今日は店、来なかった。金曜日は次の日が休みだからと言って大体寄っていくのに。閉店後の消灯した物寂しい店先から、雨空を見上げる。残業疲れで直帰コースだったのだろうか。それとも今日も合コンで、もしかして。ああ嫌だ。胸がざわつく。来るはずのない連絡を心待ちにして、何度スマホの待受画面を見ただろう。ホームボタンを押してディスプレイを表示させても、同じサークルの女子からメッセージが入っているだけ。
あと1分、あと3分。そう思いながら、バイトが終わってから既に15分近く経っている。それでも名前さんはこの道を通らない。そもそも駅から彼女の住むマンションまで、和音があるこの道を通らないルートなんていくらでもあるだろう。今頃どこで何をしているんだろう。合コンで気に入った男にお持ち帰りなんてされていないことを願うと、握った拳に力が篭もる。もう帰ろう。明日は夜からあるサークルの飲み会の前に、レポートを一つ終わらせなければいけない。現実的なことを言い聞かせても、メッセンジャーバッグの底に埋もれている折り畳み傘に手が伸びない。
『もう帰ろう。名前さんは来ない』
数えきれないほど繰り返された苦言を自ら呈し、ゆっくりと視線を空から地上に落とした瞬間、視界の左端に映り込む、一つの人影。薄暗い夜道の真ん中に佇む一本の傘。水滴が傘に跳ねる音。俺を見て驚いたように薄く開かれた艷やかな唇。この瞬間を、俺はずっと待っていた。
「名前さん。」
出てきた声は想像以上に歓喜の色が滲んでいた。彼女はそんなことに気付く余地もなく、気まずい感情を隠すように俺に歩み寄って声を掛けてきた。自覚はないのか、そんなに視線を泳がせていたら貴方の動揺が手に取るように分かりますよ。かわいい人だ。きちんとした告白はしていないけど、意識させるように仕向けた数日前の自分によくやったと褒めてやりたい。口の端に滲み出る喜びを隠すように、再び空を仰いだ。15分も雨空の下ぼんやり時間を過ごしていた自分に若干引きながらも、実を結んだことに安堵する。
だけど問題はここからだ。名前さんは今どこで何をしているのだろうと想いを馳せているまでは良かったが。実際目の前に現れるとは思ってもみなかったから、急いで今後の自分が取るべき行動パターンを考えてみる。名前さんの手に傘はある。雨を口実に家まで送ることは出来ない。むしろ傘が無いと言って家まで付いて行くか。それはさすがに面倒な男だ。だからと言ってここで別れを告げて逆方向に歩き出すのも違う。ここは直球で挑むか。ため息混じりに湿った空気を胃に取り込んだ。
「傘、ないの?」
俺を気遣う名前さんの声が雨音に重なる。本当に心配してくれているのか、恐る恐るこちらを見上げた。どんなに年上だろうと、年上であることに気弱で、まるで小動物のような彼女。そんな彼女を、俺の目が捕える。この人は俺の獲物。絶対に、逃がさない。
「家に忘れてきました。」
頭に浮かんだ何通りかのパターン。その中で一番成功に至らなさそうな、傘が無い振りをする作戦に、まさかの名前さん本人が手を貸してくれた。ここで「そう。じゃあ頑張って帰ってね」と言い捨てることが出来ないのが、名前さんだ。
「入ってく?」
想像通り。優しいと言うか、隙があると言うか。普段の彼女に不安になりながらも、それでも、いいんですかと早急に返事をする俺は正直だ。今日は店で会えなかった分、少しでも、名前さんと一緒にいたいと思う。本当に、日頃の生活から名前さんに振り回されており、本人には気付かれないように小さく溜息をこぼした。
バイト先の常連客。いつも来る、ちょっと面倒くさい感じの人だった。合コンばかり参加して、会社の不平不満を並べて。たくさんの種類のリキュールがあるこの店で、ビールしか頼まないし。毎回毎回ナッツの盛り合わせを怠そうに口に運びながら「バイトくーん、枝豆と焼鳥買ってきてー」なんて言うし。いつまでも名前を覚えてくれなかったし。
でも、いつの間にかそれだけじゃなくなっていた。名前さんが店に立ち寄ってくれることが嬉しくて、来ない日はバイトのモチベーションが上がらなくて、何人もの女性客の中で名前さんだけが特別になって、合コンに行く度に失敗して文句垂れてるなら、俺にすればいいのに、って。特定のきっかけがあった訳でもないのに、いつからだったか、こんなに惹かれていた。
仕事とか会社とかまだまだ分からないガキの俺からしても、彼女はバリバリのキャリアウーマンではないということは見て分かる。仕事や上司のことで嫌なことだってあるだろう。でも、夜に店で小言をこぼしても、きっと次の朝には精悍な雰囲気を醸し出しながら会社に向かっているんだろうなって思ったら、応援したくなった。
二人で使うには狭い折り畳み傘の下、横でひょこひょこと小さな肩を揺らす名前さん。俺を意識してくれているのか、不自然なまでに距離を取ろうとする。反対側の肩が濡れ始めているのが見えた。本当に、かわいい人だと思う。顔立ちとか、服装とか、そういうことではなくて。俺はいつか、この人に告白をする時がやってくるのだろうか。いつか、雨でも帰り道でもなく、理由も要らずに並んで歩くことが出来るのだろうか。まだ一歩を踏み出していないのに、不確かな未来を憂いでも仕方がないか。雨に震える小さな手を、今は握ることができない。でも今は、今だけは傘の下、二人きりの空間だ。金属製のつゆ先から落ちた雫を受け止めるその肩に手を伸ばし、俺は雨を口実にこちらに強く引き寄せた。