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忘れられれば

1

長机が2つ長辺を合わせられ、それを囲むように椅子が4つ。少人数で打ち合わせを行う小ぢんまりした部屋に、茨とあんずは隣り合って座っていた。
普段は向かい合って打ち合わせをすることが多いものの、昨今はペーパーレスが呼びかけられていることもあり、PC上にある資料をもとに話し合うことが増えてきた。打ち合わせするメンバーが三人以上いる場合は通話ツールを活用し画面共有を行うのだが、本日は二人なのでPC画面を直接見た方が早い。

普段より近い距離だが、互いにそれを気にする間柄でもない。色恋に興味のない二人は淡々とPCを立ち上げ、必要な資料を画面上へ広げる。

ふと、花のような甘い香りが茨の鼻腔をくすぐった。

茨の手元にはコーヒーが、あんずの手元にはお茶がある。そのお茶は、会議室を出てすぐのところにあるドリンクサーバーのもののはずで、そこではハーブティーなどは取り扱っていない。ほかにお菓子の類やディフューザーなんてものもあるはずなく。
ではこの香りはどこから……?

「今回の案件ですが、ハンバーガーを漣くんに……」
マウスを操作して資料を拡大していたあんずは、最後まで言葉を紡ぐことなく手を止めた。
すぐそばにある存在にぎしりと体を強ばらせる。スバルや千秋ならともかく、ある程度見知った間柄でもパーソナルスペースに入られると本能的に違和感はあるものだ。つまりは茨がかつてないほどに近い距離にいるのだが、このまま打ち合わせを続けられるほどあんずはこういった状況に慣れておらず、慣れていないがゆえに心臓が慌ただしくなる。

「さ、七種くん?ちょっと近いかも……?」
おずおずと手のひらを茨の方へ向け、離れろと言外に告げた。言葉尻に疑問符が浮かんでいるのは、普段理性的な判断のもと行動する茨が不可解な行動をしていることに対するものだ。

あんずの髪から30センチというところまで無意識に顔を近づけていた茨は、我に返ったようにすぐさま体を離す。

「これはこれは失礼致しました!あんずさんから花の甘い香りがしたもので蜜蜂のように吸い寄せられてしまいました!あっはっはっ!トリートメント変えましたか?」
少々慌てた様子の茨が一呼吸で捲し立てた。
あの茨が香りに吸い寄せられた、という本能的な行動をしていることに疑問を抱いたあんずだったが、案外そういうところもあるんだなと、知らない一面を垣間見て少し嬉しくなり頷いた。
自分だって、ソースの匂いに釣られてたこ焼きを購入することなんて日常茶飯事だ。茨もきっとそういうことがあるんだろう。
「ヘアオイルを変えてみたんだ。この香り好きなんだね。これはA社のBオイルっていう商品だよ。あとで通販ページ送ろうか?」
あんずは絹のような髪先を一房指で弄び、茨に微笑んだ。茨のことだから、仕事で使える香りだと考えているのかもと思ったからだ。だが全くそのつもりはない茨も微笑んで返す。
「いえお気遣いなく。男の自分がつけるには些か甘すぎる香りですので!」
「それもそうだね」
では──と無理矢理この話題を終わらせて企画の話に戻った二人は、それ以上香りについて話をする事なく打ち合わせが終わったのだった。


それからというものの。
会議終わりにフリースペースで資料をまとめている時、会議室から会議室への移動中、果てには給油室でお湯を沸かしている時にまで、至る所で茨があんずへ声をかけるようになった。
社会人である限り、目に入った関係者へは一言でも挨拶をするものだが、それにしても頻度がおかしかった。
お互いにプロデューサーということもあり、日常的に会う確率は他のアイドルと比べ高いのだが、それでも茨と会うのは一日に多くても二度程だ。今日はその倍の四度声をかけられている。
そもそも給油室なんて、(扉がついていない簡易的なスペースなのだが)茨と会ったことなど一度もない。彼はあんずと違って食にも気を遣う必要があるから、カップ麺用に存在すると言っても過言ではない湯沸かし器を使う必要がないからだ。
その日一日を終えたあんずは考えた。
そして辿り着いた答えが一つ。


「私そんなに香り強いかな?」
「あ?いや、気にならねーけどな」
次の日、あんずはちょうど打ち合わせで顔を合わせる予定だった晃牙に、昨日辿り着いた答えについて確認した。彼は本当に気にも留めない様子で返答する。嗅覚が優れている晃牙がそう言うのだから、香りが強すぎるということはない。あんずは当てが外れたことに気取られぬよう嘆息した。
「なんでだ?」
「ううん、ちょっと気になっただけだよ」
茨が蜜蜂のように香りに誘われてきているのかも、なんてことを確信もないのに言えない。そしてもしそうだとしても、彼の面子を考えるととてもじゃないが口にできない。

茨に声をかけられるのは別段嫌でもないのだが、もし香りで場所を特定されているのだとすれば、少々むず痒い気持ちになる。
そしてわざわざ声をかけにきて他愛もない言葉を二、三交わしてから去る茨は不自然だと考えていた。メリットが生じない事柄は可能な限り避けるイメージのある茨が、自分との雑談、しかも2分以内に終わるものを有意義なものと捉えているとは思えない。
つまりは、茨はあんずと会話をするためではなく、香りを愉しむために声をかけてきているのではないだろうか。とあんずは結論付けた。

次の日、あんずにしては珍しく食堂で昼食を摂っていると、予想通り茨が現れ、断りを入れてから向かいの席に着席をした。
「そんなにこの香りが好きなの?」
ここ最近暇さえあれば茨のことを考えていたあんずは、頭の中の疑問を前置きもなくぶつける。
彼女は発言してから唐突すぎる質問だったなと気付いたが、問題なく言葉の意味を汲み取った茨は、僅かながらに表情を緩ませて回答した。
「……いえ。確かに自分好みの香りですが、それ自体が目的ではありませんよ。あんずさんがそこにいると分かっているのであれば、声をかける以外の選択肢は御座いませんので!」
さらっと香りで居場所を特定していることを肯定した茨だが、それよりも気になる事があったあんずは首を傾げた。
「私と話したくて……?」
茨の言葉をうまく咀嚼できないでいるあんずに、それも理解の範疇である茨はすらすらと言葉を続けた。
「ええそうです。あんずさんとの会話は楽しいので、できることなら夜通し話していたい程です!まぁ、それを抜きにしても、こちらにメリットがない相手にここまで何度も話しかけたりしませんよ」
「メリットって?」
予想通りの反応を示したあんずに快くなった茨は、鋭い目を更に細め口角を上げた。それを何か含みのある表情だとあんずは感じたが、何が隠されているかまでは彼女には分からない。
「ええ、あんずさんと仲良くすること自体メリットしか生まれません。あんずさんを知れば交渉の材料も増えますし、こちらの情報を雑談に織り交ぜることにより、あんずさんもEdenのメンバーに関する知識を得られるので、より適切な仕事を我々に振っていただけるかと思いまして」
なるほど。あんずは納得して頷いた。
あんずと話したいから声をかけている、と言われるよりはかなりスッと頭に入ってくる理由だ。そしてあんずがそういう性質であることを茨は理解していた。
「……ですので、これからも末永く仲良くしましょう!」
にっこり。
双方とも、これでこの件は解決したかのように思えた。

2

約三ヶ月後、あんずが使っていたヘアオイルが底を尽きた。
特定のものを繰り返し使用しないあんずは、次回も別のものを購入しようとしていたのだが、ふと茨の顔が脳裏をよぎる。
三ヶ月間ほぼ毎日会話を交わしている相手である。ここ最近では一番仲が良いと言っても過言ではない。そしてその相手はヘアオイルの香りであんずの居場所を特定している。
これを変えたら今まで通り茨に高頻度で声をかけられる事は無くなるだろう。それは少し、寂しい。
という感情を覚えた瞬間にあんずは頭を振った。

茨は同僚でもあるがそもそもアイドルだ。プロデューサーがアイドルに対して私的な感情を持つ事はあってはならない事だ。茨もあんずも双方仕事をする上でメリットがあり会話をしているものの、あんずはただ茨との雑談が楽しくなってしまっている日の方が多い。
一人に肩入れするのはよくない。もうあんずはトリックスターを繋いだ時のような、彼らだけのプロデューサーではないのだから。

あんずは売り場に陳列されているヘアオイルの中から、前日まで使用していたものと違うものを手にとった。柑橘系の爽やかな香りのするヘアオイルを。これできっと、明日から。


「お疲れ様であります!」
野菜たっぷりトマトラーメン!と表記されているカップ麺へ沸騰したてのお湯を注いでいるところで、廊下側から声を掛けられた。あんずは突然のことにやかんから手を離しそうになる。──が、咄嗟に茨があんずの手ごとやかんの取っ手を掴んで阻止したので、熱湯を被らずに済む。
「さ、七種くん」
「急に声をかけてしまって申し訳ありません」
ずいと廊下から一歩踏み出される長い足が、あんずとの距離を大幅に縮めた。反射的に一歩後ずさった小さい足が、床に敷き詰められた絨毯を擦って重心が後ろへズレる。
おっと、という声と同時にやかんを持っていない方の手があんずの背をしっかりと支えた。あんずは慌てて直立に立ち直した。
「危ないですよ。まずはやかんを置きましょう」
「う、うん」
右手の甲に自分と違う熱を感じながら、その茨の手の動かすままにやかんが横に置かれて、すぐに離れていく手の熱。
あんずは居た堪れない気持ちになりながら見上げると、普段通り涼しげな表情をしている茨が視線に気付き、口を開く。
「あんずさんの疑問にお答えします」
あんずは自分が疑問を持っていることなど全く忘れていたので頭にハテナを浮かべたが、気にする事なく茨は続けた。
「水曜日の昼はほとんど即席麺です。そして昼休憩はだいたい定例の会議後になるので少し遅めの13時半。急な予定が入らない限りはそうと記憶しています」
──ああそうか、なぜここにいるのが分かったのか、だ。
理解したあんずは徐々に頬が高揚する。観察され、分析され、自分ですら気付いていないルーティンを把握されていた。それがとても、恥ずかしい。
「少しストーカー染みていたでしょうか、だとしたら申し訳ありません。そのようなつもりではありませんよ」
「い、いや、ストーカーなんて思ってないよ」
確かに悪く言えばストーカーとなってしまう可能性もあるが、恥ずかしかっただけで別に嫌ではない。そもそも彼は相手が誰であろうと、それが将来自分に有益な情報となる可能性が少しでもあれば、手札として脳に記憶するのであろう。
眉を下げて苦笑するあんずに、茨も釣られて眉を下げる。
「しかしあんずさん、ヘアオイルを変えたんですね。自分にたかられて鬱陶しかったでしょうか?」
茨にしては珍しくやけにネガティブなことを言うな、とあんずは頭を傾げた。普段であれば褒めちぎられているところだ。
「ヘアオイルはちょうど無くなったから変えたんだよ。……らしくないね、七種くん」
「は……?」
あんずの問いに3秒ほど硬直した茨は、顎に手を当てて何か考え込んでいる様子だ。
思い至った事があったのか、あるいはなかったのか、あんずには分からなかったが、彼はひとつ嘆息してやれやれと頭を振った。
「どうやらそのようですね。忘れてください。では失礼致しました」
あんずと目を合わすことなく告げた茨は、苦虫を噛み潰したような表情で立ち去った。
なにがなんだか理解できないあんずは麺が伸びていくカップ麺の事など忘れ、暫く立ち尽くしていた。


3

あれから面と向かって顔を合わせる機会以外は、茨があんずに話しかけることが無くなった。そして、その数少なくなった会話中は特に変わった様子は無い。
この間の様子がおかしかった日がターニングポイントなのは確かなのだが、忘れてくれと言われたことを蒸し返すほどあんずは無神経では無かった。茨はいつも通りなのだから、あんずも気にせずいつも通りにした方が良いのだ。

月日は流れお互いが20歳になった年。
会社の核とも言えるあんずと茨がお酒を飲めるとなったことで、ほかのプロデューサー、および関係者たちがこぞって2人を飲み会に誘う年となった。
節度ある人物との飲み会は、どちらかというとお酒メインではなくアテや会話がメインで、ほろ酔い程度に雑談に興じるものだった。
しかし、どこにもお酒をほぼ無理矢理飲まそうとする輩はいるもので、その飲み会で思考力を奪われた茨は軽率にもあんずを家まで送り届け、そして同じく酔っているあんずは(酔いなど関係ないのだが)茨を家に上げようとしていた。

茨は後ろ手で玄関のドアを閉める。
防音性の優れる室内は風の音を掻き消して、衣擦れの音をやけに大きく耳に届けた。
茨は目の前で靴を脱いでいるあんずを視界に入れず、天井の丸い電球を仰ぎ見る。
「……ここまで来ておいてなんですが、酔っている男を……いえ、恋人でない男を家に上げようとするのは、良くありませんよ」
酒で火照った体を少しでも冷やそうとドアに寄りかかった。
熱のもたない金属が茨の背中を刺すように冷たくする。
相変わらず、ある程度仲良くなった相手には警戒心を見せないあんずにどのように伝えたものか。
いや、そもそも仲良くなどないのだが。と誰に言うでもなく言い訳を並べた。
あんずは咎められていることすら気付きもせず、靴を揃えてスリッパに履き替える。
「うん?……でも茨くんのこと信用してるよ」
来客用のスリッパを並べたあんずは、ドアから離れようとしない茨に律儀だなぁとか紳士だなぁとか、呑気なことを考えていた。
あんずだって、もう何も知らない少女ではないのだ。特に社会人になってから、大人の汚い話や下世話な話を聞く機会が格段に増えた。男性と2人きりになるのは危ないことだ、ただそれは、あんずの中では赤の他人や、あまりよく知らない人に限る。
キッチンで水を飲んでもらって、ひと息したら帰ってもらうつもりのあんずは、目の前の男が自分に加害するなんてことは1ミリも考えていない。
茨はあんずの信頼を受け、少しむず痒いような、胃がムカムカするような、少し痛くなる頭に苛立ちを感じ、眉間を指で摘んだ。
「信用しないでください。初めてここまで酔って、正直自分でも何をしでかすか分からなくて焦っているんですよ」
夢が現実かも曖昧で、少しでも思考を止めると脳と体が直結してしまいそうな感覚。
「よりにもよってあんずさんの玄関に足を踏み入れるなんて、平常時ではあり得ない。ここまで何年も……気をつけてきたのに」
尻すぼみになった言葉だったが、密室では問答無用で相手に聞こえてしまう。
「私の……?どういうこと?」
「だから、好きな人の家に……」
あ、と口を抑えるがもう遅い。

茨はあんずをちらりと見やると、なにやら考え込んでいる様子だった。
ああ、言葉の意味を理解していない、と気付き、ほっとするのと同時に苛立ちを感じる。そしてそんな感情を抱く自分自身に更に腹を立てた。
羞恥と後悔で今にも逃げ出してしまいそうな自分を諌める。
真っ赤になっているだろう顔を片手で覆った。
「ああ、私のことが好きなのか」
言い終わってあんずは漸く理解したのか、酔いで既に赤らんでいた頬を更に赤く染め上げた。そして改めて口に出されるのは、かなり堪える。
茨は項垂れ、長い嘆息の後に、無理矢理喉から声を絞り出した。
「……とはいえ、どうこうするつもりはありませんよ。リスクが高すぎますし。多様性が認められてきた現代だとしても、基本的にはアイドルの恋愛は御法度。自分が忘れたら良いだけの話です。つい、口が滑りましたが、あんずさんも忘れて下さい」
胃がムカムカして気持ちが悪く、今にも吐きそうだった。
頭がぐるぐるとしてきた茨の頭に、あんずの落ち着いた声が差し込んだ。
「……私も茨くんのことが好きだけど、プロデューサーとアイドルの恋愛なんて御法度だから、私が忘れたら良いだけの話、って思ってたよ」
言い終わって、あんずはめまいがしてきた。今自分は何を言っているのだろうか?
衣擦れの音も何も聞こえない。代わりに自分の心臓の音が大きく体の中心から聞こえてきた。相手の耳にも届いているんじゃないかと、互いの背に冷や汗がひとつ流れる。
じっとり湿ってきた自身の手を握りしめて、茨はなんとか声を張り上げてみせた。
「あっはっは!これはこれは……では、互いに忘れるという方針でいきましょうか」
はいと言ってくれ、頼む、と目で訴えると、それに応えるまでもなく、あんずは迷わずに返答した。
「そうだね、そうしよう」
簡単な話なのだ。
互いに好きだった、なら互いに忘れたら良い。
茨は後ろ手でドアを開いて挨拶もなしに外へ出る。
マンションの駐車場に待機していた、自社の運転手が乗っている乗用車へ乗り込み帰路へつき、そのまま風呂にも入らずベッドへ体を投げ出し思考を手放す。


「………………は?」
次の日、茨は死にたくなるような気持ちで朝を迎えた。


2023/01/02



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