魚心
溺れる

その女は上等な濡羽色の肩掛外套ケヱプコートが汚れるのも厭わず、薄く埃を被った壁に背を寄りかけて立っている。控えめなバックルが装飾された黒の革手袋を嵌めた指先でくるくると自身の髪を弄びながら、女は葡萄茶色ボルドーの紅を差した薄い唇を愉快そうに歪ませながら言う。

「残念ながら、また暫く此方にも顔を出せそうにありません」

残念と吐くには似合わない調子で、女は薄暗い部屋の奥、格子が付いた窓の先に向かって話しかけた。
地上より遥か遥か地下にある世界から断絶されたその場所の名は"深地下隔離室シェルター"と云った。
其処に居るのは女の上司であり、師である男なのだが…無機質な天井に気持ちばかりに並んだ蛍光灯では、部屋どころか周囲すら照らしきる事は出来ていない。故にその男が残念そうにしているのか、はたまた興味がないのか等と伺い知れは出来なかった。それを気にせず、腕を組みながら女は言葉を続ける。

「やァっと潜入が終わって帰還したのに、今度は猫探しに駆り出されるんですって、私。
3ヶ月よ?首領の見立てでは2ヶ月くらいで終わるはずの任務だったのに、芋ずる式で怪しい所が出てくるものだから潜入と殲滅を繰り返して…ざっと数えても3社と幾つか雇われの集団もいたかしら?
部下も置いて来てたし、情報操作片手間に相手するの本当に大変だったんだから。報告書も倍以上書かないといけないし、フロントの業務も滞ってるし…」

嫌ンなっちゃうわとぺらぺら独り言の様に云う女は、頬に手を添えて大袈裟に溜息を吐いた。
どうやら話すだけ話して満足したらしい。却説、と一言零して女は寄りかかっていた壁から背を離す。肩掛外套ケヱプコートをふわりとはためかせ、ヒールを鳴らして「ではまた」と女はその場を立ち去ろうとする、間際。

「楽しんでおいで、深透」

深く底から響くようなテノールが、親愛を纏ってまるで謳うように其の一言を紡いで女の耳に届く。深透と呼ばれた女はそれに言葉を返さず、振り返りもせずただ口の端をきゅっと上げて上機嫌にその場を後にするのだった。


▲▼


"或る人虎の首に70億の賞金が掛かっている"

何ともまぁ、とんでも無い話を聞いたのはヨコハマに帰って来て直ぐの事だった。中途半端に変化する人狼の異能力者なら昔に合間見えた事があるが、密林の王とはまた珍しい。
其れに70億とは。
何やら複雑に絡んだ思惑でもあるのかと眉根を顰めつつ、莫大な価値を付けられた其の人虎に興味が沸く。同時に面倒事に巻き込まれたくない自称平和主義者の深透は、首領の御前である手前「あら大変」とだけ零した。

ポートマフィアに不利益をもたらした密売組織の殲滅を仰せつかって早3ヶ月。
事前調査ではそこまで大きな相手でなかったはずが、西へ東へ拠点やら協力組織やらがあった為予想を超えて時間がかかってしまった。視界に入る"水分子"を操るという異能力の性質上、深透にとっては単独の方が都合が良い。勿論甘く見ていた訳では無いが、しかし流石に今回ばかりは長距離移動と連戦で骨が折れた。

「本当は数日くらいお休みをあげたいんだよ?だが芥川くんだけじゃ心配でね。ほら、深透くんなら信頼出来るし懐かれてるし」
「懐かれてるんですかねぇ、アレ」
「可愛い後任じゃないか」
「まァ、可愛いですけども」

会う度睨まれ、上司としての責務を云々と突いてくる言の葉は正直痛い。そもそも深透はポートマフィアに所属はしているが、忠義を誓ってるのは森個人に対してである。個人的に好ましい人物は指折り居れど、組織の狗かと云われればそれは否。芥川にとって、その姿はかつて遊撃部隊隊長の前任だった事実に相応しくないと考えているようだった。

首領曰く芥川に件の人虎の捕縛を命じた。が、人虎は少人数だが異能者で精鋭が集まる"武装探偵社"に転がり込んでいると云う。
首領は様子見だけで良いよと呑気に云うが、果たしてそれだけで収まるだろうか。
前線から身を引き、現在はフロントの経営業務と潜入を主とする深透にとってヨコハマでのは非常に久しいものだった。
帰還直後と云うのもあり、少々アドレナリンが抜け切ってないので万が一市街地戦にでもなろうものなら手加減は難しい。あわよくば穏便な解決が成されれば良いが。

「ところで昇進の話だけれど」
「首領、何度も申し上げた筈です。私は今の席で満足しているの」
「…残念。今日も振られてしまった」
「冗談は止して下さいな、分かってて仰ってるくせに。エリス嬢に告げ口しますよ」
「勘弁してくれ。エリスちゃんてば深透くん贔屓なのだよ?苛めるなと怒られてしまう」
「ふふ、誰に似たのでしょうね」

口では昇進を勧めながら、空けてある幹部の席は待ち人の為に取って置いているくせに。何度誘われようとも答えは変わらないし、深透が首を縦に振らないのを分かって意地悪を云うのだから首領も大概である。
あまりの執拗さに妥協して、或る幹部直属の部下でありながら準幹部の席も持ち合わせている深透。またエリスの"お気に入り"である事からも、如何に優遇されているかが分かる。初めは稀有な異能力者を逃がさないよう囲う為だったかもしれない。しかし今は其処に情が乗り、一種の愛が込められていた。

「却説、と…挨拶に行くのかい?」
「えぇ勿論」
「君も物好きだよねぇ」
「あれでも上司ですので。それでは」

首領にとって我が身が可愛い事を知っている深透は花の様に表情を綻ばせ、挨拶もそこそこに部屋を出ていった。行先は深地下隔離室シェルター、彼女の上司が居る処だ。吐いた言葉は浮き足立っているが、その後姿は凛とした淑女であり、紅葉と並び立ってポートマフィアの女傑と云われるに相応しい。

随分と美しく成長したものだ。
見目の話では無い。深透がポートマフィアとなってから既に7年程の月日が経っているが、真逆ここ迄実力と名実共に恐ろしくマフィアらしいマフィアになると思ってもいなかったのだ。否、元来その気質はあった。だからこそ引き入れたのだが。

「深透は良い子ね!私、大好きよ」
「…私もそう思うよ」

森は何時に無く感慨深い感情に浸りながら、何処からともなくひょこりと机の上に顔を出したエリスの愛らしさに微笑んだ。


▲▼


空には薄く雲が張っているにも関わらず、フリルがあしらわれた黒い傘を差した女は悠々と自宅への帰路を進んでいく。傘から肩掛外套ケヱプコート、其の他身に付けているもの全て黒で統一されている装いはすれ違う通行人の視線を惹いた。
装いだけでない、そもそも今日は曇天ではあるが雨の予報はないし、眩い日光が照っている訳でも無いのだから女の差している物は雨傘とも日傘とも云えないのだ。

女は視線をさして気にする様子もなく、市街を行き交う通行人と同様に歩いている。そして不意に路地を曲がったと思うと、その姿は暗がりに紛れ、惹かれた通行人の視線と記憶から次第に薄れていく。それがポートマフィアの人間だと知る事も無く、ただゆるりと記憶の底に溶けて忘れていくのだ。


大きな音で鳴く古びた室外機、雑多な物が捨てられ溢れたゴミ箱、舗装もされずヒビの入ったコンクリート。市街の賑わいが聞こえなくなり、ビル影で太陽の光が当たらず薄ら寒さすら覚える其処は人の影も気配もない。
小気味よく鳴るヒールの音を聞きながら、深透は淡々と裏路地の奥へと入っていく。この調子ならあと15分程歩けば自宅に着くだろう。疲れを感じさせない足取りではあるが、とにかく早く熱い湯に身体を沈めたい。何となく気分で部下の送迎を断った事を少し後悔し始めてきたその時、深透の携帯が外套コートの内ポケットの中で震えた。

「はァい」
『お久しぶりです、深透さん』
「あら、声を聞くのも久しぶりね。元気にしてた?」

取れば、相手はくだんの人虎を任されている芥川であった。先日の潜入以前から忙しない日々が続いていたので、姿は愚か声を聞くのすら半年振りだろう。

『世間話は後程。今回の件で顔合わせさせておきたい部下がおります』
「分かった。丁度帰宅途中なの。私の家に来れるわよね?それとも部下を送ろうか」
『御手を煩わせるに及びません。既に深透さんのご自宅に向かっております故』
「本当に自分勝手な子」
『恐れ入ります。では』

ピッと通話が切れて、後には不通音が残る。
そう云えばあと何分程で着くのか聞くのを忘れていた。深透の知らない部下が居るのであれば迎える支度をしなければ。近道する為に脚に異能を纏えば、外套コートに仕舞おうとした携帯がまた震える。
今日は着信が多い。全面のモニターには"非通知"の文字が出ており、訝しみながらも深透は通話釦を押す。

『よォ、取込み中だったか?』

其の声は変わらず明快で、通話口越しに深透が息を飲んだ気配に気付いてカラカラと笑った。

「貴方、携帯どうしたの」
『ン?あー…壊れた』
「非通知だったから吃驚したじゃない」
『悪ィ。早く手前の声が聞きたかったんだ、許してくれ』
「まァた調子の良い事」

深透は呆れたような声音を装うが、疲労と慈しみ、そして彼なりの酷くな言葉に少しだけ気が抜けた。彼とは数年来の同僚でもあるが、さらりとかす言葉に気恥ずかしさを抑えるのは未だに難しい。

「其れで?西方は落ち着いたの」
『あァ。事後処理がだなモンで後数日掛かるが…其方そっちは?潜入だったんだろ』
「ん、今帰宅中」
『そうかい、お疲れさん』
「中也もね」

どうやらタイミングが良かったようだ。
幹部の中也と準幹部の深透。互いに地位ある立場になってからは共に居られる時間も減り、擦れ違う事が多かった為に今回のように任務の終わりが重なるのは非常に珍しかった。

「どうせ骨董屋うちに来るんでしょう?」
『居心地良いンだから仕方ねェだろ…互いに長期明けだ、非番くらい合わせられるか』
「芥川次第かしら」
『何で芥川が出てくンだ?』
「お目付け頼まれちゃって」

そうかい、と電話越しに呟く声は不機嫌そうだ。だが誇り高い組織マフィアの狗として互いの存在は二の次。解っているからこそ、関係は続いているし首領からも許されている。

『取り敢えず戻ったらまた連絡する』
「えぇ…ねぇ、もう少し話せない?」
『どうした、珍しく寂しがりか?』

流石に半年も会えなければ「冷酷無情」と評された女も寂しくはなるのか。可愛らしい所もあるじゃねェかと、中也は受話器の向こうにいる愛しい女を思い描いて微笑む。

…だが中也は忘れていた。
深透が遊撃部隊の隊長になるよりも前。かつては首領直轄の秘密部隊に在籍しており、憎たらしい元相棒と共に行動していた事を。
そして独占欲から思わず首輪チョーカーを贈呈したが、「見目から組織マフィアの狗に成れって事?」と心底厭そうにしながら渋々受け取った事を。

「家まで暇なの」
『…ア?』
「あと15分は切ったかしら。送迎断ったから一人でぽつぽつ歩いてるのだけど、暇なの」
『……オイコラ深透、手前は俺を収音機ラジオにしてェのか』
「ふふ、うん」
『阿呆か流石に長ェわ!!事後処理つっても部下も待たせてるし俺は暇じゃねェ。切るぞ』
「あぁ待って」
『…ンだよ』
「寂しいのは本当よ。じゃあね」

握っていた受話器がピシリとひび割れる音がした。揶揄われたと気付いたのは不通音が流れてからで、表情を隠すように帽子を目深に被る。
時に解った上で中也の心を掻き乱しては翻弄し、反撃すればそれを享受する。嫌な循環ループを仕掛けてくる女だが、底無し沼のようにどろどろに心を絡め取られて数年。
何時まで経っても食えない女だ…否、これでも少しは素直になった方か。

部下が指示を仰ぎに来るまで深透の言葉を頭の中で反芻しながら、中也は壊れた受話器を握り続けていた。

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