臆病な愛を赦して




 自分が本当になまえしか見えてないんだってことは、自分が一番よく解ってる。

 中学三年の春。一年くらいの片思いに限界が来て、告白して半ば強引に付き合って、彼氏という地位を手に入れた。ただ彼女は、付き合い始めてからも俺のことを、「バレー部主将の及川くん」とカテゴライズしていた。
 どうにか異性として意識してもらうために、自主練のない日は彼女をちょっと無理やりに待たせて、手を繋いで帰った。休みの日はお互いの家に行って、何をするでもなく一緒にいた。下心との戦いだったけれども、彼女とより長く時間を共有することに尽力した。噂好きの女子がうるさいからとあまり表立って彼氏彼女だとは言わなかったから、その分親や偶々会った岩ちゃんには「俺の彼女」として紹介した。

 そうして3ヶ月たったころに「すき」と小さく溢せば、たどたどしく「わたしも」と返されたときの、俺の心の中の歓喜は計り知れない。そしてその1ヶ月後、ようやくキスまでこぎつけた。初めて触れた彼女の唇はやわらかかった。

 高校が離れることは、薄々感づいていた。そもそも、私立へは行かないと前々から彼女は言っていたし、まあ後々彼女のいる烏野と色々因縁めいたことになるとは思ってなかったけれども、特に驚きはなかった。
 ただ当然、不安はあった。彼女はあれからも何度か、俺に好きと言ってくれたけれど、それは彼女の傍に俺がいたから。学校でずっと一緒にはいなくても、元々彼女は男友達はそれなりにいたが、恋愛に鋭い方ではない。他に誰も踏み込まなかったから、そこにつけこんだのがたまたま俺だったから、恋人同士になれただけ。その事実は、いつだって俺の心臓をちくちくと刺した。

 本気で好きになった子には素直になれない。これはどうやら本当らしいと、彼女と付き合ってみて初めて思った。彼女にだけ態度はそっけないものになるし、うまく甘えることも甘やかすことも難しい。かわいいとか、すきだとか、愛してるだとか。心の内に秘めるだけで、それらが声になる機会はごく僅かだった。女子ならそういう言葉を欲しがっても良さそうなものだけれど、彼女は全くと言っていいほど、俺に何も求めなかった。そして何も、否定しなかった。
 ただ、彼女を手放すことだけは考えられなくて、高校に進学して頻繁には会えなくなると、これまで以上に独占欲というものを感じるようになった。付き合って3年経った今でも、俺は馬鹿みたいに彼女しか見えていない。

 そんな俺と彼女だが、それなりにうまくやっていると思っていた。だからこそ、キスを拒まれたのは始めてで、驚いたなんてもんじゃない。
 家に来たときから、少し様子がおかしいことには気付いていた。だけど拒否されると思っていなくて、湧き立つすこしの苛立ちと、焦り。キスを求めるのが早急すぎたというのもあったのかもしれないが、それでも彼女が俺を拒んだことには変わりなかった。

 他の女の子たちの前ではいくらでも笑顔をつくれるし、優しい言葉を吐ける。ただ、相手がなまえだとそうはいかなかった。
 愛想を尽かされたのか、嫌われたのか。……他に、好きなヤツが、できたのか。自分の中のどす黒い部分がどろりと顔を出す。ぐしゃぐしゃに丸めて形を成さない心で、理由をやさしく問うことなどできる筈もなかった。

「今日は、帰ってくれないかな」

 言い訳になるが、その時の精一杯の言葉だった。無理矢理事に及んでしまいそうだったのと、ひどくしてしまう可能性も否定できなかった。それくらい俺は動揺していた。泣いている彼女を放って、畳に寝転がって目を閉じる。それを後悔するのは、案外すぐだったのだが。





「っひぁ、………」
「……、なまえ、」
「ぁ、……とおる、く、」

 彼女を抱くときはいつも、初めて彼女を抱いたときのことを思い出す。苦しそうに、だけど幸せそうに痛みと快感に耐えるその姿は、いつでも俺を夢中にさせた。付き合って半年経ったとき、初めて「したい」と言ったあと、彼女が恥ずかしそうに頷いてくれるまでの数秒は、そのときまでの人生の内で最も脈拍が忙しなかったときだろうと、真剣に思う。
 その日、俺は本当の意味で、彼女を手に入れられた気がしたのだ。いくら俺が強引に始めたに近い交際でも、好きでもない男に身体を開くほど彼女は他人に流される性格ではないし、何より最中にキスをすると、ふにゃりと幸せそうに笑う。ああ、なまえは本当に俺を好きなんだ、今なまえが好きなのは俺なんだ。それが確かめられるから、キスやセックスは好きだった。満たされるのはいつでも、性欲や支配欲よりも、心臓のいちばん奥だった。

 行為の後、隣でぼんやりと微睡む彼女の髪を撫でる。「とおるくん」と舌たらずな口調で俺を呼ぶなまえの言葉を待つ。

「あの、徹くんは、どうしてわたしなんかを、その、好きになって、くれたの?」

 言いづらそうに口ごもる彼女に、ああ、そういえば話したことはなかったなあと思い返す。今さら恥ずかしくなったのか、彼女は自らの鼻までを布団で覆ってしまった。

「……………言わない」
「へ、」
「いつか気が向いたら教えるよ。それより、」
「……?」
「好きって、言って」

 かあっと赤くなる彼女の頬に手を添えて、逃がさない。なまえはきっと、自分が俺に依存していると考えているんだろう。
 本当は、離れられないのは俺の方なんだ。最中に何度も名前を呼んで、何度も好きだと言った。どれくらい彼女の耳に届いているのかは知らないが、喋る余裕のない彼女はただ頷いたり微笑ったりするだけだった。改めて言葉が欲しいとか、俺は女々しいのだろうか。

 ねえ、好き。ほんと、バレーしてるときくらいしか忘れてられないってくらいお前のこと考えてるよ。なんならバレーより好きだから。バレーがこの世からなくなったら暇で死にそうにはなるだろうけど、なまえがいなくなったら生きてけないよ。本気でそう思うくらい、それくらい、好きだから。

 言葉にならない好きをこめてキスをした俺のくちびるが、彼女が呟いた好きを飲み込んだ。鼻にかかったような吐息が、また俺の気をよくさせる。


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 中学二年の春に強豪である北川第一バレー部のレギュラーを勝ち取った時、それなりにクラスの人気者だった俺に、「及川はやっぱ違えなあ」「及川くんなら納得だよね」と、みんなW才能Wを押し付けた。だけど、ひとりだけ。

──及川くん、レギュラーになったんだよね。おめでとう
──……あ、うん。ありがとう
──毎日遅くまで残って、練習してるんだもんね。無理しないで頑張ってね

 いまより遥かに単純だった当時の俺は、この一言でころっと恋に落ちたのだ。彼女にとっては何気ない会話だったのだから覚えてはいないだろうから、今のところ教えてやるつもりは毛頭ない。……けれど、いつか。そんなことを考えながら、彼女にいくつもキスを降らせた。