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出張から帰って、何の連絡もせずに5日間も帰らなかったから流石に彼女を怒らせているかもしれないと微かな不安を覚え、『連絡できてなくてごめん。今から新幹線に乗って帰る』とメッセージを送ったのは、3時間前。
今日は土曜日だから彼女の仕事は休みのはずで、だけどメッセージに既読はつかず、時刻は12時を回った。最近仕事が忙しいようだったし、もしかして仕事の疲れでまだ眠っているのだろうか。もしくは家で倒れていたり、……いや、さすがにそれは考えすぎだろう。
それが考えすぎなどではなく、むしろ事態はある意味もっと深刻なことになっていると気付いたのは、何気なくチェックしたポストに入っていた合鍵を見つけた時。これは彼女が持っていたものに間違いなくて、僕の混乱と焦燥は増すばかりだった。
部屋について、彼女の気配がそこにないことに気付いて、それから。
リビングのテーブルの上を見た時、呼吸が止まった。
「……は……?」
無機質な書類、その上に柔らかな色のメモ。その上には僕が彼女に渡した、彼女が毎日欠かさず身につけていた筈の、結婚指輪。
それらが意味することは一つしかないのに、思考回路は煩雑なままで上手くまとまってくれず、僕はただ立ち尽くした。
一番下に敷かれたその書類は初めて目にするもののはずなのに、「離婚届」という丁寧なタイトルによって、明確な役割を自分に突きつけてきた。手に取ってみると彼女の名前や彼女の親の名前など、彼女が埋めるべき欄は既にすべて記入済みで、それらは四角い記入欄の真ん中にきっちりと、彼女の字で書かれていた。
たった一枚の紙切れにすら几帳面な彼女の性格を感じて、これがもちろん冗談なんかじゃないことを証明している。その自分に宛てた書類を、どこか他人事のように眺めた。
その上に置かれていたのは、数枚がクリップでとめられた、手紙のようなメモだった。いつもはお弁当についてなど、僕のために書き置きをしてくれる時のメモ用紙で書かれたものが数枚。手に取ってみると、見慣れた文字が見慣れない長さの文章を綴っていた。
Wお仕事で毎日忙しいところ申し訳ないけど、離婚届は手が空いた時に書いて、出しておいてください。受理された後の手続きはできる限りやるから、任せてくれて大丈夫です。W
忙しかろうが暇を持て余そうが、こんなもの書くわけないし、出すわけない。それに僕は君の夫なのに、どうして敬語なの。
W冷蔵庫の作り置きは明日中に食べきってください。出張が長引いてこれを見るのが遅くなったり、あと要らなかったりしたら捨ててください。
冷凍庫にあるおかずは一ヶ月くらいは保ちます。W
君の手料理が好きだった。捨てるわけない。そんなことするわけないからもちろん食べるけど、明日中に食べきってしまったら、明後日からはどうしたらいいの。
冷凍庫にだって、きっとそんなにないんだろう。たとえ期限として一ヶ月保つとしても、もしもすぐに食べ尽くしてしまったら、君の作ったものは跡形もなくなって、次に君が作ってくれるまで、二度と食べられなくなるじゃないか。
W私の私物はほぼ持ち出したはずだけど、運びきれないものは置かせてもらっています。お手数をかけて申し訳ないけど、時間のある時に捨ててください。ベッドは、新しい彼女ができた時、その人が嫌じゃなければ、そのまま使ってくれて大丈夫です。W
お手数をかけて、なんて、なんでそんなに他人行儀なの。どうして君がいたことを証明するものを、僕の手で捨てなければならない。それに新しい彼女なんて作らない。僕の愛する女性は、奥さんは、君だけなのに。
W最後に、今までありがとう。わたしは疲れちゃったから、もう悟と一緒にいられないけど、これからも身体に気をつけて頑張って。W
ねえ、疲れたって何のこと。家事をするのが? 此処に住むのが?
……僕の奥さんでいることが?
身体に気を付けてなんて、そう思うなら戻ってきてよ。睡眠だって食事だって、君がいなくちゃ成り立たないのに。君の手料理ですら、君が笑顔で僕を出迎えてくれて、君が温めてくれたものでないと、どこか食べた気がしない。一人で眠るにはあの寝室は広すぎる。たとえ僕に背中を向けていたって、君が隣のベッドで眠っているというだけで、安眠できたのに。
WさようならW
「……嫌、だ」
好きなんだ。愛してるんだ。ちゃんと大切なんだ。
大切だったはずなのに、いつからかそれを当たり前のように思ってしまったのは僕のほう。彼女が与えてくれるものに感謝をすることを忘れ、当然のように享受して、協力すべきところも頼りきりで。
柔らかな表現をしているけれど、僕に愛想を尽かしたのは明白で、だからこのまま待っていても彼女が戻ってくることはないのだと、この手紙と形式的な書類が突きつけてくる。
ああ、それともう一つ。彼女の薬指に嵌っていた結婚指輪。これを身につけたばかりの彼女はとても幸せそうな顔をしていたのに、いつから彼女の笑顔を見ていない?
いや、違う。彼女はいつも、笑顔でおかえりと言ってくれていた。
今日もお疲れ様。
お風呂沸いてるよ。
今からご飯温めるね。
怪我とかしてない? 大丈夫?
悟、大好き。
彼女のことを思い出そうとするとき、僕の頭の引き出しには笑顔の記憶しか入っていなくて、だからずっと、気付かなかったのだろうか。僕が最後に彼女に笑顔で接して、労りの言葉をかけ、感謝の意を示し、愛を囁いたのはいつだろうか?
まるで思い出せない自分に、苛立ちも憤りも何もなくて、ただ、冷たい後悔だけが胸に落ちた。