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 今日一日で彼女の心を射止めて戻ってきてもらおうなんて、もちろん思っちゃいない。僕のしでかしたことはそんなものでは済まないし、彼女は柔らかい笑顔と雰囲気の中に、一本通った芯を持っている人だから。

 ただ、好きな人に格好いいところを見せたいと思うのは当然で、だから待ち合わせで会った時に交わす挨拶だとか、そこからお店に着くまでの道順だとか、話す内容だとか、まるで初デートの時のようにとにかくたくさんのイメージトレーニングを経てこの日を迎えたのだ。

『もしもし、悟? 久しぶり。……遅れてごめん、駅に着いたんだけど、今どこ? 東出口に出ちゃったんだけど』

 だと言うのに、かかってきた電話が彼女からと見るや心の準備もせず反射的に通話ボタンをタップしてしまい、二ヶ月以上ぶりに聞いた彼女の声に、暫し思考回路が停止した。通話は繋がっているのに応答がない僕を不思議に思った彼女は、『悟……?』と少し心配そうな声音で言う。

 ああもう好きだ。久しぶりに声が聞けて、心臓がどくどくと煩い。周りの喧騒なんか気にならないぐらい、自分の体内が一番騒がしかった。

「……ごめんごめん。東出口だっけ?」
『うん、』
「すぐ行く。そこで待ってて」

 努めて平静を装ったが、本当にごまかせているのかは自信がない。電話で声を聞くだけでこんなにも心臓が忙しいのだから、会ったらどうなるのだろう。
 きっとまさか会ってすぐに微笑んでもらえるなんてムシの良いことは起こらないだろうけど、彼女も甘いものは好きな人だし、そうすると今日一緒に過ごす時間のどこかでは笑ってくれる可能性が高い。そうしたら自分は心臓を酷使しすぎて死んでしまうんじゃないか、なんてことを真剣に考えた。

 彼女がいるはずの場所に到着し、辺りを探す。この眼はよく視えるからすぐに彼女は見つかって、声をかけようとしたところで、男の二人組が彼女に話しかけた。咄嗟に距離を詰めて、彼女を引き寄せた。

「僕の奥さんに何か用?」

 ほんの僅かに殺気を込めて睨めば、男たちはすぐに散った。悟、と程近いところから名前を呼ばれ、腰に回していた手を慌てて離す。ごめん、とどうにか呟いて彼女を顔を見た。
 メイクはナチュラルに、だけどきちんと施されていて、つるりとした唇が色っぽい。髪はゆるく巻かれていて彼女が首を傾げたのに合わせてふわりと揺れた。声をかけられた戸惑いからか、胸元にそっと添えられた手の指は冬らしい少しくすんだ色のピンクのネイルに彩られていて、嫌でも期待してしまう。
 そのお手入れとお洒落が、僕に会うために施されたものではないかと。

 久しぶりにこの眼で見た彼女は、ずっと会いたくてたまらなかった彼女そのもののはずなのに。僕の見たことがない服、彼女によく似合う色のメイク、手入れされた髪、そしてほのかに香る香水もすべて、僕の知る彼女よりもっともっと綺麗で、なんだか落ち着かない。

「……こっちこそごめん。助けてくれてありがとう」

 その言葉と困ったような笑顔と、恥ずかしそうに目を逸らしたその仕草が愛しくて、また喧しくなった心臓を抑えようと胸のあたりに手をやる。ついいつも通り首にかけてしまっていた指輪の感触があって、服の中に入れているから気づかれるわけもないのに、人知れずどぎまぎした。

 預かったままの指輪。今日だけでそれを返せるほどの仲になれるとは思っていない。だけど、彼女は僕に会う今日という日に可愛くして来てくれて、「僕の奥さん」と言っても反論せず、ただナンパを追い払っただけの僕にお礼を言ってくれた。舞い上がるなという方が無理な話だ。

 「行こうか」と言ってその華奢な指先を掬ってみても、振り払われない手。彼女が僕を許したわけではないと思うけれど、今は、拒絶されないことがこんなにも幸せだ。

 スイーツビュッフェの90分は、あっという間だった。どんな美味しいケーキよりも、それらを美味しそうに食べる彼女を見ていたかった。戻ってきてほしいと直接伝える勇気はなくて、そして彼女からもその話題は出てこなかったので他愛のない話ばかりだったけど、そんな会話が楽しかった。

 時々彼女の口から同期の七海や後輩の男の名前が出てくるのだけは少し気に入らなかったけれど、それでも彼女と話せることが嬉しい。そういえば付き合った当初も、こんな風にオフの日を合わせてランチをして、取り止めのない話をしていた気がする。

 僕はこの恋をやり直していて、そして前より際限なく彼女を好きになっている。離れてから気付いてもっと好きになるとか、馬鹿な男だと思われていそうだけど。さて、彼女にとって僕はどういう存在なのだろうか。
 僕は既に過去の男で、仲の良い友人に戻りたいと感じているのだろうか。自分と同じ、このじりじりと胸の内側を焼くような劣情を彼女にも知って欲しかったけど、今はまだ、僕だけの片思いでもいい。

 彼女を見ていたくてつい手が止まることが多くて、そんなに食べていないからお腹はいっぱいにならなかったけど、胸と心とが存分に満たされた。


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 店を出て、彼女を駅まで送る。別れ際に、「これから時々、電話してもいい?」と尋ねた。自分で聞いておいてなんだが、これで駄目だと言われたらしばらく立ち直れない。今日、待ち合わせから解散までの二時間程度で貯めに貯めた幸せが霧散する。
 なら聞かなければいいのにと思われそうだけど、でもせっかくこうして会えたから、何か一つ前進が欲しかった。

 ここでこれを言わなければ、きちんと了承を得なければ、また知らぬ間に着信拒否をされたりして、このスマートフォンはただ彼女の番号が入っているだけの箱になる。

「……いいよ」

 彼女は少し眉を下げた笑顔で、ふわりと微笑んでそう言った。じゃあね、と言って控えめに手を振るその仕草が昔から好きで、デートが終わって別れる時にはいつも名残惜しくなってたっけ。

 彼女の姿が見えなくなるまで見送って、踵を返す。女友達と晩ご飯を食べて、そのままその子の家に泊まると言っていた。いいなあ。その子は彼女と長く一緒にいられる上、彼女と同じ空間で眠れるんだ。同性の友人にまで妬いている自分はいよいよ末期かもしれない。

 何気なくスマートフォンを見て、彼女の番号を確かめる。毎日はさすがに迷惑だろうから、我慢して数日に一度にしよう。あの声を聞けばよく眠れるかもしれないけれど、自分は任務で帰るのが遅くなることもあるから、夜はほどほどにしなければいけない。

 浮かれた気持ちで帰路についた。見慣れた筈の自分のスマートフォンが、まるで宝物のように思えた。