※社会人設定


「先輩、まだいたんスか」
「月島!」
「帰れます?送ってきますけど」
「もーちょっとで終わりそうだから、先帰っていいよ!お疲れさま」

オフィスに残っているのは私と月島だけだった。
窓の外では月が随分高いところから、こちらに顔を覗かせている。時計をちらりと見遣ればもう22時を回ったところだ。


「お疲れ様です」

ぺこりと頭を下げて出たかと思いきや、10分後、月島はコンビニの袋を下げて戻ってきた。
近づいてきた足音に、守衛さんかしらと顔を上げればさっき別れの挨拶をしたばかりのその姿に、目を丸くする。
そんな私に気づかぬふりの月島は、右手に持ったその袋を私のデスクにのせた。
ゴミはゴミ箱に捨てて下さい。そんな当たり前のことと思えるメッセージが、ビニール袋にはプリントされている。

「どーせ“もーちょっと”じゃないんデショ。飯食わないと持ちませんよ」
「つ、月島って…」
「なんですか」
「…こんないい子だったっけ」

そう言うと同時にイラッと顔に書かれたその表情を見て、存外わかりやすいこの相手に思わずプッと吹き出す。

「嘘だよ。いつも気にかけてくれてるの知ってる、ありがとう」
「べつに。それより苗字さんはなんでもホイホイ引き受けるのやめた方がいいんじゃないですか?」

キャパオーバーって言うんですよそういうの、と鼻で笑う月島を見て、ムッとした私は「大きなお世話ですぅー」と負けじと返す。
月島は私の隣のデスクに座って袋からお弁当を取り出して私の前に置いてくれた。
作業を一時中断し、いただきますっと手を合わせて割り箸をパキンと二つに割る。お昼ご飯以降何も入れていなかった胃は空っぽで、もはや空腹を超えた状態の私にはものすごいご馳走に感じた。こんな出来た後輩を持った私、幸せ者だわ…なんて独りごちる。

頭の中で残っている仕事を整理し、今日は日付超えちゃうだろうなぁ、それまでに月島にはなんとか帰ってもらわねばなんて頭を働かせていると、目の前の月島は眉間にシワを寄せて何かを考え込んでいるようだった。

「…苗字さんて、」
「ん?」
「まだあの人と付き合ってんすか」
「え?!」

思わず飲み込んだ物が気管に入り、ごほごほとむせる。驚いた様子の月島が背中をさすってくれた。

月島が言うあの人とは、いま私が付き合っている彼氏のことだ。なぜそいつのことを月島が知っているのかといえばつい先月までうちの部署にいたからである。2年前の入社当時から同期で仲良くしてきた彼と恋人の関係になったのは半年前のことだ。どちらかというとチャラいと言われるような部類である彼は、今まで彼女が切れたこともなかったし、別れる原因は大抵彼の浮気だったと聞いている。人懐こく、相手の心の隙にすっと入るのがうまいためか、付き合おうと提案された頃にはすっかり私も彼に心を許してしまっていた。付き合ってからも休みの日は普段自分だったら行かないようなところへ連れ出してくれたり、楽しませてくれる彼を見て、私たちは順調なんだと思っていた。
ただ、やっぱり彼は彼のままだったのである。

先週のことだった。偶然月島と退社時刻が重なり、一緒にビルを出たところで彼を発見した。
声をかけようとして気づいた、彼の横には女の子がいたのだ。たしか彼の異動した部署の子だ。彼女の腰に手をまわし、二人が向かう先は繁華街のほうだ。
想像もしていなかった出来事に声をかけられず、立ち尽くしている私に「先輩、帰りましょう」と腕を引いて駅まで送ってくれたのは月島だった。後輩にこんな情けないところを見られてしまったというショックも大きかったが、それ以上に自分の目で見てしまった映像のショックはかなり大きく、会話もなく月島に引かれるがままに駅まで歩き、そのあと家に帰るまでのことは記憶が途切れているくらいだ。

月島に彼とのことを指摘され、先週のことがフラッシュバックする。
そのあと彼とは会っていないものの、先週見た件について未だ問いただせていないままだった。

「一応、付き合ってる、かな」
「なんで」
「なんでって…」
「あんなのどー見ても浮気だったんだから、早く別れた方がいいに決まってる」
「そっ、そんなの確かめなきゃわからないじゃん」
「じゃあなんでさっさと確かめないんすか」

わかってる。
自信がないのだ。確かめて、自分の考えていることが当たっていたら。そしたらその時自分はどうしたらいいのだろう。別れを切り出すにしたって、うまく丸め込まれてしまうのではないか。
いつもこうして誘導されるばかりで、自分で決断してきたことなんて片手で数えるほどだったように思う。自分のこういうところが心底嫌になる。でも、自分でもわかっているそういう部分を、こうして他人に指摘されるのも心底苦しい。

「月島には、関係ない」

俯いたまま言ってしまった。
月島がどういう表情をしてるのかは読めない。きっと呆れたに違いない。今度こそ愛想を尽かされたかもしれない。ごめん月島。こんな情けない上司のことはほっといてくれていいよ。
ハァ、と溜め息が聞こえた。
わかってはいてもあからさまに態度に出されるのは結構つらい。

「あのネ、関係なくないから言ってるんです」
「え?」
「苗字さん、俺のことわかってなさすぎ」

ふい、と月島は先程から両手で遊ばせている、空になった缶コーヒーに視線を逸らしてしまった。
眉間のシワは寄ったままだ。
いらいらしている様子の月島は、何かを伝えるのを躊躇っているようにみえる。ある考えが私の頭を過ぎって、反射的に打ち消した。ふる、と頭をふって俯く。
いや、まさか。

「苗字さんが言わないなら俺が言いますよ」
「え?!!何言ってるの!」
「俺は、」

また何かを躊躇う表情を見せ、でもそれは今度はすぐに何かを決意したものに変えた。こっちを向いた月島の瞳に映った自分の情けない顔に、目を背けたくなる。

「苗字さんがそんな顔してるの、ムカつくんです」
「…私は大丈夫だって」
「まだわかりませんか」
「つきしま、」
「あんな奴やめて、俺と付き合って下さい」


右手を引かれたかと思えば、そのまま前にバランスを崩した身体を優しく抱きとめられた。激しい鼓動が聞こえる。私の心臓も、月島のも、こんな速さで動いていては壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに存在を主張している。
それでも抱き締めながら私の頭を包む手は割れ物を扱うかのように優しい。

「ずっと好きでした」




君が泣きやむ未来まで

170921