極彩色の箱庭

気が付けば日はとうに傾きかけ、辺りは夕闇の薄膜が降りつつあった。茫漠と滲み出す墨染の景色に、しまったと眉を顰める。夜目が利くから道には迷うまいが、夜半の山は矢張り畏ろしいものである。流石に日暮れまでには帰るつもりだったが、随分と長居をしてしまっていたようだ。

里に帰らねば、そう思いながら草を踏む。辺りはとても静かである。野に惑う跫より他は鳥の声すら無い窮山幽谷。鼓膜の奥深くが疼くような沈黙が渦巻いている。
そんな静寂へ水を差す己の前に、不意に一軒の屋敷が現れた。御殿という言葉が相応しい門構は山奥に似合わぬ荘厳さであり、何処ぞのゆかしい貴族の住まいかとも思わせる風情である。さては、御伽噺などに良く現れる隠れ里か、などと大の大人がそんな事を考えている。勿論そんな事はあるまいが、甚だ異様であることには変わりない。
――こんな山の奥は、人が居ていい場所ではない。居る筈がない。
ならば何故、とも訝しく思うが、思考する事も億劫なほどに疲れていた。見れば、ほんのりと灯りが燈っている。誰か住む者はいるらしい。戸口を叩き声を張り上げると、中から一人の女が顔を出した。

「すまない、日が暮れてしまって難儀している。今日一日軒でも貸してもらえないか」
「まあ、それはお気の毒に。大したおもてなしも出来ませんが、どうぞお入りください」
「悪いな、助かる」

出迎えたのはこの屋敷の女主人であろうか、自分よりも年若いそれはそれは綺麗な娘だった。胡粉を丁寧に塗り込めたような白い膚に、ふっくらと艶めく赤い唇。半月型の大きな目の虹彩はしっとりと濡れている。その人は梅の花が描かれた鶯色の小紋を着付けていた。随分と派手な着物である。矢張り、凡そ山奥に似つかわしくない風貌だ。
その所為か、会った事も勿論無い筈のその女が誰かの面差しに似ている気がした。確かに似た人を知っているのだが、誰に似ているか思い出せぬ。単なる気の所為だろうか。色々と見知った顔を辿るが、成る程これだという顔が上手い具合に浮かんでこない。澄んだ声は先程まで聞いていた季節外れの経読鳥の声をも思わせた。まさか鳥に似ているわけでもあるまいが。

「旅の方でいらっしゃいますか?」
「いや、山向こうのうちは一族の者だが」
「忍の方でございましたか、こんな山奥まで修行か何かで」
「これといった事は無かったんだがな。情けない話だが、鶯の声を追っているうちに何時の間にか迷ってしまったようだ」
「あら、中々風流でいらっしゃること」
「顔に似合わねぇとよく言われる。弟が好きだったんだ」

塵一つなく磨き上げられた水鏡のような廊下を渡り、幾つもの襖を越えていく。それにしても長い廊下だ。座敷も一つや二つではない。その辺の大名の屋敷より果たして大きいくらいだが、他に誰か居ないのだろうか。屋敷の中は、山中よりも静まり返っている。遠い奥に何か底知れない空洞があって、そこに全ての音が吸い込まれていくかのようだ。

「随分と広い屋敷だが、一人なのか?」
「いいえ、他にも何人かおりますよ」
「にしては、随分と静かだな」
「こんな山奥ですからね、辺りが静かな所為でしょう」

そう言って、女がほのかに微笑を零す。そのまま不意に立ち止まり、此方です、と襖を開けた。女に続いて内へと入る。

「どうせ使っていない部屋ですから、お好きに使ってくださいね」
「……いいのか、こんな立派な部屋」
「ええ、どうぞお寛ぎください」

通された座敷に腰を落ち着け、ぐるりと見回す。広い。襖には水墨画が描かれてあり、幽玄とした良い部屋である。ほっそりと天へと枝葉を伸ばす薄墨の木は梅の花だろうか。行灯の灯りが心地よく、やわらかな淡い影を落としている。床の間に置かれているのは印香らしく、空薫香炉からは伽羅の香りが漂っていた。山中異界とはまさにこの事。さては本当に隠れ里にでも迷い込んだか。これは浄土だ、と柄にも無く褒めちぎる。女は笑う。

「夢みてぇな所だな……」
「そうまで言って頂けると嬉しゅう御座いますわ。さて、お腹も空いておいででしょう。何か持って参りますね」
「すまない、何から何まで恩に着る」
「大したものでは御座いませんのよ。そうそう……」

部屋から出て行こうとした女が、思い出したというように振り返る。緑の袖がくるりと廻った。

「お待ちになっている間、退屈でしたら座敷で遊んでいらしては如何でしょう。此処には十三の座敷があります。きっと、どれも気に入られると思いますよ」
「ほう……。なら折角だ、見させてもらうか」
「けれど、一つ約束してください」
「なんだ?」

虹彩の大きな真っ黒の目が此方を真直ぐに見据えている。温度さえも感じさせない、吸い込まれそうな程深い色を湛えたその瞳に、呆然と見惚れた。ゆるりと唇を開けた女が続ける。

「十三番目の座敷だけは、決して見ないでください」
「……何故だ?」
「理由は言えません。ですが、最後の座敷には決して入ってはいけませんよ」
「嗚呼、分かった」

女の強い、それでいて縋るような声に気押しされ、二つ返事で答えていた。元は宿を請い、飯まで振舞おうとされている身分である。流石の自分もそこまで図々しくは無い。女の自室があるのやもしれないし、見ず知らずの男に見られたくないものなど当たり前のようにあるだろう。

それにしても妙な話だ。大体何だってこんな辺鄙な所に住んでいるのか。狐に摘まれてでもいるかもしらん。ぼわぼわと疑念が鎌首をもたげるが、まあ宜しいと切って捨てる。人が居るはずもない山奥だ、化かされるのも一興であろう。

暫くは疲れもあって、半端に開いた障子から茫洋と外を眺めていた。広い庭だ。外は中庭になっているらしく、何本かの木が花盛りを迎えているのが見て取れた。梅だろうか、そう思いながらも今は立秋の頃。寒さに身を竦ませながらも気高く咲くあの花が、今の季節に咲いている訳もない。己の知らぬ、何か似た花なのだろう。
次第にとろりと眠気が湧いてきて、白河夜船で昔の夢なんぞを見ようとしている。うつらうつらと舟を漕ぐ。ゆるりと視線を戻し、襖に描かれた黒白の花をもう一度見つめた。襖の向こうは十三座敷か。

「さて……」

結局は先程までいた座敷を抜け出し、女に勧められた通りに座敷巡りへと洒落込んだ。廊下に出ると、改めてこの屋敷の大きさに仰天する。果てが見えない。右手には燭台と障子が途方も無く続き、左手には十三の襖が並んである。一番手前の左側の襖には墨痕鮮やかに『一』と書かれてある。此処から見て行くのが尋常であろう。その襖をからりと開けた。

襖の向こうは正月の景色だった。床の間には松竹梅、鏡餅、海老や昆布、橙などの縁起物が行儀良く飾ってあり、初春の賑々しい気が感じられる。色鮮やかなとりどりの餅花が美しい。朱塗りの膳に置かれた杯には、透き通った御神酒がなみなみと注がれていた。芳しい匂いがするのはこの所為だろう。
見事な正月飾りだと感心などしている。今は彼岸過ぎだから妙といえば妙なものだが、全く暢気なものである。十三座敷といっていたが、一年十二ヶ月を一部屋ごとに飾り付けでもしているのだろうか。そうも思うが、それでは最後の座敷が勘定に合わない。つらつらと胡乱なことを考えている最中、不意に誰かが近づく音がした。つられて其方を振り返る。

「遅かったね、兄さん」

懐かしい聲が、呼び掛けていた。瞳孔が大きく開く。背筋が張り詰めた。震える目蓋。戦慄く唇は吐息すら吐き出せず、ただ引き攣っている。何度も泣き叫んだその名前を、この舌は覚えている。
嗚呼何故、どうしてお前が。なんで、

振り返った先には、死んだ弟が立っていた。

「イズナ、……」
「どうかしたの? 幽霊でも見た顔して」
「お前、なんで」
「なんでって、なんでも何もないだろ」

事も無げに弟が言う。冗談も大概に、そう言いたげな呆れ顔だ。

「ほら突っ立ってないで、今日ぐらい酒でも呑もう」
「……そうか、そうだな」

俯きながら歩み寄る肩は強張りが緩んでいた。夢だろうと幻だろうと何だって良い。イズナが、死んだ弟がそこにいる。それだけは事実なのだ。ならば上等である。それ以上の思索は無粋であろう。此処は浄土だ。幸せな、夢なのだ。

「お前と呑むのは、随分と久々だからな」
「折角だから奮発して買ってきたんだ。これ上手い酒なんだよ」
「嗚呼そうか、そうか……」

弟が旨そうに酒を飲んでいるものだから、自分も嬉しくなって飲んでいる。確かに旨い。これは上品であろう。酔いが回れば、死んだ弟がここにいる奇矯も如何でもよくなってしまう。暫くそうして酒を呑み交わしていると、またうつらうつらと舟を漕ぐ。見兼ねた弟が、兄さん初午の祭りには行ったのか、と問う。いいや、と答えた。初午の祭りなんて久しく行っていないが、あれは二月の祭りだったか。

「行っておいでよ、兄さんの好きな稲荷もある」
「まあそうだが、稲荷は本来供えるものだろ。大体お前は、餓鬼の頃から仏壇の供え物はいつも食べ散らかして……」
「それはそれ、これはこれ」

絡み酒の酔漢をいなす体である。甚だ遺憾である。憮然としていると、気晴らしに好物の稲荷が食いたくなってきた。最早憂さ晴らしではあるまいか。我ながら随分と間が抜けていると思いつつ、それならば行ってくる、とイズナに告げる。それは良い、と気安く笑う。さて、二月へはどう行ったものか。

いざ弟を残していく事に後ろ髪を引かれつつ、振り返り振り返り『一』の間を後にした。女々しい事この上ない。廊下に出ると、今度は『二』と書かれた襖がある。さては本当に一ヶ月ごとに季節が巡る座敷であるのか。どうとでもなれと、またぞろ襖を開けていく。


襖の向こうは二月の景色だった。初午の祭らしく、立ち並ぶ稲荷鳥居のすぐ傍で五色の旗が翻っている。朱色に色とりどりの五色が、なんとも艶やかな色彩である。呆けたように見惚れていると、わあ、と歓声が上がる。騒ぐ方を見返れば、今まさに鈴かけ馬が引かれてやってきたようだった。ちいりんちりんと鈴の音。鉦や太鼓、三味線に合わせて馬が踊る。首に鈴をかけ、花や五色の布、米俵などで飾りつけた鞍は華やかだ。重くは無いのだろうか、と幼い自分はいつも不安げである。そんな思いなどどこ吹く風と沢山の人が囃している。

「マダラ、そんなところに居たのか」

ごつ、と鈍い音と共に脳天が揺れる、これもまた懐かしい感覚。懐かしくはあるが、それでも痛い。酷薄である。追懐より先に臍が曲がる。

「イズナが探して泣くだろう、あまり一人歩きするんじゃない」
「……ごめん、父上」

素直に謝り、先を歩く父の背を追う。この齢にもなり、父に叱られ連れられて歩くなど酷く恥ずかしい。だが、自分はまだ子どもなのだからいいのだとも思う。そうすると少々気も楽であった。時折振り返り歩く父の背が、とても高い。父が死んだ頃の、幼かった餓鬼の頃に戻っているのだ。

夜店が沢山出ていてとても綺麗だ。玩具や金魚掬いの店先をじろじろと眺めている。子どもなのだからそうしていても心安い。金魚売の聲が賑やかだ。そういえば、子どもの時分は、夜店の馬鹿馬鹿しく色鮮やかな玩具を眺めるのが一等好きだったのだ。狐の張子、風車、新粉細工に錦飴。くるりくるりと廻る回り灯籠を見ているようだ。随分と楽しい心地である。

「何か欲しいのか」
「いや、俺はいいからイズナになんか買ってやってくれ」
「お前らしい」

良い兄に育ったな、と父が言う。褒められて嬉しい心地である。傍にあった稲荷寿司の夜店を見つけ、父が一包み買ってくれた。それはお前が全て食べてよい、と許しが出る。落としたら大変だから、後生大事に抱えている。
夜店の道はまだまだ続く。千本の稲荷鳥居もぞろぞろ続く。歩き疲れたのか次第に模糊とした眠気が襲って来る。幼い足は心許ない。苦笑いする父が負ぶってくれるが、稲荷はしかと握っている。父が笑ったのか、微かな振動が伝わった。

「そういえば、上巳の節句は行ったのか?」
「上巳って、三月の桃のか? うちは男所帯だから関係ねェだろ」
「そう言うな、あれはあれで華やかで良いものだ」
「そういうもんか」
「そういうものだ」

分かった、じゃあもう行く、とすんなり言う。了とした、と頷く父の背中から離れ、また舞い戻るのは件の廊下である。さて、三月には誰がいるのだろう、といささか浮ついた心持。慣れたものだと襖を開ける。どんどん、どんどん開けていく。

『三』の間は、父が言った通りにひいなあそび。女雛に男雛、五人囃子、そして色々な遊び道具が並んでいる。雛あられや菱餅が愛らしく、十二単は絢爛である。右大臣、左大臣などは既に無礼講らしくふらふらとしている。三人官女がくるくるとそこらじゅうを走っている。なるほど、桃の節句も乙なものだと感心する。鼻腔を仄かに誘惑するのは、漆の片口を満たす白酒か。
『四』の間は灌仏会。ちいさな釈迦が花御堂の中に立っておられたので、竹の柄杓で甘茶をかけてみる。小堂を飾る花々が、はらりはらりと落ちていた。
『五』の間は端午の節句、
『六』の間は夏越の祓、
『七』の間は七夕、
『八』は盆の灯篭流し、
『九』は菊の節句、
『十』は十三夜、
『十一』は夷講。『十二』の間は早いものでもう師走であり、正月の準備や注連縄飾りに忙しい。障子の外では雪片までがちらついている始末である。

そして襖の向こうでは、それぞれに懐かしい人が四季の中で迎えてくれた。雛あられを分けてくれたのは、気を病んで自刃しまった美しいままの母だ。甘茶を一緒になってかけるのは、右手の薬指しか帰ってはこなかった、戦で死んだ二番目の弟だ。
万華鏡の眸を委ねた親友が。共に背中を預けて戦った戦友が。昔語りを聞かせてくれた優しい祖母が。もう出会うことのできない沢山の彼岸の人々が、美しい座敷の内で生きていた。襖の向こうの浄土では、疑いようも無く生きていた。

師走の景色を襖の奥に閉じ込める。ほうと息を吐く。『十二』の座敷を出たところで、残っているのは『十三』の間ひとつきりである。廊下は変わらず黙然としている。蝋燭はちろちろと密やかに。音も無く蝋の雫を流し続けている。女主人が夕餉を持ってくる気配も無い。自分ひとりが薄い襖に寄りかかり、茫洋と虚空ばかりを見詰めている。

ふと、十三番目の襖の向こうが気に掛かった。

眼球だけを動かして、隣に控える襖を見遣る。『十三』と書かれた、見慣れた十二枚と代わり映えの無い襖である。見るなと言われた最後の座敷。見てはいけない、入ってはいけない。十二番目で一年は終わってしまっている。きっとその先は、見てはいけない。知ってはいけないものなのだ。
見てしまっては、――

目蓋の裏に、緑の小袖を着た女の影が揺れていた。春先に死んでしまった、愛しい女の後姿である。あの向こうなら、居るかもしれない。会えるかもしれない。移ろい巡る四季の中で、もう一度彼女に会えるかも知れない。ずっと自分を待っているのではなかろうか。その襖の向こうは、浄土である。彼岸の果てが口蓋を広げて待っている。
引手に手を掛ける。その襖をからりと開けた。


つい先程まで、誰かがそこに居たような。そのような胡乱な心地。苔生した地面には、一本の古木がひっそりと立っている。花も何も飾り気のない枝先には一羽の鶯が止まっていた。
その鶯も一声上げると何処かへ飛んで行ってしまったので。ただ梅の古木だけが植わっているばかりである。

「だから開けてはならないと、」

――マダラ様。鼓膜の奥で聞こえた声に振り返る。振り向いた先はただ深い森が続いている。無限の襖も蝋燭も、件の屋敷は跡形もなく消えていた。誰もいない深い深い山奥で、ただ一人立ち尽くしている。
後にはもう、誰も居ない。

「なまえ」

浄土の向こうに描いた女の名前が滑り落ちた。そうして女主人が誰に似ていたのかも、ほぼ全て分かった。


(2014/11/09)


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