澄み渡る青空に、輝く虹色の彩雲があった。この戦国の時代より千年も二千年も後の世では、それはまたとない吉兆なのだと云う。迷信ではないと確信させてくれる過去も証拠も何も無いというのに、理 を超えた美しさの前では、人々は盲信的になるらしい。
だが、五万とある屍 の上に浮かぶそれを見てもなお「あれぞ吉兆」と喜ぶ者は、果たして居るものだろうか。居るとしたら考えものだ。相当な偏屈か、能天気な狂人か。それか、地獄に垂らされた綺羅 糸 の如し奇跡でも見出して、つい口が滑ったか。
紀元前の中国、春秋戦国時代。
彩雲の下で、今まさに一つの城が落ちた。
秦将・麃公 は、此度の対魏国の戦にて流れで肩を並べた六大将軍筆頭・白起 の背を静かに見詰めた。あれはもうじき秦国の都・咸陽 へと戻り、論功 行賞 にて第一功として昭王 から大変な褒美を賜 ることだろう。麃公も第二功は揺るがない大きな戦果を上げていたが、彼は与えられる名誉や地位というものに全くと言っていいほど興味関心のない男だった。畏 れ多くも、王から幾度か直々に声が掛かっても無視を決めてきた。合戦、酒宴、練兵に明け暮れ、その生き様は言葉通りの常在戦場。態々 都まで赴 くような暇があるなら、次なる戦に身を投じるための英気と精力を養う方が有意義だ、と考えるような、生まれ落ちての戦人 であった。
彼の生きる道は戦場にある。いや、戦場にしかない。戦場こそが彼の家だ。だが、冷酷非情な白起が暴れ荒らしたこの戦場は、歴戦の猛者 でも眉を顰 めるほどに非道 く凄惨 なものだった。
白起の戦運びの手腕は流石 の一言に尽きる。しかし、戦場とせずともよい所までもを蹂躙 し攻めた。殺し尽くさずとも陥落したはずの白壁の城を、降伏した兵と逃げ惑う女子供老人の血で紅 に染めた。そこで起こった大炎は戦人としての本能を昂 らせる気持ちの良いものではなく、只々、死肉を焼き焦がすばかりの後味の兇 いものだった。
戦後処理をしなければならない。戦い勝って奪った土地だ、此処は新たに秦国の領土となる。いつまでも放っておいて悪臭を漂 わせておく訳にはいかない。直ちに兵卒達にやらせるべき事だが、勝ちを収めた軍とは思えないほど大多数が意気消沈してしまっており、疲労がありありと見て取れた。麃公は無言で愛馬に跨 り、滅びた城の様子を自ら視察していった。
ふと、家屋が焼け崩れる音に紛れて、産声が聞こえた気がした。
麃公はあるはずがないと思いながらも、慎重に辺りを捜索した。とりわけ血腥 い中央の宮を囲む屋敷の裏に回ったとき、そこで目にして、驚き、息を呑んだ。裸で血だらけの赤子が、そこの石畳に転がっていたのである。麃公はすぐさま下馬し、甲冑を纏 ったままの固い腕で赤子を抱き上げた。ぽたり、ぽたりと鮮血が滴 る。まだ温かい。生きている。赤子には、小さく柔 い項 から臀部 にかけて、一刀で捌 いたような深い傷が刻まれていた。
――こんな赤子まで斬り殺さんとしおったのか?白起兵は。
放っておけば、手を下さずとも消える命だろうに。それとも、飢えか寒さで野垂れ死ぬのは哀れだと思いやっての殺しだろうか。どちらにしても、殺す気でやって赤子を仕留め損なうなど、以 ての外 だが。
はてどうしたものか。麃公はううむと考えを巡らせながら、一旦その赤子を両手で持ち上げようとした。ところが、思わぬ邪魔があってそれは叶わず、瞠目 した。赤子には、まだ切れていない臍 の緒が付いていたのである。臍の緒は曲がり角の先へと続いている。麃公は破いた己の腰布を赤子の傷に当ててやりながら、臍の緒の元を辿った。数歩行けば、一人の女が俯 せで倒れているのを見つけた。間違いない、この女が母親だ。この赤子はつい先に、此処で生まれたばかりだということだ。
麃公は空いている片腕で女を助け起こそうとした。今しがた生んだのであれば、まだ息があるかもしれないと思ったのだ。しかし、女は既に息絶えていた。胸は大槍で突かれたのか大きく抉 れて、片腕は千切れかかり、そして腹は縦に大きく切り開かれていた。あまりに惨 い有り様だった。想像を絶する苦痛を味わったことだろう。死に顔はきっと苦悶に歪んでいるに違いない。何を目にしようと心乱さぬようにと構えてから、女の腹から首元へと視線を上げていく。すると予想に反して、その女は安らかに目を閉じ、口許は微笑んですらいた。
不覚にも魅入って、暫 く頭も体も静止していた麃公だったが、取り敢えず女を仰向けに寝かせた。臍の緒を切ってやろうと思い至ったのである。持ち合わせている刃物は大鉾 しかない。その鋒 でやるしかないかと持ち上げたところで、ふと気付く。女の千切れかかっていない方の腕の手元には、血の付いた短剣が落ちていた。その短剣は麃公が一目見て業物 と分かる見事なもので、細やかな飾り彫りのある柄には大きな薄水色の宝石が埋め込まれていた。女の手は、握り拳の形のまま死後硬直している。
――この母親は、まさか。敵国の兵に胸を穿 たれても気を保ち、腹の子まで道連れにはすまいと、自ら腹を――赤子の背の傷は、思い切りが良すぎて加減を誤ったか――?
もし想像通りだとしたら、この母親は大将軍にも負けぬ、見上げた胆力の持ち主だ。麃公は母親に敬意を抱きつつ短剣を手に取り、母子を繋ぐ臍の緒をえいと切った。赤子は弱々しくも高い声を上げ、小さな手をばたつかせながら、懸命に呼吸をしている。
「空を見てみろ、小童 」
麃公は今度は両腕でしっかりと赤子を抱き、ニッカリと口角を上げて空を仰いだ。すると赤子も薄く目を開き、また閉じて、開く。初めて光を映した頼りない円 らな両瞳で、その色を鮮明に焼き付けられたかどうかは定かではないが。
「彩雲じゃ!滅多に見られるものではない。貴様は運が良い、天から祝福されておる!まだ死ぬでないぞ!」
戦国時代の中華においては、当時まだ何も原理が解明されていなかった世にも珍しい摩訶不思議な気象現象は、なべて不穏、怪奇、凶兆とされていた。虹は勿論、彩雲なら尚のこと、旱魃 や人死にの前触れとして捉えられていたのである。それを、この型破りな男は型破りに解釈し、大口を開けて笑い飛ばした。
「バハァ!!!」
彩雲を更なる高みへと煽 るようにして、陥落した城を薪 に燃える炎と煙が昇ってゆく。
戦場に生まれ落ちた男が、戦場に生まれ落ちていた子を拾ったこの日の空は、陽が落ちても未 だ朱 く、空前絶後の美しさだったという。
だが、五万とある
紀元前の中国、春秋戦国時代。
彩雲の下で、今まさに一つの城が落ちた。
秦将・
彼の生きる道は戦場にある。いや、戦場にしかない。戦場こそが彼の家だ。だが、冷酷非情な白起が暴れ荒らしたこの戦場は、歴戦の
白起の戦運びの手腕は
戦後処理をしなければならない。戦い勝って奪った土地だ、此処は新たに秦国の領土となる。いつまでも放っておいて悪臭を
ふと、家屋が焼け崩れる音に紛れて、産声が聞こえた気がした。
麃公はあるはずがないと思いながらも、慎重に辺りを捜索した。とりわけ
――こんな赤子まで斬り殺さんとしおったのか?白起兵は。
放っておけば、手を下さずとも消える命だろうに。それとも、飢えか寒さで野垂れ死ぬのは哀れだと思いやっての殺しだろうか。どちらにしても、殺す気でやって赤子を仕留め損なうなど、
はてどうしたものか。麃公はううむと考えを巡らせながら、一旦その赤子を両手で持ち上げようとした。ところが、思わぬ邪魔があってそれは叶わず、
麃公は空いている片腕で女を助け起こそうとした。今しがた生んだのであれば、まだ息があるかもしれないと思ったのだ。しかし、女は既に息絶えていた。胸は大槍で突かれたのか大きく
不覚にも魅入って、
――この母親は、まさか。敵国の兵に胸を
もし想像通りだとしたら、この母親は大将軍にも負けぬ、見上げた胆力の持ち主だ。麃公は母親に敬意を抱きつつ短剣を手に取り、母子を繋ぐ臍の緒をえいと切った。赤子は弱々しくも高い声を上げ、小さな手をばたつかせながら、懸命に呼吸をしている。
「空を見てみろ、
麃公は今度は両腕でしっかりと赤子を抱き、ニッカリと口角を上げて空を仰いだ。すると赤子も薄く目を開き、また閉じて、開く。初めて光を映した頼りない
「彩雲じゃ!滅多に見られるものではない。貴様は運が良い、天から祝福されておる!まだ死ぬでないぞ!」
戦国時代の中華においては、当時まだ何も原理が解明されていなかった世にも珍しい摩訶不思議な気象現象は、なべて不穏、怪奇、凶兆とされていた。虹は勿論、彩雲なら尚のこと、
「バハァ!!!」
彩雲を更なる高みへと
戦場に生まれ落ちた男が、戦場に生まれ落ちていた子を拾ったこの日の空は、陽が落ちても