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 仕事がようやく終わり、会社を出るため荷物を纏めていると珍しく悟から「了解」以外のメッセージが届いていて、開いてみるとW浮気じゃないよね?Wという疑いの言葉。

「……は?」

 自分の口から発せられたのは、そのたった一音だった。

 あれだけ好きだった五条悟という人間のことが、だんだんとどうでもよくなっていく気がした。そしてこのメッセージは、真意はどうあれ、その気持ちを加速させた。
 自分は出張だ課外だという致し方ない理由であれ、数週間家を空けることもあるのに、私は時々こうして外泊しただけでそんなことを言われなければならないのか。

「……いいか。もうすぐ離婚するんだし」

 そのメッセージには返信せず、スマートフォンを裏返してそこらへ置いた。会社には、やんわりと退職の意思は伝えた。家庭のことも交えて説明をすれば、むしろ私の心配をしてくれた。名古屋の実家に帰るかもしれないことも伝えると、名古屋支社への異動も聞いてみるよと言ってくださったので、検討しますと言って頭を下げた。本当に働く環境に恵まれたと思う。

 プロジェクトはあと一週間ほど。今が佳境なだけに、仕事に集中したかった。そして悔いなく終えて、早く何処か違う場所に、五条悟の居ないところに行きたかった。


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 働き詰めの中でプロジェクトは無事成功に終わり、有休消化があるからまだ在籍はしているものの、実質の最終出勤日を終え、やっと迎えた休日。結局あの日のメッセージは、波風が立つのが嫌で、二日後に返信した。「ごめんね。仕事が立て込んでて返せなかった。」浮気を疑う内容には触れずにそう言うと、すぐに既読がついたが、返信はなかった。

 布団から起き上がるとほんの少し身体がだるくて、すぐに風邪だと気付いた。微熱があるような気もするが、計ってしまうと自覚してしまうのでやめた。
 溜まった家事をするため、力の入らない身体に鞭を打った。洗濯物は溜まり、掃除も碌にできていない。洗い物は流石に数日分全て溜まっていたわけではなかったけれど、シンクが空ということもなかった。

 離婚するから全部諦めて最後まできちんとやり遂げる、というメンタルでここ一ヶ月やってきたけれど、体調が優れないせいか、その数枚の食器を洗うのがどうしてかやるせなくて、勝手に涙が出てくる。
 悟は昨日帰ってこなかったし、出張かもしれない。なんのメッセージも入っていないから、わたしはどうせその程度の存在なんだろうと思ったら、また涙が溢れた。

 母親に泣きながら電話すると、随分と驚かれた。わたしが泣きつくなんて、結婚どころか呪術師になった頃から数えてもおよそ初めてで、母自身も仕事をしているからきっと忙しいはずなのに、すぐに迎えに来てくれた。タイミングというのはきっとこうして突然やってくるものだと思って、予定より早く此処を出ていくことにした。
 ある程度必要なものをすべて、ダンボールにまとめる。溜まっていた洗濯物は、自分の服は全てそのまま持って帰って、実家で洗うことにした。悟の分だけを室内に干しておいて、部屋の掃除も簡単にではあるが一応済ませた。お風呂掃除も軽くして、洗面台の化粧品はトラベルバッグに突っ込んだ。

 自分の名前の欄を埋めた離婚届をテーブルに置けば、肩の荷が降りるどころか、何もかもすべてが片付いたような心地がして、優れない体調すらも上向きに転じる感覚だった。

 メッセージはブロックする予定だから、メモ書きを残すことにした。書いているうちに長くなり4枚に渡って綴ってしまい、なんだか手紙のようになってしまった。未練がましく思われないか不安だったけれど書き直すのも億劫でそのまま離婚届の上に重ねて、左手の薬指から抜き取った指輪を重し代わりに置いた。

 Wお仕事で毎日忙しいところ申し訳ないけど、離婚届は手が空いた時に出しておいてください。受理された後の手続きはできる限りやるから、任せてくれて大丈夫です。W

 W冷蔵庫の作り置きは明日中に食べきってください。要らなかったら捨ててください。冷凍庫にあるおかずは一ヶ月くらいは保ちます。W

 W私の私物はほぼ持ち出したはずだけど、運びきれないものは置かせてもらっています。お手数をかけて申し訳ないけど、時間のある時に捨ててください。ベッドは、新しい彼女ができた時、その人が嫌じゃなければ、そのまま使ってくれて大丈夫です。W

 W最後に、今までありがとう。わたしは疲れちゃったから、もう悟と一緒にいられないけど、これからも身体に気をつけて頑張って。さようなら。W

 ほんの少し目の奥が熱くなったのは、発熱のせいだろうか。それとも脳裏に、結婚してすぐの頃の悟の笑顔が焼き付いているから? 鼓膜に、「一生僕の側にいて」という悟のプロポーズの言葉がこびりついているから?

 全部、今更だ。
 もう頑張れそうにない。色んなことに疲れてしまった。専業主婦になっていれば変わったのかと考えたこともあったけど、きっと問題はそこじゃない。私と悟では恋人同士にはなれても夫婦にはなれない、そういう運命だったんだろう。

「……ばいばい、悟」

 清々しい気持ちでそう言葉にした筈が、思ったより情けない響きをもって玄関に漂った。エントランスを出てからポストに合鍵を落とす。ガランと鈍い音を立てて、それがまるで私たちの終わりの合図のようだと思った。