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 電話は当然のように繋がらず、メッセージも相変わらず未読のまま。メッセージアプリから通話を試みても応答はなく、すべての連絡手段を断ったのだろうということはすぐに分かった。
 彼女の職場へ電話をしてみると、先週退職したとのこと。電話に出た受付の女性は何も知らない僕に少し訝しげだったので、海外にいて暫く連絡が取れていなかったので、と適当な話をして誤魔化した。

 彼女は既に、全てのことを終わらせていた。そうしてまで、僕に会いたくもなければ、連絡すらも取りたくないらしい。

 彼女が置いていったメモは枕元に置いた。指輪はそのままだと無くしそうだから、チェーンに通して首にかけ、風呂に入る時以外は絶えず身につけた。離婚届は破いて捨ててしまおうかと思ったけれど、彼女の残した数少ないものだから、4つ折りにして寝室のチェストの引き出しに入れた。
 馬鹿なことに僕は、せめて夢でも良いから彼女に会いたくて、彼女を感じられるそれらを全て自分の眠る場所の近くに置いてみたけれど、未だ一度も彼女には会えていない。夢にすら出てきてくれない彼女に、またひとつ心臓が軋んだ。

 作り置きのおかずはすぐになくなり、見慣れたタッパーを食器とともに洗う。一度、夕食を食べてすぐに食器を洗うのを少し面倒に感じてしまって、そのまま眠ってしまったことがあったけれど、次の日にシンクに置いてあるそれを見て、もう絶対に置きっぱなしにはしないでおこうと思った。
 朝、昨日の洗い物からスタートするなんて最悪だ。きっと彼女は、僕のせいで最悪になったこんな朝を、いくつも乗り越えてくれていたんだろう。

 洗濯物は、洗濯機の操作や洗剤の種類と用途をいまいち覚えていなくて、最初は苦労した。それには慣れたものの、自分の脱ぎっぱなしのシャツや靴下をリビングまで回収しに行くのがすこぶる面倒くさいことに気付く。
 彼女があの日の僕に苦言を呈したのも、今なら当然のことだと思えた。いや、そもそもあれは苦言なんて大層なものじゃなくて、ただ当たり前のことを言っただけだった。僕はそれに対して何と返した?
 頭を捻ろうが思い出せず、無責任な自分に腹が立った。きっと碌なことを言っていない、という自信だけはあった。情けなくてため息も出ない。

 明日の任務について、担当の補助監督からメールが来た。それに了解とだけ返し、スマホをそこらへ置いた。そういえば彼女とも、こんな業務連絡のようなやり取りしかしていなかった気がする。スマホを再度手に取ってみると、彼女は「気をつけてね」「お疲れさま」なんて、心配や労りの言葉を時々くれていた。

 自分はどうだ。「了解」「分かった」「8時に帰る」なんて、まるで仕事の関係者に宛てたような形式的なメッセージしか見つからない。仮にも奥さんである人にこんな言葉しか送れないのだから、彼女が出て行ったのも無理はなかった。面と向かって言うことや行動だけでなく、僕にはあらゆる配慮が欠けていた。


 彼女が出て行ってから一ヶ月。彼女の居場所の目星は付いていた。まずすぐに思い当たり、一番可能性が高そうなのは、彼女の実家だ。だけど行ったところでどうすれば良いか分からない。別れた恋人とヨリを戻した経験なんてないし、ましてや今回はただの喧嘩や家出ではなく、離婚を突きつけられた身だ。もう一度その心を手に入れるのは容易ではない。

 硝子に相談すると、まずは罵倒が飛んできた。クズだクズだとは思っていたがここまでとはとボロクソに言われ、いつもなら気にならないそれが五割増しで心に刺さるが、自業自得なので何も言えない。硝子にとっても可愛がっていた大切な後輩だ。結婚するときも「大事にしなかったらバラすぞ」と相当詰められたのにこのザマだ。無理もない。

「……実家にいるなら、手紙でも出してみればいいんじゃないか。他の手段よりは、読んでもらえる可能性は大いにあるだろ。電話は着拒されてるか、もしされてなくても一度かけたら次は繋がらない可能性が高いしな」
「手紙……」
「まあメッセージを送るのと違って、書くのに時間がかかるが。気持ちは多少、伝わるだろう」

 そう硝子にアドバイスをもらい、実家に連絡をし、和紙のレターセットを取り寄せた。高価なものよりもう少し手軽でポップなものの方が良いかもしれないとも思って、雑貨屋でも数種類購入した。切手も多めに用意する。何せ、長期戦なのだ。すぐに返事が来るなんて期待していない。返事が来るまで何通でも出すつもりだった。

 何を書けば良いがわからないけれど、とにかく自分の思いをレターセットに綴る。

『元気にしてる?』
なんていう挨拶にはじまり。

『作り置きのおかずは全部食べた。ありがとう。美味しかった。また君の手料理が食べたい。』
お礼と、どうしても言いたいおねだりを交えて。

『本当にごめん。会いたい。会って、直接謝りたい。』
謝罪の意と願望を込めて。

『今後は、君に任せきりになんかしないから。君の作ってくれてた当たり前の生活を、当たり前だなんて思わないようにするから。』
こんなことすらも分かっていなかった自分を、情けないながらも曝け出す。

 まだ好きなんだ、今でも愛してるんだという言葉だけは、都合の良いことを言っていると思われたくなくて、どうしたって入れられなかった。

 下手くそな文章で書かれた一通目の手紙をポストに投函し、仕事に向かう。後悔も何もかも、今更考えたって遅い。彼女がもう一度僕の奥さんになってくれるまで、できる限りのことをしようと思った。

 彼女の幸せを考えれば、さっさと離婚届を出して、彼女の思う生活を返してあげるのが良いのかもしれない。元は呪術師とはいえ、一度一般企業に就職したのだから、こんな自分などではなくもっと普通の男と再婚して、普通の幸せを掴むことを応援するべきなのかもしれない。

 だけど、彼女が他の誰かにあの笑顔を見せて、美味しい料理を作って、てきぱきと家事をして、おはよう、おやすみ、おかえり、お疲れさま、──大好き。なんて、そんな言葉を囁くのを想像すると、ちょうど首にかけた指輪のある場所、心臓のすぐ側が、毒にでも侵されたように強く痛んだ。

 手放したくない。諦めたくない。好きなんだ。愛してるんだ。

 僕の奥さんはたった一人、君だけなんだ。