現実の悪夢


※刀剣、探偵キャラは出ません。歴史から消えた日の審神者(仮)の話です。




悪い夢だ、これは、夢なんだ、きっと。
そう頭の中で叫びながら悲鳴を上げる足は止まらず、前へ前へと進む。とっくに少ない体力など尽きていて、うまく吸えないまま息を荒く吐く。脇腹も痛いし膝も痛い。
でも、止まれない。だって、止まってしまったら認めてしまうような気がして。

ーーーーー就職氷河期組で就職活動の末の敗者である私はパート契約で店に勤めていた。いつものように仕事したくないと憂鬱な気分で家を出て、職場の前でさあやるか、と気分を切り替えて。
いつものようにタイムカードを切ろうとしたらバッグの中にはタイムカードもなくて。
忘れたかと思いながら仲のいい管理の人に話しかけた。
「すみませーん、タイムカード忘れてしまって…」
「新しく入った方ですか?ならここに名前と時間を…」
「いや、何言ってるんですか。ここ勤め始めてもう4年ですよー、昨日も会ったのに、やだなぁ」
「…?存じ上げませんが…」
「…え?」
昨日まで気さくに話しかけてくれていたはずの人は他人行儀でそう言った。嘘をついているようには見えなかった。
おかしい、とお互い思っただろう。管理の人はすぐにデータを調べ始める。
そこには、私の名前はない、らしい。

職場に私という存在が最初からいなかったように消えた私の名前。顔を覚えていないという管理の人や同僚、先輩、後輩。
警察を呼ばれる寸前で逃げ出して、親に電話をかけようとして…。
繋がらなかった。
そもそも私の携帯自体が使い物にならなかった。
無機質な自動音声だけが流れている。ネットも接続出来ませんという画面のみ。
毎月の使用料はきっちり支払ってきたのに。家を出る前まではちゃんと使えたのに。
嫌な予感はどんどんと大きくなる。
思わず走り出して家への道を進む。
おかしい、おかしい!おかしい!!
こんな道さっきまではなかった!ここは歯医者じゃなくて写真屋だった!
あそこは行き止りなんかじゃない!
通り慣れて見慣れていたはずの道は様変わりしている。行きに通ったはずの道が知らない道に変わっている。それでも走り回った。帰るべき場所に帰るために。ーーーーー


そして、私の家があったはずの場所にたどり着いた。たどり着いた筈だった。
何も無い、更地になった家の建っていたはずの場所に。
限界を既に超えている私の足は疲れからか、この事実に対してか震えていて。ふと力が抜けた一瞬で崩れ落ちた。アスファルトに打った膝が痛い。リアルな夢だな、なんて現実逃避も結局上手くはいかなくて、身体が恐怖で震える。
どうしてなにもないの、どうして。


弱りに弱った私の精神はあの場所に留まれるほど強くはなかったらしい。重い足を引き摺るように動かして近所の公園のベンチに落ちるように腰掛けた。
米花公園…なにそれ、知らない。私が知ってる公園の名前は中央公園だったはず。

どうして、どうなってるの。
あの後、いろんな場所を訪ね歩いた。
親戚も、私のことを知らなかった。友達も、私のことを知らないと言った。
母のことも、父のことも、弟のことも、全員知らないと。

カバンの中には使い物にならない携帯と財布。財布の中には数千円。キャッシュカードや保険証もなくなっていた。あとはハンカチとお弁当。たいしたものを持ち歩いていなかった。口座にはまだ数万円あったのにな…。
どうなってるの、と何度自問しただろうか。
じくじくと痛む膝をふと見てみれば、血が滲んでいたのだろう。今ではその血も固まっている。
夢じゃ…ないのか…。
そう思うと、視界が滲む。
カッと頭が熱くなって、体が痺れたように動かない。目尻から熱い液体が流れ、頬から顎へ、顎から下へと落ちていく。飽きもせず、それは止まる気配がない。


ぽつりと、無駄であるとわかっていながら、それでも縋りたいそれを呟いた。


「夢で、あればいいのに」

本当にひとりぼっちになった私はただ、それを願い続けて。
それでも世界は無情にも夢から醒めさせてくれないまま肌を刺す冷気と共に暮れていく。

目を痛いほど力を入れて瞑り、両手で耳を塞ぎ身を丸める。目に映るものも、聞こえる声も、感じる冷たさも、痛みも。全てが怖かった。心細かった。寒くて寒くて、凍えてしまいそうだった。いっそ、死んでしまいたいと思えるほどに。
それでも死ぬ勇気も持たない私はなんの術も持たないくせに、惨めに生に縋るしかできないのだ。縋れるほどのちからも、今は持っていないというのに。

突然ひとりぼっちの世界に放り出され、孤独と恐怖に怯えて、痛みに震えて、ただ身を縮こませる。どんなに怯えて震えても、夢であって、と祈る私を救ってくれるほど世界は優しくなかった。