‐亡明‐
陽が傾きだし、眩く橙色に染まった森をクリミア王女とその護衛一行が駆け抜けていく。隊列の殿を引き受けていたケビンは、ふと、馬が大地を踏み鳴らす音が後方で新たに増えてきていることに気付いた。そしてその音は、だんだん近付いてきている。
「まさか――ジョフレ将軍!!追手です!!」
「くっ……全員、戦闘準備!!エリンシア様、どうか我らに構わずお進みください!」
ジョフレがそう指示してから僅か数秒後、なんと前方にも黒い鎧に身を包んだ一団が飛び出してきた。危惧した中でも最悪の展開だ。一行は自軍よりも倍近く数を上回る追手に挟み打ちにされ、進退窮まってしまった。手綱を急に引かれた馬たちの嘶きが辺りに一斉に響いた。
「どうやらそなた達が本隊だな。先ほど空の馬車を連れた部隊に当たったが、釣られたとはいえああも弱くては、さして足止めにならぬ!さあ、おとなしく姫を差し出すのだ!!」
口髭を生やしたデインの将らしき男が、白馬の上で矢を番えながら宣った。他にも何騎かのボウナイトがそれに倣って弓を引く。
その矢に真っ向から相対するクリミアの将ジョフレは、毅然として答える。
「断る!!」
直後、間も言葉もなく飛矢が鳴った。
ジョフレは槍の一振りで全ての矢を払い除け、彼の愛馬も一歩も退かなかった。それを合図として、両軍の戦いの幕が上がる。前からも後ろからも、次々とデイン兵が突撃してきた。
「我こそは!!クリミア王国王宮騎士5番小隊隊長ケビンなり!!卑劣なデイン軍め、覚悟は良いか!!」
敵に負けじと声を張り上げ、赤い鎧の騎士は磨き上げた斧を振りかざして迎撃に走った。遂に両部隊は衝突し、静かだった森は一変、喉と鉄を震わす激しい戦場となった。夕焼けの赤い森が、別の赤に染まり始める。
「エリンシア様。陽が眩しいようでしたら、無理せず目を閉じていてください」
隊列の中央付近でエリンシアの傍にいたリタは、彼女を死守するために鮮やかに愛槍エレボスを振るった。前線を掻い潜って中央にまで迫りくる敵兵の数はまだ少ないが、一人の討ち漏らしも許されない。冷静に、的確に急所を突いて息の根を止めた。
クリミアの姫を奪取したいデイン軍はこちらの足止めと消耗を狙って完全包囲を目論んでいるようだが、それを簡単にやらせるクリミア近衛兵ではない。前線の騎士が壁となって出来る限り敵軍の移動を遅らせ、リタと他数名の騎士は姫を囲い庇いながら斜め前へと進み続ける。ぶつかり合う潮の流れに乗るようにして離脱を図った。
「エリンシア様、こちらに!私の背中だけを見て付いてきてください!」
「は、はい……!」
壁となっている騎士たちは倒れていく者も少なくなかったが、皆が姫の盾になろうと懸命に抗っている。おかげでエリンシアは順調に戦いの渦から離れていけている。これなら、もう少しで左手から離脱できる。
しかし、敵将の男はそれを見逃すほど甘い愚物ではなかった。敵将は単身遠方に離れ、エリンシアとは随分距離があるものの、平行線上を走って追ってきていた。そして弓を天に向けてそのまま矢を番え、引き絞り、放った。
「きゃあぁ!」
「エリンシア様!!」
敵将の放った矢は高く弧を描いてリタたちの頭上を越え、陰に隠れていたはずのエリンシアの馬の左目に命中した。あの敵将の弓矢の腕前はかなりのものだ。馬は激痛に暴れ回って彼女をその背から振り落とし、鬱蒼とした木々の彼方へ走り去ってしまった。
「エリンシア様、お手を!」
「そうはさせぬ!」
リタは急いでエリンシアの元へ馬を駆り、右手を差し出して拾い上げようとしたが、猛追してきた敵将がすぐそこまで迫っていた。敵将は手早く武器を弓から剣に持ち替え、リタの背後をとった。今のこの姿勢で斬り掛かられては、うまくあしらい切れないかもしれない。落馬覚悟で体当たりでもするしかないかと思ったその時、赤い鎧が勇ましく割って入り、斧を振り上げて敵将の剣を思い切り跳ね返してくれた。
「ケビン!」
「行ってくれ!!姫様を頼む!!」
「ケビン、」
ほっと息を吐けたのも束の間のこと。赤い鎧の彼は大腿に矢が刺さり、そして兜の上から殴打でも食らったのか、左側頭部からだらだらと血を流していた。左目にはその血が入ってしまったようで、右目だけでリタを見ている。傷は、浅くはない。
「リタ殿、早く!!」
「――っ、お任せを!」
一喝を受けて気を持ち直し、少し先でへたり込んでいるエリンシアのところまで馬を走らせた。彼女は手や頬に擦り傷を創ってしまっていたが、リタの顔を見上げると、しっかりと自分で立ち上がった。
「エリンシア様、今度こそお手を!」
「リタ様……!」
小さく白い手を力いっぱい一息に引きあげ、どうにかエリンシアを後ろに乗せられた。腹にきゅっと回された腕からは、無理矢理にでも震えと恐怖を押さえ込もうという精一杯の健気さが伝わってきた。
もう一度ケビンの方を見遣ると、ジョフレも加勢して二人がかりで敵将を引き留めていた。姫の方へは絶対に行かせないという強烈な気迫を放ちながら、斧と槍を繰り出している。
「くぅ、そなたら、そこを退け!」
「行かせるものか!!貴様の相手はこのオレだ!!」
「リタ殿!あなたはエリンシア様をお連れして逃げてくれ!」
「そんな……ジョフレ、ジョフレ!」
「ジョフレ将軍、ケビン、ご武運を!エリンシア様、しっかり掴まってください!」
エリンシアはリタの背中に額をこすり付けて、悲痛を滲ませた声でジョフレの名を呼び続けた。
――これを今生の別れにはしたくない。どうか、どうか生きて。またエリンシア様にお会いしてください。私も、絶対に切り抜けてご覧に入れますから。
「あやつらを追え!逃すな!!」
ジョフレとケビンの猛攻を振り切れず苦戦している敵将は部下たちに指示を送ったが、すかさず他の騎士たちがそれを抑えにかかった。
紫がかってきた森を、振り返らずに駆け抜けていく。何騎か追いかけてきたデイン兵もいたが、リタは次々と敵を馬上から落とし、突いて屠った。敵はリタがエリンシアを庇うことを承知したうえで、卑怯にもエリンシアの方ばかりを執拗に攻撃し続けた。そのせいで普通に一人で戦うより手こずってしまい、リタと栗毛の馬は浅からぬ傷を負う羽目になった。
「リタ様……酷いお怪我を……」
「……これくらい、大丈夫ですよ。もう敵が追ってくる気配はありませんね。エリンシア様こそ、頬は痛みませんか?」
「私の傷なんて……、きゃあ!」
馬がとうとう力尽きて倒れ伏し、二人は揃ってその背から投げ落とされた。幸い、地面には木の葉が降り積もっていたから大した衝撃ではなかったが、失血しガタがきていたリタの意識は、それきり途絶えた。
***
「リタ様……?リタ様、リタ様!!」
ふらふらと上体を起こしたエリンシアは、倒れたまま動かなくなったリタの体を優しく揺するが、どんなに待っても返答がない。
喉がひゅっと鳴って、酸素をうまく取り入れられず、体温が一気に下がる感覚がした。ただでさえ冷たい風が吹きつける夜に、心まで凍りついていく。庇われてほんの掠り傷しか負っていないのに、嘘みたいに血の気が失せていく。私のせいだ。私のせいで。
今日初めて会ったばかりなのに、たった一人になっても、最後まで私を守り通してくれた人。お願い、死なないで。私のせいで、これ以上いなくならないで。
リタの口元に手を翳し、胸に耳を当てる。手のひらには微かな息が当たり、弱いが心音も聴こえる。彼女はまだ生きている。でも、回復の杖も持っていない今の自分には何もできない。死なせたくないのに。こういうときは、どうしたら。
――助けを呼ばなくては。
エリンシアは来たのとは反対方向に走り出した。途中で靴が脱げてもそのまま、足が泥に塗れても、涙が溢れて前が見えなくても、リタのために止まらなかった。
しかし、王都から遠く離れた森の中には人の気配などなく、愛する父と母と親しい近衛たちを失ったばかりの姫君は、自身が思う以上に疲弊しきっていた。すうっと体の力が抜けていき、瞳から光が失われていく。街道に出る手前、暗い森の隅で、彼女もまた意識を失った。
***
クリミアの姫を取り逃がしたうえ兵力を多大に削られてしまったデインの騎馬隊は、捕らえた幾人かの捕虜を、先日から捕虜収容所となっているカントゥス城に連行するべく、来た道を引き返していた。
姫と女の槍使いを乗せた馬の姿が見えなくなったあの後、クリミアの将は生き残っている騎士たちに「命と誇り以外は捨てて構わん」「何としても落ち延びろ」と指示を出し、組み合って戦うことをろくにしなくなった。とにかく周囲をぐるぐる暴れ走り回ったり、食糧をこちらの馬の口に放り込んだり、被っていた兜や着替えの入った革袋などを投げてぶつけてきたりして、戦場を散々攪乱し混乱させてから逃げ去ったのだった。悔しいが、この奇策には生粋の軍人であるほど驚かされて即応できず、殆どを捕り逃がし、方向感覚も狂わされて、即時追跡は諦めざるを得なくなった。
失態の程を自覚しているデインの将の男は、「このままアシュナード陛下にお会いするのは死にに行くのと同然だ」と考え、暫くのあいだ帰還は控えて地方占領の指揮を執るべきだろうかと思案した。
本日占領したクリミア王都メリオルを遠望できる緩やかな坂に差し掛かると、同じく黒の鎧に身を包んだ味方の一隊とすれ違った。
「これはこれは、マッコヤー将軍。クリミアの姫は捕らえられましたかな」
「マイジン殿か。生憎、取り逃した。捕虜のクリミア兵を投獄してから、また捜索しようというところだ」
「なんと、貴殿らしくない失態だ。しかも捕虜などと……些か甘いのでは?私なら、敵兵はその場で残らず駆逐する」
「そう仰るな。こやつらはクリミアの姫の近衛なのだ。そこそこ使い道があるかもしれぬ」
「……捕らえ損ねた姫は、これから我らが迎えに行くとしましょう。尤も、我らが先遣であったなら、こんな二度手間になることもなかったのでしょうが」
「そうか。では、後は貴殿らに任せるとしよう。吉報をお待ちしている」
マイジン隊の兵たちはマッコヤー隊を嘲笑い、大手柄を得る機会だと勇んで行進していった。
夜間行軍とは、これはまた随分と余力がお有りらしい。重歩兵ばかりのあの隊は、方々の捜索など先程まで怠けていたのだろう。
――長を筆頭に喧嘩っ早く残忍なばかりで、練度も低く、策を講じるような知能も大した腕っぷしもない。もし王女護衛軍とぶつかっていたのが貴殿らだったなら、あっさり負けて討ち死にしていただろうが。
マッコヤーは期待せず、やたら大きいだけの背を残光とともに見送った。