Paradox Live
知らぬが仏
視界の端を横切ったと思われる黒い点。真っ白な壁を走る生き物。僅か直径一ミリにも満たないそれを、私はまた捉え損ねた。
手を握る。開く。やはりそこには何も無い。振りかぶった手は壁を叩いただけで終わり、一方無駄に打ち付けられた手の肉はじんわりと赤らんでいた。指の付け根のふくらみが、心無しか一回り大きく見える。
今度は壁に目を走らせる。火のついた煙草を灰皿に置いて、一歩距離をとって全体を眺める。換気扇の下の壁は、拭き損ねた油跳ねの染みが残っている。それから、昨日作ったオニオンソースの汚れも。けれどもそれだけだ。私が「仕留めねば」と思った筈の姿はそこにはない。真っ白な壁にちょっとした汚れ。それだけだ。
どうにも、興を削がれた。
ため息こそ包み隠して、目からゆるりと力を抜く。三分の二になった視界で煙草を持ち直し、口に咥える。甘ったるい煙を肺に入れつつ、掛けてあった台布巾を持ち、水で濡らして、壁を拭く。ソースの汚れを拭った後で、己の失策に気づく。キッチンペーパーで拭けば良かった。
ゴポリと眼下の鍋が音を立てて、その沸騰を知らせた。私はそれに気づいて、火を止めようとして──また、視界を走るひとつの黒い点。
そうして、粗雑に壁を叩く。
それは言わば、『飛蚊症』と呼ぶらしい。
「ナマエ、またそれ食べるの?」
去っていく店員のエプロンをぼんやり眺めていると、いつの間にか友人が首を傾げていた。先程私の注文を聞いたばかりの店員は、エプロンの紐が縦結びになっていた。
「また?」
「この前も食べてた気がする、タラコソースパスタ」
それと、アロスティチーニと辛味チキンも。ちょっとおかしそうに、友人がクスリと笑う。そう言う彼女はイカの墨入りスパゲッティを頼んでいた。私からすれば、真っ黒なスパゲッティを食べようと思うその気持ちの方が、よっぽど不思議だと思うが、無駄話なので疑問は飲み込む事にする。体積の半分以上が氷に占領されたグラスに口を付けると、乾いていた喉が満足気に嚥下した。
「ウソ、ほんと?」
「ホントホント。覚えてない?二週間くらい前だと思うけど」
「あれ、二週間前だっけ」
パスタを食べたのは、もう少し最近だったような気がした。そして、それはタラコソースパスタではなくて、ペペロンチーノだった気がした。記憶の齟齬に小首を傾げつつ、友人の「痴呆じゃんか」という呆れ笑いに釣られて笑う。
本当に痴呆みたいだ。ペペロンチーノを食べたのはこのファミレスじゃない。というか多分、ファミレスですら無かった。
メニューをスタンドに戻すと、友人がラミネート加工がされた季節のパフェを楽しそうに眺め始める。その端に、また黒い点。
「(………………………………)」
何か物をみている時に、黒い虫のようなものが見える──何ともまぁ、言葉にすれば簡単な症状だろう。その仕組みはというと、生理的な物と、病気的な物との二種類に分かれるのだとか。眼球の、硝子体の変化によって一部に皺が生まれ、その皺の影が網膜に映ってしまうことにより、『実際にはいない黒い点が見えてしまう』。これが生理的な原因。病気的な原因には、有名なものだと網膜剥離がある。しかしそれにしては急激な視力低下は発症していないので、恐らく私は生理的な物なのだろう。
不快な黒点を見過ごしながら、聞き流してしまっていた友人の話に曖昧に頷く。
「遠距離だからしょうがないってのもあるけど、やっぱ寂しいじゃん?」
「うん」
「そんでね、ビデオ通話したいってのもわかるのよ。でもさぁ、こっちからしたらスッピンでビデオ繋げるのもヤダし、そんな簡単じゃないわけ」
「あーーー、わかる。確かにね」
「でも向こうはしたいって一点張りでさぁ」
視線を動かせば、その黒い点は付いてくる。季節のパフェから目を離して、友人の顔にピントを合わせれば彼女の頬にへばりつく。それが気味悪くて、忙しなく、目線だけで、店内を見渡す。
縦結びのリボンの先に、黒い点──蜘蛛が、ぶら下がった。
「ナマエだったら、どうする?」
「え?何が?」
「いや、私ら喧嘩しちゃったじゃん。んで私は「したいー」って言われてるじゃん。向こうは意見聞いてくれないじゃん。どうする?って」
蜘蛛が友人の頬にへばりついて、私は顔を顰めて腕を組んだ。──どうする、と言われても。私はあまり彼女の恋人のことをよく知らない。相手がどんなタイプかわからないのに「どうする?」と聞かれても、正直ピンとくる回答は用意できない。理屈で話せばカンに触る人も入れば、感情的に訴えても理解してくれない人もいる。では自分の彼氏ならば──と、過去の記憶をひっくり返して洗い出して見ることにする。真っ先に浮かんだ顔を放り投げたのは、厳密には彼氏では無いからだ。
「私なら──────」
「お待たせ致しました、辛味チキンとコーンスープでございます」
「ん、あれ?」
頼んだ覚えのないスープを目の前に置かれて、友人が首を傾げた。
「すいません、スープ注文してなかったと思うんですけど」
「えっ!?あ、すいません」
「いえ、別のテーブルのとかじゃないですか?ここで注文した事になってるなら頂きますよ」
慌てた様子で手元のハンディ(正確にはPDTと呼ばれる機械)を操作している店員は、やはり新人のようだった。注文した時には気づかなかったが、胸元に研修中の名札が付いている。彼もいずれちゃんと蝶結びが出来るようになるのだろうか。研修中の名札が外れるのが先か、縦が横になるのが先か。
「すいません、僕が注文間違えちゃったみたいで」
「あ、じゃあ頂きます。頼んだってことにしちゃってください」
「ほんとすいません、あの、」
「大丈夫ですよ、コーンスープ好きなので」
視界に蜘蛛がチョロチョロと彷徨く。
「あ、思い出した」
「何が?」
「コーンスープ。タラコソースパスタと、辛味チキンと、コーンスープ。前回の布陣だよこれ」
「布陣って。ほんと?こんなに私食べてた?」
「うん。辛味チキンは半分こしたけど」
──私ならどうするか?
その答えは結局出てこなかった。店員に声をかけられるまで言おうとしていた内容も忘れてしまった。私は友人が始めた別の愚痴を聞きながら、頭の中でひとつふたつと話題を用意しておいて、会話が途切れるのを待つ。まぁ大体は、話している最中に忘れてしまうのだけど。
「そういえば、今朝近くのコンビニで強盗出たって知ってる?」
「え、知らない。ニュースになってた?」
「ナマエってLINEニュースみないでしょ」
「LINEのは見てない。え、ちょっとまって」
「まだ捕まってないんだって。怖いよね〜」
言われるがままLINEを開くと、アイコンの右上に赤い丸。二十分前のメッセージは依織さんからだ。長押しして、既読を付けずに中身を読んで、それからニュース欄。
「うわホントだ。これ凄い近くじゃん」
「でしょ。ビビったモンマジで」
カツ、と切るのをサボった爪がスマートフォンの液晶を叩く。LINEの赤マル通知を放っておくのはどうしても気が引けたが、友人と会話している最中にメッセージに返信するのも嫌な感じだ。するりとスワイプすると、上の方にLINEの画面が消えていった。
何をしていても。どこを見ていても。視界に黒い点がチラつく。それも不思議と、段々と距離を詰められている気がするのだ。友人の頬にいたソレはテーブルに降り、私の手を上り始めている。肘から二の腕にそろそろのぼって、肩の上で不可思議に脚を動かしながら八つの目でこちらをみている。否、これはたどの点である。脚も瞳もありはしない。私が「あるように感じている」だけなのだ。
それを事実だと証明しているのは、目の前で呑気に会話を続ける友人に他ならないだろう。普通に友人の肩に蜘蛛が乗っていたら悲鳴を上げるか指摘をするかしそうなものである。
それが『ゴルフボール大』なのであれば尚更。
「せやから、迎えにいくって言うたやん」
「いつの話ですか?」
「LINEで」
「あっ、すいません。返信忘れてました」
助手席のシートベルトを付けて、前髪を整えて両手を膝に乗せる。先程買った藍色のミュールとオープンショルダーのブラウスが入った紙袋は、後ろの席に置いた。
夕方。食事を終えて、ついでのショッピングを終えてモールから出ようとした私の目の前に立ち塞がったのは、依織さんだった。「奇遇やなぁ」と笑った言葉は嘘そのもので、画面を消したLINEには未読のままの『用事で近くにおるから、帰りに迎えに行くわ』というメッセージが残っている。
「最近物騒やから、あんま一人で出歩かんといてな」
「あぁ、近くで強盗出たって聞きました」
「コンビニのやろ?俺もそれ見て不安になってもうてな〜?LINEしたのにナマエちゃん無視するんやもん」
「それはすいませんって……」
「ふふ、あんま怒っとらんで。友達とご飯やったんやろ?」
「えぇ、中学校からの友人で」
「ほぉ〜。えらい長い付き合いやなぁ。言うてくれたらその子も送ってったのに」
「あ、大丈夫です。その子お兄さんの車乗って帰りました」
「そか。そんならええな。それに強盗の方ももう捕まったって話やで」
「あれ、そうだったんですか」
「うん。ついさっきな」
赤信号で緩やかに止まり、依織さんがするりと車のハンドルを撫で付ける。依織さんの車には傷も汚れもほとんど見当たらなかったが、如何せん視界を飛び回る蜘蛛のせいで一体どちらなのか判別が付かない。少々イライラして目をグリグリと擦ると、メイクをしていたことを失念していたせいで、指にブラウンのアイシャドウがこびり付いた。
「ん、どしたん?」
「いや、ちょっと最近目が……」
「………………」
赤信号が、パッと青に切り替わる。依織さんはペダルを踏んで、チラリとこちらの顔を見た。顔というよりは、目を。
その時に何かを見つけたのだろうか──そう気づいたのは、依織さんが最寄りのコンビニに車を止めてからだった。
「ナマエちゃん、ちょっとこっち向いて」
「ん?なんです?」
促されるまま依織さんの方を向くと、当然ながらシートベルトが伸びる。その力に抗いながら、依織さんを見上げる。依織さんは自然に私の顎を掬って、私の目をじっと見つめた。依織さんの指はいつも武骨だった。私とは全然違う皮膚をしていた。目だってずっと鋭くて、アイラインは一際目を引く綺麗な赤だ。視線が合うのが気恥ずかしくて、私は目をそらす。このままだと、唇を見てしまいそうだったから。要らない期待をしてしまいそうだったから。大きな手が頬を滑る。目の縁に触れる。
「これ、痛く無かったんか?」
「………………えっ?」
しばらくして、私から離れた依織さんの手には──目を凝らしてようやくわかる。私の睫毛があった。
「あらら………………睫毛ちゃん」
「睫毛ちゃんやで。どう?まだ目ェ気持ち悪いか?」
「ん………………」
何度か瞬きを繰り返すと、今まで視界にへばりついていた黒点は消えていた。なんてことは無い、そいつの正体はただの睫毛だったのだ。
「あ、平気になりました。ありがとうございます」
「ん、よかったわ」
「ふふ、キスされちゃうのかと思ったんですけど」
「なんや、してもえかったん?」
「したいんですか?」
「したい、……ちゅうたら、させてくれるんか」
質問と質問の応酬。頬を撫でる依織さんの手。指が髪を掬っては、絡まりを解くように間を滑り落ちて行く。アイロンで巻いて整髪剤を掛けた髪は、多分そんなに良い触り心地じゃあ無いんだろうけど。それでも依織さんは、私の髪を指先で弄んだ。
「いいですよ」
思うに。
半端なままで居るのが、一番心苦しいのだと思う。間に立っているのが、どうしても落ち着かないのだと思う。視界にフラフラ飛び交っていた蜘蛛のように、一品だけ足りないランチメニューのように、縦結びになったリボンのように、捕まらない強盗のように。半端なままで居られるのが、一番困る。
「ん、」
触れる唇をわずかに食んで、目を閉じる。しっとりと濡れた唇は、長く私に触れたかと思えばゆるく離れて、今度は舌がぺろりと口紅を攫った。その動きに──この人、口紅を崩すの好きだな、と思う。
この人の側にいるのは不安だ。この人は生きているから。この人はいつか私を崩すから。私が半端な所にしか居られないから。
後頭部に片手が添えられて、頭を撫でられているような感覚に陥って、つい目を開きたくなった。ふいに、車の外に誰かいないだろうかと確認したくなった。
私はどこにいても不安なのだ。地に足が付かないのだ。それがどうしようもなく息苦しいことに気がついて、それでも触れる温度に別種の諦観が顔を覗かせる。
唇が離れて、目を開く。
「しませんよ」
「いけずな子やなぁ」
「夕方ですし、玲央くん達だって乗るんでしょう、この車」
「あぁ、せやなぁ」
そうやって暖かに微笑む綺麗な顔に、夕焼けを見ている時と同じような感覚に喰われた。もう、いいかと思うのだ。不安ならば不安で、不安になり尽くしてしまえばいい。地に足がつかないまま、不安だと叫んで転がりながら、この人の服の裾を掴んでやれとすら思う。
「それに、」
「ん?」
「………………いえ、なんでも」
「気になるで、それ」
「忘れてくださいな」
唇にぷに、と人差し指のはらを当てると、依織さんは「しゃあないな」と満足げな様子で、身を引いた。それから運転に戻る。私はチラリと後部座席の紙袋をみて、もう一度前を向いた。
今日、心がグラついたこと。
視界に張り付く黒い点。
覚えていなかった二週間前のメニュー。
結局答えられなかった友人の質問。
会話の最中に忘れてしまった言おうと思っていたこと。
忘れてしまったLINEの返信。
ひとつ言いかけた余計なこと。
『こんにちは。本日のニュースをお伝えします。××市××条××丁目のゴミ捨て場付近で遺体が発見されました。遺体は四肢が切断された状態でゴミ袋に纏められており、服の特徴から今朝××市のコンビニに押し入り強盗行為を行った男と見られており、また持ち物から××組の構成員であるとの情報が───────』
目の前で喋り散らかすテレビ。
風呂上がりの濡れた髪を、バスタオルで叩きながら、片目を眇める。
数々のことは、最後のひとつで何もかも吹き飛んだ。後部座席に付いていた汚れも、依織さんの用事についても、何もかも聞かなくて良かったなと、思った。
「やっぱりそうかぁ」
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