ただひとつだって渡せない

「手作りなんて何入ってるか分からないし、買った方が美味しいって言ってるの、聞いたから」

 硝子に任務の後の処理を頼んで術式で移動する。教室の前に着いてどう中に入るか迷った俺の耳が捉えたのは、あいつと傑の会話。その言葉に、自分が数日前に傑との会話で言ったことを思い返す。

 ───言った。たしかに俺はそう言った。あいつはそれを聞いていて、だから俺へのチョコレートは手作りではなく市販のものだったらしい。
ならそもそもの原因は俺にあるわけで、やっぱりちゃんと理由を聞いていればあの日泣かせることもなかったし、こんなことにはならなかった。

「でも一応、両方用意してたんだ。それで、どっち渡そうか迷ってたら、後輩の子からの手作り、五条くんが受け取ってるのを見ちゃって。……私からのは市販がいいって、手作りは要らないって言われたらって、怖くて」

 お前からのチョコを断るわけない。それに、あれはただの義理チョコだ。受け取ったことに他意なんかない。そう言いたいが、さっきの任務で硝子に言われたことを思い出す。

『皆さんで食べて、なんていうのが本音な訳ないだろ。本当に義理なら買ってきたものでいいんだから』

 ……つまりあの後輩のチョコレートは紛れもなく俺に宛てたもので、もしあいつがその場面を見たなら、手作りなんて要らないと言った俺が本命の手作りのチョコレートを受け取ったと捉えていてもおかしくない。というか間違いなく、そう思われている。

 そもそも俺は、『傑にあげた手作りの義理チョコ』に苛立っていて、それなのに『俺が受け取った手作りの義理チョコ』に関しては本当に何も考えていなかった。

「それで昨日、『別れる、傑と付き合えばいい、俺は別にそれでもいい』って、言われちゃっ、た」

 頭から水でもかぶったみたいに、頭も体も冷える感覚。馬鹿な自分が昨日言ったそれをあいつの口からあいつの声で聞くと、心臓がぎしぎしと軋んで呼吸が浅くなる心地がした。色々とすれ違った。それは仕方ないとしても、言ってはいけない言葉だったと再度認識する。涙声になっているのが、教室の外にいても分かる。
 彼女が涙を見せている。俺以外の男に。胸の真ん中が痛いのは嫉妬か焦燥か。

「……じゃあ、悟の言う通り、私と付き合ってみる?」

 ひゅっ、と冷たい空気が肺に落ちた。その言い方はずるいだろ。ふざけんな。悟の言う通りなんて、俺が思ってもないことを口走ったってことぐらい、お前ならわかってるくせに。

「ずっと好きだったんだ」

「私なら君を泣かせたりしないよ。すぐに好きになってほしいとは言わないけど、今日からアピールすれば意識してくれるかな」

 傑の言葉が本気かそうでないか。俺には分かる。だからこそ、地面に縫い付けられていた足が、動かなかった身体が反射的に動いて、気配を消していたのも忘れて教室の扉を勢いよく開ける。力任せにしたせいでやたらと大きな音が鳴ったが気にしていられない。
 まず傑を睨んで、さして考える暇もなく焦って口から出た言葉は、馬鹿で餓鬼な悪態ばかりだった。

「ふざけてないし、勘違いだったとはいえ、君のせいで彼女が泣いてるのは事実だよ」

 傑の言葉に、爪が食い込むほど手を握りしめる。そんなこと分かってる。昨日から泣かせてばかりだ。こいつが自分だけの前で泣くのだって見たくないのに、自分のせいで涙を流すこいつを他の男に見られたことがこんなにも耐えがたい。

何を言うのが正解か、どうしたらもう一回俺のものになってくれるか、今の俺のぐちゃぐちゃになった思考じゃ分からない。だけどこのまま終わるのは嫌で、ちゃんと謝りたくて。

「ちょっと来て」
「え、っと……」

 なるべく穏やかに懇願した声にさえ、目の前の彼女はぴくりと肩を跳ねさせた。昨日の、怖かったんだよな。そりゃそうか。もともと男が苦手なんだと言っていた。いくら彼氏だって言ったって俺はでかい男で、こいつはこんな小さくて華奢な女の子なんだ。俺みたいのが苛立っているのを見たら怯えるのも無理はない。

「……もう怖がらせねえから、頼む」

 口から出た言葉はそんな自分本位な言葉。その響きは心底カッコ悪いものだったけど、黙ってついてきてくれて安堵する。




 後ろをついてくるこいつの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。昨日大股でズカズカと自分のペースで歩いたことを思い出した。コンパスが違うのだから、こいつはきっと小走りだっただろう。力任せに腕をひっぱって足早に歩く俺の背中は、こいつの目にはどう映っただろうか。考えても無駄なのに、後悔は募る。

 空き教室のドアを開ければ、一瞬躊躇する足先。何もしないから、とつとめて優しく言うと、おずおずと教室の中に入ってくれた。俺を信用してくれてのことだろうが、こいつはそのつもりな男に誘われてもこんな風に二人きりになりそうで、その点は少し心配になった。今は本当にちゃんと話がしたいだけだから、言わねえけど。

「……ご、」
「ごめんなさい……っ」
「は?」

 扉を閉めて、一呼吸置いて。ごめん、と謝ろうとした俺に被せられた謝罪の言葉。何に謝られているのか分からなくて、もしかしてヨリを戻したいと思う俺の真意に勘づいて、それを断る意味合いだったらと、肺のあたりがヒヤリとする。

「あの、夏油くんの気持ちとか、全然知らなかったの。たぶん私を慰めようとしてくれただけで、本気じゃないかもしれないけど、……とにかく、五条くんに言われたから二人でいたとか、そういう訳じゃなくて。えっと、だから……」

 五条くんというその呼び方に、また鼓動が嫌な音を立てる。どうやら最悪の事態ではなかったものの、今こいつの頭の中の何割かは傑が占めていると思うともやもやした気持ちが止められない。あとは自分で別れ話を持ちかけておいて本当にクズだと思うが、距離を感じるその呼び方に耐えられなかった。

 言葉を続けようとするその唇に人差し指を立ててそっとくっつけた。ここで傑の話を堰き止めなければ、こいつを繋ぎ止めて仲直りをしなければ、こいつの気持ちがいずれ傑に向くかもしれない。それを想像しただけで心臓が握り潰されるように痛んで、どんな呪霊と対峙したときよりも生きた心地がしなかった。

「ごめん。悪かった」
「っえ、あの、五条く、」
「悟。……頼むから、悟って呼べよ」

 今日はこいつにムシの良い頼み事ばかりだ。身勝手な自覚はあるけど、他に言葉が思いつかなかった。

 自分を不安げに見上げる瞳があんまりに無垢でつい汚したくなるのを堪えて、名前で呼んでほしいとだけ告げた。今までは、男が苦手であまり関わりがなくて、俺が初めての彼氏だと言うこいつに、恋人らしいことをすることは避けてきた。怖がられたくなかったから我慢して抑えてきた。それなのに昨日、そんなことよりもっと酷い態度で怖がらせた。

 本当は今すぐ抱きしめてキスをして、いつかその肌にだって触れたい。
だけど今の俺たちは恋人同士じゃなくて俺はこいつの彼氏じゃないから、それができる権利を手に入れることからだ。

「別れるとか言って、悪かった。傑のとこ行けばいいとか、思ってない」
「え、」
「あと、他の女からのチョコ受け取って、無神経だった。……言い訳になるけど、みんなで食べてくれって言われて、傑か硝子に渡せばいいと思って、本当に何も気にしてなかった」
「………」
「あとは……、手作りが嫌とか、買ったやつが良いとかも誤解だから。知らない奴からのは確かに食べねぇけど、お前からのは絶対欲しかった。……から、義理って分かってても、傑に嫉妬して、あんなこと言った。……ほんとに、悪かった」

 最後の方はきちんと発音できていたかどうか分からない。格好悪いことばかり言って色々手遅れだがその上で、それでもそんな自分を彼女に見られたくなくて、手で気休め程度に目元を覆う。

「……好きなんだよ」

 どうしようもない気持ちを伝える言葉がこれしかないとか、日本語っていうのはなんて不便なんだと誰に向けるでもない悪態をつく。いつも視え過ぎるこの眼を今は遮っておかないと、もしこの告白が成就しなかった時にこいつの顔をまともに見られない。

 手にサングラスが当たってカシャリと鳴った音が、二人きりの部屋に情けなく響いた。
 頼むから頷いてくれないか。なんて、本日3回目の頼み事は流石に言えなかった。