重ねた手のひらから溶けてくれたらよかったのにね




 どれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、しゃくりあげることはなくなってきても、未だに涙はわたしの頬や指を濡らしていた。此処は徹くんの家の角を曲がったくらいの場所だから、部屋から見えたりはしないだろう。ただそれでも、さっさと帰るべきなのは変わりないのに、こんな顔のままバスに乗るのはどうしても躊躇ってしまって、動けないままだ。

 あんな態度とって、傷つけちゃったかも。それはないかな、徹くんはわたしにあまり興味がないから。そんなことより、面倒な女だと思われたかな。嫌われちゃったよね、そのうちメッセージで『別れよう』なんて一言が飛んできて、それで終わっちゃうのかも。

 ぐるぐる、ごちゃごちゃ。頭の中にあるのは本当に徹くんのことばっかりで、わたしには他に何もないんだなあって思い知らされる。カバンから手探りでケータイを引っ張り出して、電源を切った。電話やメッセージが来るのがこわかった。別れる前にもう一度会いたい、なんて、そんなことを彼が赦してくれるかどうか、分からないけど。


「………みょうじ?」
「……っえ、」
「やっぱ、そうか。どうした、こんなとこで」
「いわ、いずみ、くん」

 眉をひそめて心配そうな表情を浮かべる岩泉くんは、とりあえず場所移すか、そう言ってわたしの背中を押して、歩くよう促してくれた。

「落ち着いたか?」
「……うん、ありがとう……」

 わたしをベンチに座らせた岩泉くんは、そのまま隣に腰かけた。手に提げていたビニール袋の中からペットボトルを取り出してわたしに差し出す。はちみつレモンだ。

「開けてねえし、やるよ。泣いたら喉かわくだろ」

 ぶっきらぼうな言い方だけど、岩泉くんは優しい。お礼を言ってひとくち飲むと、じんわりと甘さがひろがった。
 確か中学のときに一度同じクラスになっただけだけれど、高校に進学してからも、まったく面識のない青城バレー部の中でこの人とだけは、話す機会がたまにあった。

「及川と何があったか知らねえけど、どうせまたアイツが、」
「ちがう、の。わたしが悪くて、わたしが、ひどいこと、しちゃって、」
「……落ち着け。泣くなって」

 岩泉くんの大きな手がわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。同じバレーボールを頑張る手だからだろうか。手つきは違うけどなんとなく、徹くんにそうされる感覚と似ている気がして、また泣けてくる。



「なまえ……っ!!」

 幻聴だろうか、幻覚だろうか。切羽詰まったようにわたしを読んだその声は間違いなく徹くんのもので、公園の入り口には息を切らした彼の姿があって。

「……いわ、ちゃん」
「んだよ、言っとくけど何もしてねえぞ。てめえが泣かせたまま放っとくからだろーが」
「っちが、」
「ありがと岩ちゃん、分かってる。でも、岩ちゃんでも、なまえには触んないで」
「えっ」
「それこそ分かってんだよ。そうさせないように大事にしろっつーの」

 岩泉くんは立ち上がり、さっさと公園から姿を消してしまった。わたしはどうしていいか分からず、ぼうっとその背中を見つめる。「髪、ぐちゃぐちゃじゃん」ぽつりと徹くんが呟いて、わたしの髪を指でといてくれた。
 いつの間にか反対の手で掴まれていたらしい手首にじわじわと熱が集まりはじめたころ、するりと掌まで滑って、指を絡められた。恋人つなぎなんて、いつぶりだろう。たまの休みはお互いの家で過ごすことが多かったから、そもそも手を繋ぐ機会もあまりなかったなあと、徹くんの横顔を見ながら思う。
 彼はわたしとの間に拳ひとつ分くらいの隙間をあけてベンチに腰かけた。試合のあとみたいに少し乱れた髪がいとおしくて、きゅっと胸がしめつけられた。

「……色々、聞きたいことあるけどさ。さっき、なんで、キス、嫌がったの?」
「………それ、は」
「俺と居るの、嫌になった? 烏野で他に好きなヤツでもできた?」

 徹くんの瞳がすこし揺らいで見えるのが、気のせいじゃなかったらいいのに。表情は相変わらず読み取れなくて、彼に上手に説明する語彙力のないわたしは、ただ首を横に降った。

「じゃあ、なんで」
「ごめんね、わたし、嫌われたく、なくて」
「……俺、嫌いなんて一言も言ってないよね」
「ちが、ちがう、の」


 また勝手に涙を流すわたしの頬を、彼の指がなぞる。ゆっくりでいいから、と言ってくれたその声と言葉がやさしくて、すとんと肩の力が抜けた気がした。徹くんは魔法を使えるのかもしれない。

「あの、今日、こくはく、されて、断ったけど急に、き…きす、されて、こわくて……っ、わたし、徹くんに、キスしてもらう資格、ない、と、おもって」
「……それで、避けたってこと?」

 小さく頷くと、ぎゅうっと抱き締められた。彼が長く長く息を吐くのが聴こえてきて、彼の心臓がびっくりするくらい早鐘を打っているのが分かって、わたしはまた解らなくなる。ほんのり汗の匂いが混じる彼のTシャツに額をすり寄せてみた。より強く抱き寄せられて、すこし苦しい。顔がどんどん熱くなってくのが分かる。「ちょっと黙って聞いてて」という前置きと共に、僅かに力が緩められた。

「泣いてるってわかってて、お前をみすみす追い出すみたいなこと、普段なら絶対しないけど。お前に拒否られたのとかはじめてだったし、正直かなりテンパったし、俺のこと嫌いになったのかと思ったらなんか、お前を烏野の誰かに取られたんじゃないかって考えてムシャクシャして、このまま一緒にいたら無理矢理ひどいことして余計泣かせるかもしんないって、結構本気で考えたから、まだ外明るいし大丈夫だろうって思ってそのまま帰したのに。……なんとなく嫌な予感して外出たら、うちの家の通りにこんなの落ちてるし」
「……あ、」

 身体が離されて、徹くんの手元に目が止まる。中学のときに初めて徹くんにもらった、誕生石のチャームだった。カバンにつけていた筈のそれは、チェーンの部分がゆるくなっていたらしい。

「……血の気引いたからね、人生で初めて。あと絶対寿命縮んだし。お前の携帯に電話しても繋がらないし、頭ん中ぐっちゃぐちゃで、取り敢えず近くの狭い路地とかは一本一本通って探して、そんでなんとなく公園覗いたらお前男といるし頭撫でられてるし、アレ岩ちゃんじゃなきゃ確実に殴ってたよ。それくらい視野狭くなって、ほんと、アホみたいな話だけど、……あーもう……」

 顔が近付いて、目を瞑る暇もなくくちびるが重なった。一度離れて、もう一度。今度はゆっくりと瞼を閉じた。いつだって優しいキスをしてくれる彼だけれど、こんな、労るようなキスは初めてだ。

「………そんなことで、嫌いになったりするわけないから。相手の男に関してはぶん殴りたいくらいむかついてるし、まあお前が無防備すぎるのも原因のひとつではあるけど、俺はそんな簡単に、なまえを手放すつもり、ないよ」
「とおる、くん」
「だから、頼むから、拒まないでよ。お前に本気で嫌がられるのとか、ほんと、日常生活に支障がでるレベルでキツいって言ってんの。分かる?」

 こつん、額を合わせて懇願するような仕草に、すこし混乱してしまう。返事は、と拗ねたように催促する彼は、いつもの大人っぽい表情とはまた違っていて、かわいいなあと思えた。

「……うん。さっきは本当に、ごめんね」
「……いいよ。でもこんな心配は、二度とさせないで」
「………うん」

 三度目のキスは深くて、くちびるが離れたあと「甘いね」と言って彼がちいさく笑うので、つられてわたしも笑った。