1992

01

 今日、一人の男が死んだ。
 
 その男は、上院議員とまでは言わないまでも、平凡よりもちょっぴり贅沢な暮らしができる家に生まれた。男は子供のころから体育が得意で、小学校で過ごす内は、同じクラスどころか他のクラスの女の子のハートさえも射止めるような男だった。小学校というのは、足の速さで『モテ度』や『カースト』が決まる単純でアホらしい世界だった。

 男は落第なんて一度もしなかったし、高校では語学を学び、大学でも同じように人気者だった。大学を卒業した後は、彼女と数ヶ月メキシコに旅行に行った。父親のコネで無事に就職した後も彼の人生は順風満帆で、大きな苦労の無い人生だった。
 ただ、男はそんな人生のせいで、ちょっぴり見栄っ張りだった。落第をしなかったのも「ダサい」なんて下らない理由だったし、彼女だって半分くらいは自分のアクセサリーだと思っていた。セックスフレンドの人数が、彼の自尊心を物語っていた。

 だから、彼が友人のホームパーティに向かう日も、やっぱり、ほんのちょっぴりの見栄が出た。アルコールを飲んだにも関わらず、彼女を助手席に乗せて車で家を出た。

 そして、男は道中で小さな子供を引きずり殺し、懲役四年の刑が科された。
 男は勿論、男の両親も、所謂『金持ちの家』だった。

 ガリカは、男のそんな事情なんてこれっぽっちも知りやしないのである。だから、路地裏で転がる男の遺体を見て「可哀想だ」と思った。

「お兄さん、あんまりそういうモンに関わらん方がいいぞ」
「……あぁ、わかってるよ。生きているかどうか確認しただけだ」
 ガリカは、男の遺体が転がる路地から顔を引っ込めて、商人に向けて笑いかけた。
「最近物騒だよな、イタリア」
「あァ、まぁ、ね」
「俺としては、稼ぎやすくて嬉しい治安なことこの上無いんだが」
「なんだお兄さん、ソッチの口?」
「いいや?クスリのビジネスには興味無いんだ。リスクが高すぎて馬鹿らしい。それ以外の方法だよ」
「いいねぇ、あやかりたいもんだ」
 クソったれな程暑い夏のシチリアで、ターバンなんて暑苦しいものを被った商人はヘラヘラと笑った。ガリカは、涼しい顔をして額の汗を拭う。
「それで?本当にあるのか?『石仮面』とやらは」
「あぁ、あるよ。数年前にここシチリアで発掘されたらしい。ホンモノかどうかは保証しないが」
「オ〜〜イ。商人が保証しないとか言っちゃあダメだろうが。嘘でもそこは『ゼッタイ本物です』って言うんだぜ。そういう度胸が無いからアンタは貧乏商人なんだよ」
「初対面でズケズケ言いやがる」
「コミニュケーション能力に秀でていると言ってくれ」
 
 ――石仮面。
 その言葉に、ガリカの片眉が上がった。ガリカが特に用事も思いつかない上、治安悪化が加速するイタリアの、さらにシチリアなんて港町に訪れたのは、これが目的であった。
 『石仮面』とは、はるか昔のアステカ文明を起源とする、人間を進化させるオーパーツだ。それを被った状態で仮面に血を付着させると、内部から針が飛び出し、人間は進化を迎える――即ち、吸血鬼と化すのである。生命力と身体能力が遥かに上昇し、また、その体の成長は最適な物で保たれ、日光と脳以外に弱点のない、不老不死の体になるのだ。
 ガリカは、とある財団の依頼で、それの回収に足を運んでいた。

「ところで、本当に一億リラなんて持っているのか?随分身軽に見えるがね」
「あァ、そりゃあ一億リラ相当のブツをこれ≠ノ入れてるだけだからさ。金も意外と嵩張るからな」
 ガリカは、地面に置いていた革のトランクを持ち上げて見せた。ゆらゆらと手慰みに扱う様子は、その中に一億リラの価値があるブツが入ったトランクの扱い方ではない。商人は眉を寄せた。
「先にソッチを見せてくれるか」
「いいよ。スリなんてくだらねェことしないでくれよ」
「あァ?するワケねェだろ」
「約束できるか?」
「勿論だとも」
「ふぅん、じゃあ、――――さ、」

 ガリカは、意味ありげに口の端を上げる。そして、手品師さながらにどこからか指輪を取り出した。
 銀色の土台に乗っかった長方形の宝石は、怪しく紫色に光る。まるで、露骨に価値のあるもののように。商人を誘惑する。

 その美しさに目を奪われた商人は、その指輪がガリカによって自らの指に嵌められていることに気づかなかった。

「契約≠セぜ。破るなよ」
「……あ?あぁ………………」
 それは、ちょっとばかし奇異な行為ではあった。けれども商人は元より約束を破るつもりなんて毛頭無かったし、「違和感を覚える」という行為自体がなぜだか無意味に感じたのだ。だから、訝しみながらも、彼はガリカが差し出したトランクを開けた。

 ガリカは、トランクの中身を鑑定する商人を横目に、再び路地裏を見た。それは、ほんの数メートル離れた先に死体が転がっている――という事実が生み出す、小さな好奇心だった。

「………………」

 そこは暗闇であった。ガリカが目を皿にして、身を乗り出さなきゃあ、男の死体なんて全く目にも入らない場所だった。けれども、……ふと。ガリカはそこから睨むような視線を感じた。だから、じぃと眉を顰めて、暗闇を観察した。
 ――けれども、矢張り。
 視線を感じていながらも、自らを睨む二つの眼はついに確認することができず。ガリカは諦めて商人へと視線を戻した。そのついでに、「可哀想な男だ」と。ひっそりと、つまらなそうに、呟いた。

「うっへぇ、お兄さんさぁ、ホントどうやってこんな金額のブツ集めて来たんだよ。マジであるじゃあねーか」
「俺は嘘はつかないよ」
「そうかい。じゃあ、約束通りこっちも渡すがな。商売が成立した後で『偽物じゃあねーかッ!』って俺をぶん殴るのだけはやめてくれよ」
「わかってるよ。偽物か本物か、わからないのを承知の上で買おうって言ってるんだ。それに俺はね、とりあえずぶん殴るなんて品の無いことはしないんだぜ」
「まぁ、お兄さんに殴られた所であんまり痛くなさそうだけどサ。細っこいしよ」
「バカにしてんのかと怒りたいところだが、今朝、マルメッラータ(ジャム)の瓶が開けられなかったモンで、何も言えねェのが辛いな」
 商人はカラカラと笑ったあと、粗末な布を引っ掛けた机の下に手を突っ込んだ。引きずり出されたのは、ガリカのものよりずっとボロっちいトランクだった。
 商人の骨のような指が金属の爪をひっかけて、がちゃん。ギイィ、と、トランクが不穏な音を立てる。紅色のクッションに包まれているのは、石の仮面。
「フゥ〜〜〜〜ン、なるほど、ソレっぽいな」
「なんだ、お兄さん、見た目とか知らないのか?」
「知ってるワケないだろう。遺跡で発掘されるようなモンだぞ。オーパーツだぞ」

 その仮面は、唇のぶあつい赤子の顔のようだった。つり上がった細い目の形に空洞があって、唇からはみ出る二本の牙が彫られている。幾つものヒビが入っていたが、ひと目で貴重なものだと理解出来る、奇妙な威圧感がそこにはあった。
 ガリカは、極めてゆっくりと、石の仮面を掴み上げた。
「ふむ……………………」
「どうだ?」
「さぁ?わからない。ホンモノかどうかは、夜になって確かめてみるとするかな」
「そんなに手軽に鑑定できるのかよ」
「あぁ。これを被ったまんま血液を浴びると、不老不死になれるんだそうだ。その代わり、一生太陽に嫌われちまうがね」
「………………お前頭大丈夫か?」
 
 商人は、失礼なことに、思い切り顔を引き攣らせた。ガリカは彼の反応を見越していたのか、彼のその表情にも穏やかに笑う。
「言ったろ?本物か偽物かどうかわからない≠アとを前提に買うって、さ」
 ガリカは石仮面を自身のトランクに入れて、机にぼんやりと置かれたまんまの商人の手に、自分の手のひらを重ねた。彼は滑らかに彼の指から先程与えた指輪を抜き取って、口の端を上げる。指輪に、口付けをする。
「いい買い物だったよ。グラッツェ(ありがとう)」
「お、…………おう、……どうも……?」
「また何かあったら声をかけるよ。その代わり、君も不自由があれば俺に連絡をくれればいい」

 ガリカは商人に背を向けると、「チャオ」と後ろ手を振った。抜き取った指輪は、空気に溶けるように消える。
「わざわざスタンドを使わなくても、彼はキチンと約束を守る男だったかな」
 ガリカの右手の人差し指には、先程商人から抜き取ったものと、まるで同じ指輪が嵌められていた。ガリカはそれさえも抜き取って、また同じように空気に溶かしてしまった。

「悪いことをした」

 ガリカは、何事も無かったようにその場を去る。商人はその後も変わらず儲からない商売を続け、くずおれた路地裏の男も、暫くは誰にも発見されずに、ずぅっと暗闇の中に取り残されるのだろう。山も谷もないその一日の中で、たったひとり。ガリカを影から睨んだ男だけが、暗黒の世界に足を踏み入れたのは、──ここだけの話。

「ま、信用は金で買えないからな。致し方ない」

 そしてその日の夜から、ガリカは吸血鬼として生きていくことになった。

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