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蝉の亡骸

いくら訓練経験があるとはいえ昨今のこの暑さは堪える。
鼓膜を振動させ続ける虫の音と、肌にまとわりつく気持ちの悪い湿気と、文字通り肌を焼いていく灼熱の太陽が。

「あ」
普段より高めの位置で髪をひとつに纏めているあんずさんが、鈴のような声を落とした。蝉にかき消されてしまうほどのその小さな声は、隣を歩いていなければ気付かなかっただろう。
彼女の視線の先には、往来のど真ん中で仰向けになり足を折りたたんで行儀良く空を見上げている蝉の死骸があった。
さきほどの一音のみの呟きは、これを見つけたから発せられたものだろう。事実、彼女の目はそれを捉えている。

そして予想通り、私にひとこと断りを入れたあんずさんは、細い指をふたつ使って躊躇いもなく死骸を持ち上げ、植木の根元へと移動させた。
何のためなのか理解できないが、空を見上げていたその虫は地面を向き、まるでまだ生きているかのような置き方だ。それに意味はあるのか、何も考えていないのか、いつも通り無表情の彼女からは何も読み取れない。

道の中心を陣取っていた死骸は、あのままにしていればきっと30分もしないうちに誰かに踏み潰されていただろう。それを危惧してのことだ。さすが女神と言われる所以、たかが虫にさえ慈悲深い彼女の行動は、知らない者が見たら偽善者も甚だしいと思われてしまう程だ。

そのようなものを救ったところで、いやもう死んでいるのだが。だから余計に意味など無い。
意味など、何も。

「……七種くん?こわい顔してるけど、どうかした?」
「え?いえ。あんずさん虫触れたんですね」
「うん。ゴキブリ意外は大抵触れるよ」
「流石!なんでもそつなくこなす敏腕プロデューサー殿でありますな!あの虫もあんずさんに供養され天国で感涙していることでしょう!」
「……ただの自己満足だよ」
自己満足。
らしくないな、と思った。
彼女なら「可哀想だし」とでも言いそうなところだが。
「ぜひ私が死んだ時はあんずさんに供養していただきたいものですな!」
「ええと……お葬式には参列するよ?」
彼女の無表情が崩れ、困惑したままこちらを見上げる。
「……しかし私には葬式を挙げそうな親族はいませんので、焼かれて灰になって然るべき場所へ納められるかもしれませんね」
「うーん。遺骨を受け取る親戚がいなかったらお墓も無いことになるのかな?だったら七種くんの骨はどこに行くんだろう?」
「受け取ってくださいます?」
「え」
骨壷を持つあんずさんが脳裏に浮かんだ。
彼女は悲しむのだろうか?悔しがるのだろうか?それとも嬉しく思うのだろうか。
どちらにせよ、壺を持って佇むあんずさんは滑稽だ。
「毎晩化けて出て枕元であなたのご活躍を褒め称えて差し上げましょうかね!」
「そんなことされたら眠れないよ……」
「まぁ安心してください!自分、しぶといのでそんな簡単には死にはしません!」
「うん。そうじゃないと困るよ」
あんずさんは珍しく微笑む。
「七種くんがいないとお仕事楽しくないし」
何か言おうとして、開いた口を閉じた。

気の利いた返答が頭に浮かばない。不意打ちとはこういうことを言うのだ。
意図せず普段から気配を消して声を掛けて驚かせてくるのと同じように、なんでもない言葉で心が掻き乱される時がある。
それが不愉快で、少しだけ心地が良い。

「ロケ地ついたよ。先に挨拶回りしよう」
「ええ。そうですね」

普段より早い心臓の鼓動は、この夏の暑さのせいということにしておこう。



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