Paradox Live
ていねいに遺棄
何もしていないのに既に一発殴られている。馬乗りになる男を見上げて、「何してんだコイツ」、と、思う。目を白黒させている内に引き摺られたのは、ずっと放置されている空き家だった。冬が来る度に屋根から雪の塊が落ちてこないか不安になって、冬だけ通るのを避けていた。倉庫のシャッターはいつも開けっ放しで、夜になると真っ暗で何にも見えなかった。だから多分、外から私の姿は見えないんだろう。息を荒らげている男も。
背中にあたるコンクリートみたいな感触が、やけに冷たかった。真っ暗な中で男の輪郭だけが僅かに浮かんでいて、このまま目が慣れなければいいなと目を閉じた。鼻を鳴らせば、古くなったオイルの匂いと、それから知らない銘柄の煙草の匂いがする。
殴られた頬が、ようやく痛んだ。
指毛の生えた太い指が、乱暴にブラウスの真ん中を掴む。それを無理矢理引っ張ろうとして、ボタンに引き止められて失敗する。本当にボタンごと引きちぎろうとする人なんているんだ、と、昔の彼氏の家で見た強姦モノのAVを思い出し、呑気なことを思う。無理矢理ブラウスをたくし上げられて、下着もずりあげられる。
捻れたホックが背中を擽って、気持ち悪い。
気持ち悪いと、多分、思った。蒸した夏の気温は、互いにじっとりとした汗を張り付けていたし、耳にかかる粘ついた息なんか、普通だったら飛び退いていた。けれども、私のこころは不思議なくらい平坦だった。男に気持ち悪いと思うより、背中に突っかかった下着のホックの方が気になった。
ふと、「きゃあ」だとか、「やめて」だとか、叫んでみようかと思った。私は別に路地裏を歩いていたワケではなくて、確かにちょっと夜は人通りは少ないけれど、ここは普通の住宅街だ。少し歩けば街頭もある。ただ、この倉庫内がひたすらに暗いだけ。もしたまたま誰かが通りかかっていたり、私が本当に大きな声を上げれば、隣の家に人がいれば届くかもしれない。それが子供の遊び声だとか、ふざけたカップルのはしゃぎ声だと勘違いされなければの話だけれど。
そう淡々と思っている内に、乱暴に胸が揉まれた。肉に爪がくい込んでいたし、揉まれたというより、もう、捻り上げられていた。下半身で勃起したソレを擦り付けられて、余計に気持ちが冷めていく。怒りでも恐怖でもなくて、まったく、なにも、心が動かない。シンと静まり返って、死んでしまったみたいだ。ズボンを脱がされる。ジーンズパンツのボタンはちゃんと外せたみたいだ。ズボンと一緒に下着がズリさげられて、「あーあ」と思う。突っ込まれたら絶対痛いだろうな、とか、そんなことを、色々考えて。
なんか、きゅうに。
「(決めた、殺そう)」
感情には振れ幅がある。行動には理由がある。
感情には前兆がある。行動には躊躇がある。
でも、多分、どれも無かった。
平坦な心のまんま、私はきゅうに、暴力に走ろうとしたのだ。別にカッとしたとかじゃなかった。きゅうに、きゅうに、「あ、絞め殺せるかな」と思った。だから手を伸ばした。目は開けた。まっくらな中で、多分これが首だろうと思う所を掴んだ。「ぁ、?」って声がした。男の声だった。絞め殺すには握力がいる。太い男の首は両手で掴んでいっぱいいっぱいだった。ようやく我に返ったらしい男が、私の手を外そうと指を掛ける。
「やめろ!!!」と大きな声で怒鳴られる。
「貴方をころして、私もしにます」
ドラマみたいだなと思った。実際は、新聞の隅っこに書かれるかどうかも怪しい内容だけど。足を寄せたら半端に脱がされた下着とジーンズが引っかかって、ようやくコンクリートに触れた太ももがバカみたいに冷えていることに気がつく。さっきまであんなに暑かったのに。
――嗚呼、死ね。疾く死んでしまえ。
貴方が死んだら私も死んであげますから。
なんでこんなに、頭が冷えているのか、わからなかった。指のはらに感じる血管が、それがどくりと脈打つ感覚が、ようやっと私が今ちゃんと生きていて、現実にいるのだと教えてくれる。逆に言えば、それ以外に私の意識を証明してくれるものは何も無かった。
だってなんにも見えないんですもの。なにも口にしていないんですもの。何も、なにも。
「ッ!!!」
――あ、やべ。そう思った。
意識がほんの僅かにそれて、男の首が離れていく。殴られるか、蹴られるか、はたまた殺されるか。男がゴロゴロ床を転がる音がして、多分その人は立った。息は荒かった。私にはよく見えていなかったけれど、多分血走った目をしていたんだろう。
一方私はというと、「殺される前に自分で死にたい」と、なんだか、多分、場違いなことを考えていて。地面をぼぅと見ていたものだから、気づかなかった。
人を殴った時には音がするのだ。
その音は、私の頬から出た音じゃなかったし、ついでに言えば目の前で誰かが地面に突き飛ばされるような音もしていた。私の横で、多分、男が転がっている。
目を何度か瞬きされると、それがやはり男だとわかる。呻き声をあげている。その男に誰かが馬乗りになって、頭を殴り始める。バキ、とか、ドカ、とか、人が殴られる酷い音が暗い倉庫に響いて、私はその人の横顔を、じっと眺めていた。
「依織さん」
ぽつりと呟いても、その人はこちらを向かなかった。私とおんなじ、冷めた顔をしていた。怒っているでも泣いているでもなくて、トンと無表情なのだ。腹を殴られ続けた男が、吐いて、その頭を殴るものだから、男が噎せる。吐瀉物を喉に詰まらせた男は、窒息で呻き声を上げる。頬骨を殴るとバキ、と音がするのだ。男が地面に頭を打ち付けると、ガンと音がするのだ。その音を聞きながら、私はずっと依織さんの横顔を眺めていた。その何も色の無い無表情が、はっきりと、「すきだな」と思って。
男は四肢をビクビクと痙攣させて、やがてその命をすっかり終えてしまった。それに気づいた依織さんは、ピクリと片眉をあげて、ようやく立ち上がって、私の方へ、歩いてきた。からりと、下駄の音がした。
「ナマエちゃん、」
ゆっくりと座り込んだ依織さんは、手繰り寄せるみたいに私を抱きしめた。やわらかく私の体を引き寄せたあと、存在を確かめるみたいに、ぎゅっと抱きしめた。その手は震えてもいなくて、声色もしっかりしていて、でも、その抱きしめ方がなんだかおかしかったから、肩の力が抜けなかった。
「…………」
まるで私が被害者みたいで、依織さんが助けにきたみたいだったけれど、それは違う。多分依織さんは、私がこの男を殺そうとしていたのを見ていただろう。私が男の首を絞めて、振り払われたあと、バックから飛び出たカッターを掴んで、カチカチと刃を出していた事にも気づいていただろう。別にこれは自分で死のうと思っただけで、カッターで殺そうだなんて思っていなかったけれど。その全部を、見ていた筈なんだけれど。
「怪我してへんか」
「…………一度、殴られました」
「……そか。今日は俺ん家泊まり。そんでほっぺ冷やそ」
そっと頭を撫でられる。私はそれでハッと気づいて、今更半端に脱がされたズボンと下着をいそいそと直した。捲られた服も元に戻した。半分ほど剥き出しになったカッターも、しまう。
依織さんはそれを確認して、ゆるりと私の頬を撫でた。それからおでこをトンと額にあてて、猫が擦り寄るみたいに頬ずりされる。ため息みたいに吐き出された息は、心底安心しているみたいな、重たいものだった。
「やっぱ、一人にできへんわ」
――――自分でも、「え?」と思う。
喉がぎゅぅ、ってなった。心臓が一気に締め付けられて、頬がバカみたいに熱くなった。今までシンと静まり返っていた自分の内側が、バクバクと脈打つのだ。目頭が熱くなるのだ。息が苦しくなるのだ。
あ、、――――生きてる。
私は生きてる。生きてる。生きている。
いきて、いるのだ。
名残を惜しむように依織さんが離れていって、「ちょっと待っとってな」と言うと、携帯を取り出して、私から少し離れたところで電話を始めた。相手はどうせ警察じゃない。だって隣に、死体があるんですもの。
私は心臓の高鳴りが抑えきれないまんま、既に事切れた男の体を見た。吐瀉物と、吐血した後と、唾液でグチャグチャになっていたけれど、その肌の色はまだ健康的な色だった。こんな出来たばかりの死体を見たのははじめてだった。
「(びっくり、した)」
ほぅと息を吐けば、まだその二酸化炭素が熱い気がした。胸に手を当てれば、まだ早鐘を打っている。
下着の捻れは、もうまったく、気にならなかった。
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