なにもない
暦上ではもう春だというのに、肌を撫でる風は冷たく、体が芯から冷え切っているのを感じる。
それでもこんな気温とは関係なく、アパレル業界は春服を売り出さなければいけない。
そこでKnightsの瀬名泉としてモデルに起用された瀬名先輩は、寒空の下、その場のスタッフ全員の目を釘付けにさせていた。
──だが何かおかしい。
いつもなら、カメラマンの写真チェックや舞台変更の合間のタイミングでこちらに目を向けてくれるのだが、それが今日は暫くないのだ。
「OKです!お疲れ様でしたー!瀬名くんの撮影は以上になります」
カメラマンやスタッフの確認が終わり、数時間に渡って行われた撮影会は終了となった。
この後も別のモデルの撮影が続けて行われるので、スタッフは瀬名先輩への挨拶もほどほどに、次の撮影の準備へ取り掛かる。
先輩はこちらへ振り返り、暫くぶりに合った視線はどこか頼りなさげだった。
疑問符を浮かべると、ひとつ、先輩の頬へ汗が伝う。
「お疲れ様でした。……暑いですか?」
メイクで隠れているが、心なしか頬も赤いような。
「ライトのせいでねぇ。それよりちゃんと勉強してたの?」
「はい。写真チェック時にポイントを教えていただいたりもして、とても参考になりました」
「そう、よかったねぇ」
浅く吐かれた息は先輩らしくなく、普段の余裕で堂々とした態度とは裏腹に、覇気を感じられない。
「なに突っ立ってんの。さっさと帰るよ」
私の横を通り過ぎようとした先輩に、慌てて手を伸ばした。
「すみません失礼します」
「!」
額に触れた手のひらから伝わる熱が想像より熱い。やっぱり、と思ったところで先輩に手首を掴まれて額から剥がされる。
「ちょっとぉ。ほんっとにあんたは……」
「せ、先輩。熱があるじゃないですか」
先輩はバツが悪そうに視線を逸らす。
「全く、あんずに口を酸っぱくして自己管理も仕事のうちって言っておきながら自分は体調を崩すなんてねぇ。でもさっさと帰って一晩寝たら治るから大丈夫」
「いえ。かなり熱いですよ、立つのも辛いですよね。ホテルとって今日はそこで泊まりましょう」
言いながらスマホを取り出して近場のビジネスホテルを検索する。
「いい。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないです。ええと、でもお一人にさせるのは心配なので、誰か男性スタッフと同室で……」
辺りを見渡すと、私の手首を掴んだままの先輩の手に力が入る。
「あんたがいい」
その手は熱く、見上げると息を呑むほど真剣な表情をした先輩と目が合った。
「で、でも」
狼狽えると、ひとつため息が落とされる。
「はぁ……仕事でしか話したことがないスタッフより、……後輩のあんたの方が気が楽だって言ってんの」
ほらさっさとホテル探して。と、辛そうなのに他のスタッフに悟られないように姿勢を崩さない先輩を見て、急いでスマホを操作する。
電話をかけて、シングルベッドが2つついた部屋を無事一室予約できた。
半ば強引に先輩の荷物を持って、先導して先を歩く。
……後輩、という言葉は嬉しかったのに、なぜか棘のように胸に刺さって、しばらくちくちくと痛みが引かなかった。
←bun top
←top