テニスコートと安室透


いま私は最高に苛立っている。
こんな場所じゃなければ遠慮なく騒いでいただろう。
以前のポアロという喫茶店にて待ち合わせた相手とBOX席での対面である。あのイケメンは、今日はいないらしい。
出会い頭の嫌味も済ませ、男の差し出した書類に目を通す。これまでの出陣結果や前回のベルツリー急行の一件の報酬に関するものだ。
案の定な内容に眉間に皺を寄せ、書類を置く。

「なんだこれは」
「働きに応じた金額だ」
「どんな計算をすればこうなるんだ。いい加減にしろ。こちらの生活が成り立たないどころか家賃も出せん」
「それはお前の管理責任だろう」
「責任ならばそちらだろう。これは別として遠征で必要な金額は給金に加算されて支払われるはず。それがないのはどういうことだ」
「正規でもないお前にその権利が適応されるとでも?」
「その正規でもない者を選んだのだからこそサポートする責任があるだろう」
「それはないと何度言わせる。不毛なやりとりだな」
「…支払う気がない事は重々再認識した。時間の無駄だ」
「ふん、在らざる者のくせに権利には口煩い」
目の前に座る担当がカップに残った珈琲を飲み干し千円をテーブルに置いて席を立つ。
「釣りはくれてやる」
「……」
そう言って去っていく背を睨みつけ、担当は店を出ていった。やり場のない怒りを舌打ちで誤魔化す。
在らざる者にしたのは、お前らだろう。




「お姉さん?」
「…やあ、コナンくん」
「今の人、だれ?」
「…上司」
突然現れ先程まで担当の座っていた席に勝手に座るコナンくんに、こんなやさぐれている時に来ないでもいいのに、と思いながら書類を素早くしまう。
「今の紙は?」
「給料明細。変な形で出されるんだけどね」
「…お姉さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない…」
テーブルに額をつけ、置かれた千円を握り締めながら顔を隠すように両腕をテーブルの上で組む。
こんな金にすら縋らないといけない財布事情と言えば理解してくれるだろうか。屈辱である。
いや、むしろ私にまだ屈辱を感じる程のプライドというものはあったのかと安心もする。……握っているものを見ればそれも捨ててしまったようなものなのだけれど。
いっそこの金も捨てられるようなら、まだいいのに。

深く息を吐き出し、深く息を吸い込む。
泣いてはいけない。泣くわけにはいかない。こんなことで泣いている場合ではない。
「…ねえ、お姉さん」
「なあに」
「お姉さんってテニスできる?」
唐突な質問に首をかしげながら顔を上げる。
彼は気遣うように笑いながら、私の返答を待っていた。
「出来なくはないけど、関節に関しての最弱王だからすぐ亜脱臼するよ」
「なんだよそれ…」
私の返答に先程の笑みはどこへやら。なんとも形容し難い呆れ顔を披露してくれた。
「どうしてそれを?」
聞くの?と尋ねてみれば彼は
「連れてってくれるように頼んでみるよ」



めいたんてい、もーりこごろー、という男の運転する車に同乗させて頂いている今現在。
女子高生に挟まれた私はガチガチに緊張していた。
「このはさんって言うんですね!私は鈴木園子でーす!」
「毛利蘭です、運転しているのが父の毛利小五郎です」
「よ…よろしくお願いします……その、鈴木さん、同行を許して下さりありがとうございました。小五郎さんも車に乗せていただいて…」
「そんな固くならないでよ!このはさんの方が年上でしょ?いくつなの?」
「黙秘します」
「じゃあ恋人は?」
「………ご想像にお任せします」
「いるのね!?ね!どんな人!?」
「ちょっと園子…」
ガツガツくる女子高生怖い、と思いながら、恋人なぞいないと答えそうになる。
しかし、まあ一応協力者である沖矢昴とはコイビトカッコカリである。当たり前のように何も無いどころか乞食と乞食された者の関係だ。
無難に、と答えたがヒートアップした彼女は止まらない。
蘭ちゃんも口では園子ちゃんを止めてはいるが目は興味で輝いている。

「ねえ、それってポアロにいたお兄さん?」
「安室さんのこと?」
「ううん、桃色の髪のお兄さんがいたんだ」
「アイツは違うよ…」
「お兄さんがこのはお姉さんをご主人様って…」
「聞き違いだ、断じてご主人様なんて言ってない、絶対にだ」
キャー!と興奮したような園子ちゃんの叫び声に言い訳が聞こえているのだろうか。
…SM的関係だと思われている気がしてならないが。もうね、どう足掻けばいいのコレ。
追い詰めてくれたコナンくんに恨みがましい視線を送るとははーと誤魔化すように笑っている。このガキィ……。
どうにか園子ちゃんの彼氏の話に流れたことに安心して息を吐いた。ああ、胃が痛い。

伊豆にくるのは初めてで、青々とした木々や澄んだ空気に癒される。
車の中での胃痛も心做しか治まってきた。
テニスコートに遅れて入ればテニスラケットを持ってコートにいるコナンくんと、サーブを打つ…イケメン…もとい、安室透の姿だった。

よっし逃げるぞ私!イエスマム!戦略的撤退!!いざゆけ「このはさーん!早く早く!」撤退失敗であります!

とぼとぼと重い足を前に進めれば女子高生に囲まれた安室透がいる。
「……以前はお店で騒いでしまい申し訳ございませんでした。急行の時もぶつかってしまい…すみません。大河このはと申します」
「いえいえ。こちらこそ不躾に話しかけてしまいまして。僕は安室透です。よろしくお願いしますね」
差しだされた手に困惑しつつ恐る恐る触れると力強く握られた。
「え、えっと…?」
離せ!浄化される!やめろ!!と脳内では沢山の私が抗議する。しかし安室透が私の手を離そうとはしない。再びきゃーとはしゃぐJK組が羨ましい。できれば私もそちら側に居たかった。きゃーなんて可愛く騒げないけど。
「ずっと、貴女と会いたかったんです。この前も機会がありませんでしたから…今日会えて嬉しいです」
「ハニートラップかな……」
思わず呟いた一言に安室透の眉がピクリと動く。
「やだなあ、そんなつもりはありませんよ」
「美人局じゃない?いじめない?ジャンプすんだよあくしろよって言わない?」
小銭の音もしないよ?と不安になりながら聞くと安室透の笑顔がとても引きつっている。
「どんな経験をすればそこまで疑心暗鬼に…」
「……」
ふい、と視線どころか顔ごと逸らす。どうでもいいから手を離して欲しい。脳内の私が既に何人か浄化され、安らかな顔でサラサラと崩れている。イケメンパワー怖い。
「やはり神職ということでこういう事は慣れていないとか?」
「そうじゃなくてイケメン怖い」
「でもこの前の桃色の髪の人は…」
蘭ちゃんの言葉に私は首を傾げ、つい言ってしまったのだ。本当に不思議に思っていた。けれど、これは物である彼らを知り見馴れた我々と何も知らない一般人とのズレであることに辿り着かないまま。


「自分の物に何故恐怖しないといけないの?」

時が、止まった。


安室透は苦笑しながら私の手を離した事を無理やりいいことだと思い込む事で心の安静を保つ。
蘭ちゃんと園子ちゃんは亀甲のこと…主に容姿について情報交換をしておりキャーキャーとはしゃいでいる。小五郎さんは呆れ顔で、コナンくんも…。
気を取り直した安室透は園子ちゃんに「ではサーブからはじめましょうか」と声をかけていた。
蘭ちゃんからは「いっしょにやりましょう」とお誘いを頂き有難くお言葉に甘えることにした。
コナンくんに注意をする蘭ちゃんを見ていると安室透が叫ぶ。
「危ない!」
それと同時に飛んできたラケットがコナンくんの頭にぶつかる。殺人テニヌのボールでなかったことは幸いだと現実逃避をした瞬間にハッと正気に戻り皆に遅れて彼に駆け寄った。

まさかこんな展開になるなんて。