無辜の血眼 –神解–

追想
むこのちまなこ –かみとき–

「君、怪我はないか?……なさそうだな。良かった」


 あろうことか彼は笑った。血を吐き、流し、二振りの刀に腹背を貫かれながら、ボクの目の前で安堵していたのだ。


「……ふざ…けるな……ふざけるなよ!!なんでそうやって……!!」


 声も手も震えた。歯はカチカチと、手元の柄はカタカタと。怒りで血が沸騰するようでいて、恐怖で血の気は引くようだった。なんでか心臓のあたりがどくどく痛い、刺されているのはボクじゃないのに。どうして、こんな――。
 頬を伝うぬるい液体が涙なのか返り血なのかは、赤墨色の袖で拭われたせいでわからなかった。

 汚すなと願われたボクの手は、願ったキミの血で赤く。庭先の白い照寒菊は、南天のような紅に染まった。
 キミの背後の刺客と腹前のボクは、黒い焔に――。


***


 ――なんだろう、嫌な夢をみていた気がする。

 三年経てば三つ、百年経てばももあまり。時が過ぎれば今は昔、月日も去れば去るほどに、克明だった思い出は夢のように曖昧になっていった。変わった事といえば、身長が八寸五分伸びただけではないけれど、色々とあり過ぎるから枚挙しきれる自信もない。
 この日も、春水青年は放課後の教室の机に突っ伏していた。薄暗くて冷たいそこは、あの暖かな縁側には程遠い。それでも度々ここで寝入ってしまうのは、古い木板の匂いが少し似ていたからかもしれない。

 死神統学院で過ごす毎日は楽しい。可愛い女の子がたくさんいるし、心柄のいい友達も何人かできた。面倒でしかないと思っていた剣術や鬼道も、やってみると案外気分が晴れる。やりがいも感じている。でも、たまに一人になりたくなるときがあった。難しいお年頃なのよ、と自己診断しておごっては虚しくなるのを繰り返していた。

 人気のない静まり返った学舎は、非日常の雰囲気があった。戸の開け閉めはつい普段以上にそうっとやってしまう。日没寸前の陽に着色された掲示物。廊下に響く自分だけの足音。冷たい階段の手すりに両腕をのせてぶら下がり、足を浮かせて滑って降りたら、制服の袖が少し汚れた。掃除が不十分だったようだ。
 すっかり暗がりとなった昇降口まで行くと、六回生の下駄箱の前に人がいた。人前ではいつも被っている猫を、春水青年の前では放り投げる男だ。


「誰かと思えば春水か。居残りでもさせられていたのか?」

「……違うよ。時灘は説教でもされてたの?」


 あい互いはうわツラ、訊いておきながら聞く気はなし。春水青年は目を合わせないようにして彼の脇を通り過ぎ、さっさと自分の草履を取り出して少々乱暴に床に叩きつけた。


「物は丁寧に扱え」

「三階から塗板ぬりばん消し落っことした人に言われたくない」

「いつの話をしている」


 もう取り合わないことにして、学生寮へと続く紅葉こうようの並木道を歩いた。少し後ろを付いて来る気配を鬱陶しく思うも、行き先が同じでは仕様がなかった。
 提灯が欲しくなるような昏昏こんこんとしたかれどきっていたが、歩き慣れた道程で迷うことはない。中途で足を止めることもまた、無いはずだった。

 赤い青年がいた。

 血のように赤い両瞳は、暗闇に於いても灼然としていた。こがらしに吹かれた赤黄茶の落ち葉が散りいろどるなか、黒っぽい着流しを纏った赤瞳の彼が向こうから歩いてきていた。冷然として近寄りがたい圧も肌身に纏って、背丈は随分と伸びて大人らしく、左目の上下には縦一本につながりそうな傷痕ができていた。突如として鮮やかによみがえった少年時代の記憶との差異に、百年という時の流れを重々感じた。
 春水青年は言葉を失って立ち尽くした。赤い青年は行く先だけをその目に映し、すれ違いざまに人の方を見向くこともしていかなかった。


「帰ってきたという噂は本当だったらしいな」


 時灘青年は、そんな彼にも臆さず声を掛けた。春水青年が振り返ってみると、二人は広く距離をとってそこで立ち止まっていた。向き合わず、対の表情。片やあつかましくてんとして、片やしずかにてんとしていた。


「君……何といったっけな。馬が合わない猫被りよ」

「ほう、要点は覚えているか。流魂街の最端いやはてに長らく忍びやつしても廃人にはならなかったようで何より」

「……訂正を一つ。『帰ってきた』では語弊が生じよう。家には帰っていない。俺は山本重國殿に捕まってきたのさ」

「第一に気に掛けるのがそことはな。相変わらず――」
「えっ、山じいに?」


 思わぬ人の名前が挙がって、春水青年は言葉を被せた。すると赤い青年が今更こちらの存在を認識したように目を向けてきた。感情の色無い赤だった。


「親しげだな。君、重國殿の孫か何か?」

「え、いや。よく世話にはなってるけど」
「…待て、一つ訊きたい」


 今度は逆に、時灘青年がやり取りを遮ってきた。心做しか愉しそうな声音だった。彼が愉しそうにする時というのは、大抵なにか悪辣をろうする時である。それを嫌というほど心得ていた春水青年は、彼が再び口を開くより先にその性根ごと殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、理性が勝ってしまった。拳を握りしめるまでしか出来なかった。


「――君、彼の事は覚えていないのか?」


 殴りたい笑顔だった。


「……何処かで会っていたか?」

「ハハ、ひどいな!彼は京楽家だよ。昔、話してやった事があっただろう?代々武芸に秀でた家系で、山本の御老公は特別に目を掛けている」

「……そうなのかい」

「ああ。だが、どうやら全く覚えていないようだな?でなければ『孫か』なんて訊かないだろう」

「それがどうしたね。百年かそれより前に一度きり聞かされた話を忘れていたから何だ」

「家の話だけじゃないさ。君は彼に会っている。アレは中々に忘れ難い事だったと思うんだが……」

「…………」

「本当に思い出せないのか?ここまで言っても?」

くどい」


 楽しかったことや嬉しかったことよりも、嫌だったことの方がいつまでも記憶に残るものだという。脳科学的に海馬や自己保存本能がどうとかいう根拠は20世紀になってから漸く着き始めるのだが、まあ大昔からよく言われている話だ。先人達の所感も案外馬鹿にならないものである。
 だからといって、ここまできれいに忘れるかよ、と。

 春水青年は納得いかなかった。自分にとっては強烈で忘れ難い過去だった。「忘れてやるもんか」と号哭した通り、脳髄に確かに刻みつけられていた。彼と共有している思い出だと信じていたのだ、それなのに。よりによって薄情時灘の事は覚えているというのも、殊更に気に食わなかった。


「そうか忘れてしまったか……残念だ、とても残念だよ。ではつまり、あの時の事を覚えているのは、もう私しかいないという訳だな?」


 ――?

 違和感。矛盾。撞着。齟齬。不いつ致。

 ――!

 春水青年は、つい先程までの己の思考は辻褄が合っていなかったことに気付いた。自分は、他人に志波天鷹との思い出を話したことがない。会ったことがあると言ったこともない。綱彌代時灘にも、誰にもだ。忘れられていたことに動揺して冷静になれていなかった。

 ――時灘は何故、ボクと彼が『会っている』と言い切れた?『もう私しか』って、何だ?

 落ち着いて、客観的に考えてみよう。私情は抜きだ。過去の意織いしき――を手繰り寄せ、解へと繋がる徽憶きおくひもとかん。

 ――どんな場合なら言い切れるか?――ボクと彼が会った場に、時灘もいたなら――それなら問題なく言い切れる。立会証人だとしたら――でも、ボクは時灘と一緒にいた時に彼に会った覚えがない――とはいえ――ボク自身の記憶は確かだといえるか?――『気は確か?』――『ああ、きっと君よりはな』――ボクは彼の黒い焔から逃げきったと思っていたけど――それは――あの時は逃げきれたから覚えているのであって――『何があったか訊かれても、彼らは何も答えられない』――まさか――『なにしろ身に覚えがないのだからな』――かつて逃げきれなかったことが、あったんじゃ――時灘と一緒にいた時に、彼に会った、という出来事が――もしかすると――『私も君も、気付かぬ内に“何か”を消されているかもしれないな?』

 ――消されていた?

 最初は躑躅と桜が咲いた頃。
 年の瀬に照寒菊や南天の赤。
 最後は雨と紫陽花と蛍の候。

 ――間にもう一度、会っていた?


「また顔に出ているぞ?上役には向かない分かり易さだな。頭の回転が速いのはいいが、表情筋への伝達も速いせいか感情がだだ漏れだ」

「……昔、この三人で会った事があるんだね?」

「おお正解だ。どういう神経をしている?記憶の一部が欠如している状態の回路網で、よく考えいたったな」

「時灘は、ボクがその事を忘れているって、もうずっと前に気付いていて……今まで黙ってたワケだ?」

「おいおい、怒る相手を間違えていないか?君の記憶を消したのはそこの彼だぞ?」

「キミはイイ趣味してるから、教えてくれなかった理由は絶対に親切とかじゃないでしょ。屈折してるもんね」

「フ、そっちこそ気味が悪いな。私の性質を誰より理解しているんじゃないか?やめろ、へそで茶が沸く」

「“何か”を忘れたボクを影で笑い続けた百年、愉しかったかい?」

「下校中に学友相手に殺気を飛ばすな。まったく、思慮深いかと思わせておいて激情家だな。少しは控えろ」


 上辺ではなだめるように言って、心の底では嘲り笑っている。もう我慢ならなかった。さっきからきつく握りしめていた拳を奴の頬骨に的中させんと、到頭とうとう殴りかかった。


「……ん?何の真似だ?」


 しかし拳は、割り込んできた赤い青年のに包まれて止められた。的外れのそこにパシンと打ち付けた乾いた音が虚しく響いた。時灘青年は更に口角を上げて、愉悦に狂うのを隠そうともしない。


「……なん…でだよ……なんで邪魔するかな!?なんでそうやって……!!」

「……すまん。反射的に」

「殴りたいのはキミじゃないんだけど!どいて!」

「気持ちは解るが、多分コイツ殴ると後が面倒だぜ」

「そんなの、どうだって……!」

「よせ。君の手が汚れる。そんなことなら、」


 春水青年が何か言うより早く、赤い青年は身を翻して目にも留まらぬ赤手せきしゅを一発、時灘青年に見舞った。


「……俺がやっとく」

「うわァチャー……」


 「ぶっ」と吹っ飛んだ時灘青年の体は、道の真ん中にドサリとあおのいて落っこちた。……少し待っても動きがない。春水青年は彼がどんな間抜け面を晒しているか拝んでやろうと思って、傍らに寄って覗き込んでみた。片頬を赤く腫らして白目を剥き、意識は何処かにトんでいた。


「あ〜あ」

「……やらん方が良かったか?」

「いんや、ザマみろって感じ」

「そう。まあ、加減はした。半時もすれば起きようさ」


 言うと、彼は時灘青年を肩に担いで道の脇にどかした。姿勢はうつ伏せに改変することにしたようだ。春水青年はその辺に丁度よさそうな石ころを見つけたので、時灘青年の足元に置きなおした。


「ホラ、キミの黒い焔でさっきのこと丸々忘れさせちゃいなよ」

「……石につまづいたように見せ掛けるつもりか?」

「起きたら記憶もちょっとトんでる自分の阿保っぷりに精々恥かけばいいさ」

「……じゃ、そういう事にするか」


 赤い青年は時灘青年をじっと見下ろした。すると彼の視線の先に黒焔がともり現れて、瞬く間に時灘青年を包み込み、ほんの数秒ゆらめいて、あとは泡沫うたかたの如く消え去った。“何か”――今日ここであったこと――は焼失したのだろう。身体はどこも燃えておらず、火傷は負っていなかった。
 簡単そうにやってのけるから流しそうになるが、やはり異質だ。特異な力だ。扱いようによっては簡単に人を不幸にするし、持つ者が持てば世界の秩序が崩壊する。
 ゆえに春水青年としては、力を持っているのが(たった今ちょっと悪い事をしたけれど)彼のような人で良かったと思う反面、どうして彼だったのかとも思う。彼にこんな力がなければ、僕らはもっと普通に出会って、普通に――そこまで考えて、かぶりを振った。当所あてどのない感傷だ。


「……これでもう時灘は忘れたの?呆気あっけないもんだね」

「……君、訊いていいか」

「なぁに」

「俺は……君に会った事があるのか」

「……うん、あるよ。どうも時灘の話じゃ、ボクも何か一つ……キミとの事を忘れてるみたいだけど」

「……俺は…」

「ボクの事、ホントに何にも覚えてないんだ?」

「……悪い」


 春水青年は己の内でまた負の感情が湧いてくるのを感じた。どうにか穏便に発散したくて、溜息に変換して吐き散らしてみたが、まだやりきれなかった。文句を言ったところで意味も効果もなさそうなのがまた追い打ちをかけてくる。
 赤い青年がやや気まずそうに目を伏せたから、つられて何気なく下を向いた。それでそのとき漸く、彼が刀の他にも腰にびていた或る物・・・を見留めた。聡い春水青年は瞬時に事を察した。
 今度こそ臆さず正面から向き合い、ひしと目を合わせた。視線の高さは同じくらいだった。


「そう思うなら二度と忘れないで。それから、二度と忘れさせないで」

「…………」

「返事」

「了承しかねる」

「なんで」

「忘れた方が良い事も時にはあ」

「どうして」

「……せめて言わせろよ。この」

「『聞かず』?」


 彼の瞳孔が些か膨らんだ。ここで更に遠慮なくずけずけ言ったら、彼は構うことなくまた記憶を消そうとしてくるだろうか。しかし、言ってやらねばとても気が済まなかった。


「キミさ、もう自分でも何となく解ってるでしょ。キミは、ボクを、わざと忘れたに違いないよ。自分で自分の記憶を消したんだろうさ」

「……そうだとして、その時の俺はよくおもんみたうえでそれが最善と考えたのだろ。何故か、という理由は……既に暗中だが……」

「そうでもしなきゃ死出の旅に発つ決心がニブったからじゃない?」

「何……」

「ボクのおかげで、一人になって一人で死ぬのちょっと嫌だなァと思えたとか?」

「滅多なことを言うな」

「ソレ。キミが帯に引っかけてるそのボロい笠さァ、元はボクのなんだよね」


 ついに教えてやれば、赤い青年は険しくとがらせていた目と圧を丸くして黙った。今までこちらばかり驚かされてきたから、意趣返しに成功したみたいでい気分がした。
 彼の腰には、あのとき春水少年が落としてきた菅笠があった。さして上等な物でもないし、名前を書いておいた訳でもない。オモテ面には漢字のみで何やら記してあったが、読めなかったし一文も覚えていない。色味は変わっているし、所々が逆剥片ささくれ立って、たいそう変わり果てている。だのにそれだと判ったのは、顎紐に特徴があるからだ。
 物心つき始めの子どもというのは、何の変哲もなくとも身近な私物に愛着を持ちがちである。備え付けの白い紐が切れてしまいしょんぼりしていたら、当時義姉だった人が気を遣って補修してくれたのだ。どこにでもありそうな菅笠は、世界に一つだけの物になった。褪紅あらぞめの組紐がそのあかしだ。


「……返せと言うならそうしよう。このおん襤褸ぼろでは忍びないな、新品を贈ろうか?」

「そういう意味じゃないって、解ってて言ってない?そんなボロ、普通ならとっくに捨ててるよ」

「流魂街では中古でも手に入りづらい。野晒しを行くのにあって困ることもなかろ」

「はいはい、はーいはい」

「……君、何かむかつくな」

迷故三界城 まよフがゆゑニさんがいハしろ 悟故十方空 さとルがゆゑニじっぽうハくう
 笠にそっと触れた赤い青年は、言葉とは反対にやわらかくほのんでいた。
本來無東西 ほんらいハとうざいなク  何處有南北いづくニカなんぼくあラム
 あんな別れ方をしたのだ、拾った菅笠をご丁寧に届け返すのも何か違うと思ったのだろう。どうしたものかと迷う内に、斷つべき縁に未練を感じて、雁字搦めになって。一人になる決心が揺らいで、死出の旅に発とうにも足が縫い付けられてしまったのかもしれない。死にたがりをこの世界に繋ぎとめる糸の一本になりかけたのかもしれない。それを、彼は自分の徽憶から春水少年との思い出を消すことで跡形なくちきった――つもりだったのだろう。その後は多分、手近に落ちていた菅笠を何となく旅の供として、訳もわからないまま今日まで後生大事みたいに――。
同行二人イツモフタリデ
 可笑しなことだ。これが得意にならずにいられるか。


「いいよ、ソレはキミにタダであげる」

「……怪しいな。後からふんだくってきたりしないか」

「しないさ、しないったら。直してこの先も大事に使えば」

「……捨てた方がいい気がしてきた」

「こらこら」


 会話をしている。まるで普通の友達みたいだ。あちらにとっては実質初対面、こちらにとっては百年振りだというのに。


「……そろそろ行く。人を待たせてしまう」

「あっちに何の用?統学院くらいしかないけど」

「習い事。死神になるには鬼道も少しは覚えた方が良いそうだから」

「えっ、死神になるの?編入するとか?」

「放課後に場所を借りるだけさ。彼方あすこの学生にはならんよ。来年度には使い物になるよう仕込んで頂く」

「それも山じいが?」

「応」


 だが幼い頃でさえああ・・だったのだから、今は更々さらさら素直になんかなれやしない。無邪気に馴れられない。


「じゃあ同期になるね。ボクも来年度入隊する予定だから」

「そうかい。何ともまぁ、君も災難だな」

「何が?」

「何かとやりにくかろうよ。俺と、そこで寝てるぼんも多分そうなのだろ?同期にいたら面倒そうじゃないか」

「……どうだか。時灘はまあそうかもね」

「どうあれ、成るだけ迷惑は掛けんさ。俺はそう表に出る気はないし、知らぬ振りしてくれてりゃいい」


 両者とも“純”な少年ではなくなっていた。れてねじれてひねくれた青年になっていた。


「……あのさ」

「うん?」

「同期になるのに自己紹介とかしてくれないの?」

「……俺がか?何だか知らんが、君は俺を知ってるのだろ。なら必要あるまい」

「志波がそう言うならじゃあボクから?」

「せんでいい。されても『よろしく』はせんからな」

「は?」

「あと苗字で呼ぶのはやめてくれ。周りは勝手に呼んでくるが、もう捨てたつもりでいる」

「はあ?」


 曲がり癖のついた情緒は複雑に絡まりもつれて、ほどくにも一筋縄ではいかない。まずはお互い自分自身のこじらせた心のいとだまをどうにかしてからでないと、他人と縁を結び直すなんてのは夢のまた夢だ。


「なら何て呼べっての?てん…」

「その口閉じないか、人を待たせていると言ったろ。じゃ」

「はあ〜?」


 赤い青年は一方的に切り上げて退散した。ごんの道も何もかもぶったぎるかのようだった。春水青年が何か文句を浴びせるより早く、彼は落葉らくように紛れて立ち去った。
 「チクショー意味不明!」……彼の瞬歩が凄いことだけはわかった。
 それはもう頭に血が上ってきて簡単にはゆるせる気がしなかったが、いまだ道端でずっこけっぱなしの時灘青年を視界に捉えて、ほんのちょっぴりだけスッとした。無情時灘が人の心の平穏を保つのに貢献する日がやってこようとは、よもやよもや。人生とはわからないものだ。

 くして、赤い青年はまたも暗闇の奥に消えた。

 但し、別れた後の春水青年の心模様は百年前とは全く異なっていた。悲しみに暮れてのしっとり雨模様ではなく、寧ろというかいきり立ってのかんかん照りであった。清々せいせいしないが、晴々はればれしくはあった。霜降現実とはまるで乖離した季節外れな大暑心中であるのが面白く感じられた。
 “別れ”の種類が前とは違う。そう思えたのが大きかったかもしれない。

 寮に着くと「ずいぶん遅かったな」と浮竹から心配されてしまった。何をしていたのかと尋ねられて、咄嗟に「友達と会ってた」と微妙な嘘を吐いた。「寮生じゃない友達?いつか紹介してくれよ」と当たり障りなく返してくれて、それから夕飯も取っておいてくれた親友に感謝しつつ、はて、そんな時は来るのだろうかと思い馳せた。

 ――いやいや、べつに会いたくないし。

 その割には次に会ったらどうしようかなと彼是ごちゃごちゃ考えたりした。次こそは名前を呼んでやろう、また木彫りやんないのか訊いてみよう。
 その次の機会というのがまさか丸一年も後になるとは、この頃は思ってもみなかったのだった。護廷十三隊入隊試験に向けての勉強と鍛練にもイマイチ身が入らず、統学院卒業前後の貴重な青春の日々を悶々もんもんと過ごす破目になったのは、また別の話である。

 ……難しいお年頃だ。






※終わり……かな?
※タブを閉じてお戻りください。



 -  -