あなたのすべてを知っているのがわたしではないということ




 わたしが何故徹くんの彼女なのだろうかと、考えたことなら何度もある。それこそ、両手両足のゆびの数では足りないくらいだ。けれどもまともな結論が出たことは、一度だってない。

 わたしには、わたしと彼の関係が、ごくごく薄い氷の上を歩いているようなものに思えて仕方がない。彼は白鳥だ。氷が破れて落ちたって平気だしまた飛んで行ける。だけどわたしはそんな綺麗なものでも有能なものでもないから、つまりはそういうことなのだ。わたしの代わりなんていくらでもいる、だから取り敢えず今はわたしでも良い。いつもたどり着く答えはこんなもので、何の解決にもなってはいない。

「なまえ、今週末、ウチで練習試合あるけど」
「そうなんだ。観に行ってもいいの?」
「いいけど、端っこの方で観てなよ。他校の制服は目立つから適当な私服でね。間が空いても会いにも来ないで」

 試合の日程は教えてくれるけど、絶対に公共の場での接触をゆるさない。目立つな、話しかけるな、終わったらすぐに帰れというのが彼の鉄則。わたしはそれを破ったことはない。徹くんはすごく女の子に人気があるから、もしそれらしい行動を取ってしまったら、ファンの子たちからナイフより鋭い視線が飛んでくるだろう。彼の思うところはそんな理由ではないにしても、どっちみちわたしにはひっそりと試合を見守るという選択肢しか残されていない。


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「他校に彼氏がいるのは、知ってるけど、ずっと、好きだった」

 放課後の教室で、二年のときに同じクラスだった男の子とどうしてかふたりきりになってしまって、気付いたら抱き締められていた。混乱して固まったのがいけなかったのかもしれない。告白されたと理解したときには、唇がほんの一瞬触れさせられていた。
 びっくりして突き飛ばして、そしたら彼は「ごめん、悪かった」そう言って教室を出ていく。徹くんじゃない、他の人との、キス。それをわたしはあっさりと許してしまった。涙は出なくて、だけど怖かったのと情けないのとで、しばらくその場にしゃがみこんだ。徹くん、ごめんなさい、脳内では壊れた人形みたいに、そればかり繰り返していた。

 どうにか落ち着いたと思う頃に何気なくケータイを開くと、徹くんからメールが来ていた。「今日、部活早く終わったから、家に来て」という内容で、いつもと変わらず簡素だ。
 ぎしぎしと心臓が痛い気がした。けれども、徹くんに会うのが怖いような、だけど会いたいような、そんな矛盾と一瞬葛藤した結果、家に行くことにした。わたしはどうしたって彼がすきで、なんて自己中心的な女なんだろうと思った。



 インターフォンを鳴らすと制服から部屋着に着替えていた徹くんが出迎えてくれた。おじゃましますと言ったあと、うしろめたさからろくに目を合わせずに部屋まで来てしまったことを、すぐに後悔した。

「何かあった?」

 疑問系なのは文法上だけで、その語気や声のトーンは確信を得たそれだった。言わなければ更に機嫌を悪くしてしまうだろうということは分かっている。でも本当のことを言ったら軽蔑されてしまうかもしれないと思うと、こわかった。薄い氷はいつだってぎりぎりの強度で、ほんの小さな石が刺さればすぐに、すべてにヒビが入るのだ。

「…………なまえ」
「……、や…っ」

 はっと我に帰ったときにはもう、徹くんの胸を押して、顔を背けていた。ちらついたのはあの男の子とのキスで、こんなくちびるで徹くんとキスをしちゃいけないんじゃないか、なんて考えで頭がぐちゃぐちゃになっていた。何か言わなければと思うのに、さっきは出なかった涙がぼろぼろ零れて、うまく声にならない。

「………っごめ、なさ」
「今日は、帰ってくれないかな」

 ようやく喉から絞り出した言葉は馬鹿みたいに陳腐で、そして覆い被さるように徹くんの声が響く。もう要らない、そう聴こえたその言葉が震えていたような気がしたのは、たぶんわたしの都合の良い耳の勘違いだ。ここで出てかなければ、きっと、もっと嫌われる。もう否定されているのにまだ縋ろうとしてるなんて、なんて惨めなんだろう。

 掠れて途切れ途切れな、届いているかどうか分からない「ごめんなさい」を何度も声にして、彼の部屋を後にした。玄関を出ても涙は引っ込まなくて、少し歩いてからまた立ち止まって、道のはしっこで泣いた。