memo


追記より、イズナ連載のおまけです。本編後の内容です。

▽▽▽

川など久しく見ていなかったものだから、小さい海なのか、はたまた大きな池なのか、そんな馬鹿げたことを私は思う。
恐らく流れはあるのだが、どちらに流れているのか判然としない。茫漠と霞む河岸に佇み、幻のような向こう岸に目を凝らす。絶え間なく水が引いては寄せている所を見ると、矢張りこれは海なのだろう、などと思い至った。足元には迫る水があり、白けた小石ばかりの荒くれに艶やかな彼岸花が一面咲いている。咲き溢れる花は岸だけでは満足出来ないと見え、川の底まで我が物顔で押し寄せる。美しいと言えば美しいが、なんだか乱暴な光景である。遠慮というものがない。
ぎいぎいと軋む音と共に何処からともなく一艘の小舟が現れる。近付く気配に全く気付かなかったので、一層胡乱な心地がした。
舟には舟人が一人乗っている。深い編笠を被った顔の些細は伺えない。声も若いのか老いているのか、男なのか女なのかも分からなかった。

「どうぞ」
「行き先はどこまで?」
「勿論、向こう岸へ」

ざぶん、と寄せる波に従って舟が着く。花が折れてしまいそうだ、と私は思った。野分に惑う様に押し流される紅の群れを眺めながら言葉を継ぐ。

「行かなければ、どうなるのでしょう」
「さあ……。渡せない者はいても、渡らない者は滅多にいないから」
「そうですか」

舟から降りた船頭が歩み寄る。もう一歩のところで足を止めたので、私はつられて顔を上げた。

「大人になってマシになったと思っていたけど。相変わらず泣き虫だね、イズナ」
「……うるさいな。阿呆の姉さんに言われたくない」

手を伸ばし、しっとりと濡れた頬に掌を這わせる。編笠から覗く顔は私と瓜二つの泣き顔だった。
その眼窩は虚なのだから何処から生じた涙なのか不可思議ではあるが、きっとそういう事もあるだろう。なにしろ弟は酷い泣き虫だったのだから。

「迎えに来てくれたのかな。それとも、ずっと待ってた?」
「そう長くもなかったよ」
「ごめんね、随分待たせちゃった。でも向こうには行けないよ。私はまだ此処にいるから、一人でちゃんと帰れるね」
「どうして?」

本当に子供のように問いかけるものだから、私は一瞬言葉を詰まらせる。

「……此処は賽の河原でしょ。仮にも坊主だったからお地蔵様の真似でもしようかと思ってね」
「死んでまで他人の世話はしなくていいだろ。とんだ物好きだな」

まるで遠慮が無い。思わず肩を竦めた。

「……うん、そうだね、これもただの言い訳だ。本当は行かない方が楽だからかな」
「行きたくないなら、このまま海にでも流れていこうか」
「着いてきてくれるの?」
「そりゃあ一応は渡し守だから。まあ、俺と一緒で嫌じゃなければだけどね」

そんな訳ない、と勢い言いかけたが、思えば確かにそうだったかもしれない。だが、もう随分と朧げだ。身勝手な私は憎悪や嫉妬などはとっくに捨ててしまい、ただ後悔ばかりを後生大事に抱え続けていた。
完結すべきだった美しい物語に稚拙な続編を書き散らしては悦に浸る。偏に、弟の名が一族の誇りとして幾千代までも語り継がれてほしいという願いからだったが、思えばなんと傲慢だったことだろう。
一生の充実は長さだけでは測れず、その密度である。他でもない弟にとっては燃え盛るように生き抜いた日々だったのだと今では思える。イズナなりの誇らしい最期だった。その生き様を汚されたと責め苛まれて然るべきだろう。

「イズナの方こそ怒ってるでしょ」
「俺は別に。先に兄さんから色々聞いたけど、本当しょうがないなあって思っただけ」
「そっか、やっぱり優しいね」
「そうでもない。諦めが悪いだけさ」

撫でていた手を握り込み、イズナは頬を擦り寄せる。私は眉を下げて見つめていた。

「少し安心した。本当はね、また虐められるのかなって思ってたよ」
「なあに、もしかして期待してた? お望みなら一等酷く仕置きしてやってもいいよ。姉さんは良い趣味だからなあ」
「……どうだろう、叱ってほしいってずっと思ってたかもしれない」

揶揄うような素振りだったが、私は少し居た堪れなくなった。確かにそれを望んでいたのだから。責めてくれる方が楽だった、自分が可愛い私はいっそ楽になってしまいたかった。

合わせる顔なんて無い筈なのに、もう一度会いたいと嘆いた夜は何度あっただろう。寂しいと言う資格などない筈なのに。清々したと笑ったのは誰だったのか、そう考えれば可笑しな話だ。舌の根が乾かぬうちにとはよく言うが、乾き切ったところで平気な顔で翻していい訳では無いだろう。まったく、つくづく勝手である。

「ご、めんっ……、ごめんね、イズナ」

何千回、何万回と届かずに消えたのだろうか。最早それすら分からない言葉を私は持て余す。どんな言葉よりも言い慣れている筈なのに、肝心な時に詰まってしまうのは矢張り出来損ないだからなのかと呆れたものだ。謝罪一つすら満足に言えずにいるのだから、本当にどうしようもない。

あたたかな掌が宥めるように背中を撫でてくれていた。脆い輪郭をなぞるように、何度も何度も優しく。あの頃とはすっかり逆だ。余りにおっかなびっくり触れるものだから、全くらしくなくて笑いそうになってしまう。細い肩へ項垂れると、酷く繊細に抱き寄せられた。漸く許しを得たとばかりに、私もその背に手を回す。

こんなにも近くにいるのに、互いに触れ合うことを恐れているようだった。
知らないうちに随分と臆病になったものだ、弟も、私も。いや、もしかするとずっとそうだったのかもしれない。自分勝手な私達は本心を表せずに騙し合っていたのだから。その所為で酷く傷付けて、同時に傷付いてしまったのだ。

「謝るのは俺の方だ。ごめん、生きている時も、死んでからもずっと苦しめただろう。もう会いに来ない方がいいのは分かってたけど、……やっぱり諦められなかったんだ」
「……珍しいね、そんなに素直だなんて。死ぬとつむじ曲がりも治るのかな?」
「茶化すなよ。そりゃあこれだけ待てばね」
「うん、……でも、イズナが謝る必要なんて無いんだよ。悪いのは全部私なんだから」
「そんな事ないって言っても、今更どうせ聞きやしないよな」

そうやって呆れたように言う口振りが、狂おしく懐かしい。どうしてなのだろう、イズナの声を聞いていると眠くなる。思えば、子供の頃に身を寄せ合って眠った時もそうだっただろうか。陽だまりの手を握りながら、目を閉じるとすぐに夢の底へと落ちてしまう。私はそれをずっと忘れていた。否、どうにか忘れてしまいたくて、決して届かぬ記憶の深淵へと押し込めたのだ。

先立って乗ったイズナに手を引かれて小舟に乗り込んだ途端、粗末なそれは大袈裟に揺れる。薄い板一枚挟んで水の気配というのはどうにも頼りない。私はそこはかとなく不安に思い、繋いだ手が離せなかった。渡し守は流石に心得たもので、何も言わずに澄ましている。
小舟は櫂を繰らずとも岸から離れ、行く流れに従って当て所もなく川を下り出す。下っているかと思えば流れは逆巻いている時もあり、何とも出鱈目である。そんな事は意にも介さず、行方も知れない舟は行く。
いつの間にか、彼の岸も此の岸も何も見えなくなっていた。川の底はいよいよ深い。私は川面を覗き込みながら思い付いたままに言った。

「此処から身を投げたら、また一緒に生まれるのかな」
「三途の川で心中ごっこか、悪くないね。ただもう死んでるからなあ……。単に消えるだけかもよ。
どうする?気になるなら試してみてもいい」
「……そうだね、二人で消えられるならそれがいいな。でも、それでも生まれ変わって他人になれたら、今度こそちゃんと向き合えると思うんだ」

示し合わせたように、繋いだ手の指を互いに絡めていく。空いた手で頭を引かれ、そのまま額を寄せ合った。ぴたりと包み込む腕が私達だけの暗闇を作り出す。鼻先が擽ったい。長い睫毛が目蓋に触れてしまいそうだ。遠い昔に兄弟で隠れ鬼をしていた時みたく、そうっと内緒話でもするように息を潜めて弟が問う。

「姉さん、最期に一つ聞かせてくれ」
「なに?」
「俺の事どう思ってた?」

私は一瞬言葉を詰まらせ、視線を辿らせる。空いた右手がちょうど脇腹に触れられる位置だった。もうとっくに塞がっている筈なのに、私はそこに触れることを躊躇してしまう。それに気付いたのか、大丈夫だとイズナが細く笑った。痛くはないのか、と私が問うと、姉さんの方が余程痛かったろう、と弟は言う。
果たしてそうだっただろうか、もう忘れてしまったよ。私はゆっくりと指先でなぞり、そのまま抱えるように手を回して深く息を吐いた。嗚呼、これで気丈夫だ。欠いていたものがやっと見つかったように安らかである。

「本当はね、ずっと妬ましかったし憎んでいた。……でも、それでも誰よりも大切だったよ。可愛い弟、私の半身だもの」
「……酷いな。例え嘘でも、愛してるとは言ってくれないんだ」
「うん、それは難しいかな」

――だって、私は嘘吐きだから。その言葉は泡に紛れて消えていく。後には細かな泡の声しかもう聞こえない。
行き着く先は冷たい水底だと思っていたのに、何故か泣きたくなるほどにあたたかい。二人で揺蕩う水はまるで羊水の海のようだった。
繋いだ手を離さないように。そうすれば、またどこかで会えるのだろうか。
きっと他人に生まれ変わってしまったなら、私になんてちっとも興味を持ってくれないだろうけど。
だが、それでもいい。
否、叶うならばそれがいい。私が知らない何処かで生まれ、今度こそ幸せに生きてくれれば。
私の事など、どうかどうか忘れてほしい。

そっと持ち上げた睫毛の隙間からは、遠い水面が煌めいて見えた。まるで壺中で天を仰ぐようでもあり、蠱毒の泥中に溺れるようでもある。周りには宵の空のような透明な闇。

私は大きく息を吸い込み、そしてまた呱々の声を上げた。


―――――――

この話を最終話しようかどうか無茶苦茶悩んで止めたんですが、如何でしたでしょうか……。
双方大分救われてしまうのでうーーーーーーん!と悩みながら、男女双子なのでどうしても心中させたかったのでオマケとして載せるという卑劣な手段でごめんなさい。貧乏性とも言いますね。


2021/02/10
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