゆっくりとキスをして、柔らかな肌に触れる。おかえりもただいまも、おはようもおやすみも、そしてこの大好きって言葉も。これからも、他の誰でもなく、僕にだけ聞かせて。

「………僕も、大好き。愛してる」

 指を絡めてシーツに沈めた彼女の薬指には、きらりと指輪が光っていた。やっぱり僕のもとにあるより、彼女に身につけてもらった方が何倍もいい。その輝きが二度と彼女から離れないように、ぎゅっとその手を握った。

 その日は朝まで、彼女の甘い声と柔い肌に溺れた。翌朝、歯止めがきかず盛りすぎた僕に、彼女は恥ずかしさからかなかなか目を合わせてくれなかったけれど、ずっと腕の中にいてくれた。きっとこれからも何度もこうして、一緒に朝を迎えられる。

 この後は彼女の身体を気遣って、朝ごはんは僕が作ろう。以前より手際良く作れるようになったスクランブルエッグとトーストなんかを振る舞って、お昼過ぎには一緒にスーパーに買い物に行って、そして夜ご飯は彼女と並んでキッチンに立って、手紙で教えてもらったあのレシピで肉じゃがを作りたい。

 彼女がこれからもずっと僕の側にいてくれるようにと、彼女に愛してもらうためにそれ以上の愛と感謝を自分から伝えられるようにと。縛りなんかじゃぬるいくらい、強く心に誓った。