うろこ雲の行方を

「……好きなんだよ」

 五条くん──悟くんは、手で目元を隠しても分かるくらい赤い顔でそう言った。すき。……好き? 誰のことが、なんてひとつも意味のないことすら考えてしまう。この教室には二人きりなのだからきっと私のことだろうと思うのに、信じられなくて言葉が出ない。

 付き合っていた時、一度だけ好きと言ってくれた。だけど私が言葉を求めて言わせてしまったような流れだったし、そして悟くんからの愛情表現はそれきりだった。その時は彼と付き合えているだけで嬉しかったけど、思い返すと恋人らしいことは何もなくて、まさに友達以上恋人未満なんて言葉が似合う間柄だった気がする。

 そんな彼が今、自分から私に好きだと言った。理解した途端に顔がカッと熱くなる。こめかみから耳にかけてとか、目の奥とか頬とか、果ては首のうしろまで、その全部が一瞬で熱を持つ。
 きっと冗談でもなんでもない。だからこそ、いつもの3倍速で心臓が胸を叩いてうるさい。彼に心から好きだと言われるのはきっと初めてで、どんな顔をすれば良いか分からない。

「悟くん、私のこと、すきだったの」
「…………は?」

 どうにか呟いたのは、呆れるくらい心許ない語彙力で紡がれたそんな言葉だった。

 そしてたっぷりと間を置いて悟くんがくれた返事は、そのたった一音だった。どのあたりに驚いているのか、皆目検討がつかない。

 さっき目元を覆った時に手が当たっていたせいか少しサングラスがずれていて、目を見開いているのがよく分かる。絵筆で描かれたようなきらきらの睫毛に縁取られた蒼の瞳をこんなにも真っ直ぐ見たことがなくて、その神聖さに息を止めてしまいそうになった。そしてどういうわけか悟くんまでもが、呼吸が止まったように動かなくなった。

「……俺が、おまえの告白なんとなく受けて、なんとなく付き合ってたと思ってたのかよ」
「……だ。って、デートとかハグとか、き、キスとか、したことない、から」

 少し落ち着いたらしい悟くんが言った台詞は、選ばれた言葉の割に優しい声で私の鼓膜を震わせたのでつい気が緩んでしまって、つい思ったことをそのまま言ってしまった。そんな私に、少しばかり雑な仕草でサングラスを外した悟くんは、大きくため息を吐いてゆっくりとしゃがみ込んだ。

「さ、悟くん……?」
「……キス、したい」
「へ、」
「ハグもしたい。デートもしたい。おまえが怖がると思って我慢してたのに、そんなこと言われたら、もう色々無理なんだけど」
「それ、は……」

 とても恥ずかしいことを言ったのだと、今更気付いたって遅い。さっきとは違う羞恥心に、つま先を見るのでは足りないくらいの角度をもって俯いた。穴があったら入りたいとはこのことだ。

「……なあ。もう一回、おまえに触る権利がほしい」

 すぐ近くから声が聞こえて、思わず顔を上げてしまったことを後悔した。いつの間にか悟くんの顔が思ったより近くにあって、何にも遮られていないその瞳に見つめられるとまるで何かに捕らわれたように目が逸らせなくて、そのうち心の中まで読まれるんじゃないかなんて気持ちになってしまう。

「抱きしめていい?」
「……う、ん」
「……自惚れて、いいんだよな」
「…………うん。もう一回、悟くんの彼女に、なりたいです」

 私の言葉のあと、数秒経ってから。そっと肩を抱き寄せられて腕の中に閉じ込められた。好きな人に抱きしめられるって、こんな感覚なんだ。感じたことのない幸福感をより確かめたくてそっと背中に腕を回した。何気なく胸に頭を擦り寄らせると心臓の鼓動が聴こえる気がしてくるようなこの距離が愛おしいような、そんなたまらない感覚だ。
 すると、悟くんの身体が強張った気がした。何かまずかっただろうか。

「……悟くん?」
「〜〜〜あーもう、マジ、おまえ、ほんとさぁ……」

 ぱっと身体を離した悟くんは言葉になりきらない言葉の切れ端をぽろぽろと発していて、あとはさっきよりもっと顔が赤い。つられて私も恥ずかしくなってしまって、気まずい沈黙が落ちる。

 先にその沈黙を破ったのは、悟くんだった。

「……チョコ、もうねぇの」
「え?」
「おまえの手作り。もう食えねぇの?」
「えっと、ある、けど……」
「けど?」
「悟くんにはちょっと、苦いかも。だから次の休みに、悟くん用のを作るね」
「……味とか、何でもいい」

 悟くんは甘いものが好きだ。彼の大きな体格と自信に裏打ちされた堂々たる振る舞いからは少し想像できないその好みを、かわいいなと普段から思っていた。甘いものを食べている悟くんは幸せそうでその顔を見るのが好きだったから、ちゃんと好みに合うものだけ渡したいのに。

「それがいい」
「え、あの」
「傑と硝子にあげたやつ、俺にもちょうだい」
「でも、」
「いいから。部屋にある? 今日の授業終わったらおまえの部屋行っていい? つーか、前もらった市販のやつまだ食ってねえから、あれは一緒に食お」
「え、いや、まって、それなら私が届けに行くよ……!」

 次々に発される言葉になんとか駆け足で追いつく。自分の部屋に悟くんが来るなんて恥ずかしすぎるので慌ててそう言うと、悟くんは少し静かになった。また何か間違えたのかもしれないけど私が考えても分かるわけがないので、そのまま答えを待つ。

「……俺の部屋来んのは、別にいいけど。さっきの聞いてるから俺、我慢できなくて手ぇだすかも」

 悟くんはひとつひとつ丁寧に言葉を選ぶように、核心に触れそうで触れない曖昧な台詞で私のなけなしの冷静さを攫う。WさっきのWというのが何を指しているかなんて、恋愛経験のない私でも流石に分かる。
 だけど、悟くんの我慢というのはどんな感情で、そしてそれがどんな結果になるのかなんて分からなくて、頭の中で何度か反復することしかできなかった。

「……分かんねぇ?」
「う、ごめん、色々初めてで……」
「知ってる。……だから、もうちょいムードとか、考えたかったのに」
「え、っ」

 悟くんの顔が近付いて、一瞬。ほんの一瞬だけ、唇に柔らかい何かがくっついた。

 それがキスというものだと分かって頭が茹だりそうになるのは、それから5秒後のことだった。