帰り花

雨の降り頻る音が鼓膜に染み付いている。それでも、腹の底が冷えるような、酷く静かな宵である。雨の音が止まない所為か、却って静けさが際立っているようにも思えた。
薄明かりに茫漠と滲む雨の雫に目を凝らす。降り出したのは朝方からだったが、止む気配は微塵も無い。さやさやと降り続いている氷雨は名残の紅葉を全て散らすのだろう。地に落ち、濡れては朽ちていく紅を思えば、どこか侘しい気が去来する。

目蓋に張り付いた艶やかな赤を思いながら、手中の小箱に目を落とした。蓋との境は和紙で厳かに封がなされており、真ん中が朱色の紐で括られた木箱である。紐の赤は魔除けの赤だろうか、濡れ紅葉のようにしっとりと赤い。
幽かに手中で傾ければ、ことりと乾いた音が零れ落ちた。
――脆い音よ。
その音に、骨壷に入った白々とした骨を思う。勿論骨などではない筈だ。この匣の中には、一欠片の古木が入っている。ただそれも伝え聞いているだけで、真実古木であるかも分からない。見るまでは、己が確かめるまでは古木は骨であるかもしれないのだ。

ぼうぼうと脳裏に広がる詰らぬ迷妄を振り払う。さっさと済ませてしまうがよい。燃す香炉も用意した。さて、と。封印を解こうとした指先がふと止まり、鼓膜の奥深くで揺れる記憶に耳を澄ませた。言の葉が唇より滑り落ちる。

「浄土か、地獄か」

これを買い受けた際に言われた言葉である。使うのは止めないが、それは浄土とは限らない。――浄土か地獄か、決めるのは己である、と。
えらく仰々しい言葉だと鼻で笑った。もちろん、戯れで買いはしたが信じて求めた訳ではなかった。ただの気休めだ。世迷いだとは分かっているのだ。
手中にある小箱に入るのはただの古木でも香でもない。そして、ただの古木で香でもある。

反魂香、焚けば死者にまみえると云う極楽の香木。一体誰がそんな与太話を信じるだろうか。馴染みの薬屋が世にも稀な珍品が入ったと言うものだから見てみれば、昔何かの書物で読んだそれだった。下らぬと一笑すればそれまでだったのだが、何故か紅い紐が気に掛かった。――とても、美しかったものだから。結局は安くも無い金を払い、それを買い取ってしまっていた。
掌に収まる小箱は余分な水分を全て捨ててきたように乾いており、かさかさと干乾びた何かの屍のようだった。その時思わずそうしたように、今も指先で撫でている。乾き切っていた表面は、雨の湿気を含んだか幾分かしっとりと潤っている。皮膚のようだ。指の腹に触れる感触が、体温の無い表皮を思わせる。――悪趣味な。
己の想像の気色の悪さに、うなじの毛が逆立つ心地。愚かしいことだ。決心していささか乱暴に封を切り、指に絡みついた紐を投げ捨てた。薄闇に浸かりぐったりと横たわる様には、鮮やかな紅も黒ずんで痛んで見える。あんなに綺麗だったというに。そして和紙の封印も床へと散らし、ようやく蓋を外す。中には、矢張り貧相な古木の切れ端が入っているだけだった。怯えた様に蹲る、乾いた小動物の遺骸のようだ。

そろりと指で摘み上げ、香炉に落とし火を燈す。すうっと細い筋を描いて白い煙が立ち上り、揺らいでは散っていった。くゆる煙をただ見詰める。薄墨で書き散らかしたような半透明の煙が不明瞭に視界を遮る。息を吐けば、薄紗の煙が翻る。――思いの外、白が濃い。煙とはこのようなものだったか、といささか訝った。濃いとはいえ、所詮は煙の白であるから透けている。そうだ、あの女の膚に似ているのだ。死んだ女のうなじの様に、眩々と白い。

「――なまえ」

知らず知らずの内に、その女の名前を呟いていた。先の夏に病で死んだ女の名だ。
病がちで色の白い、儚い人だった。ふとした風邪から肺を悪くして、呆気なく死んでしまった。
とても、綺麗な骸だった。つい今し方、ふと横になっただけのような。淡い夢を見ながら眠っているような、そんな死体だった。戦で屍など数え切れぬ程に見慣れている。見慣れているからこその、どこか据わりの悪い違和感だった。皆一様に血を吐き、臓物を散らし、苦悶の表情で死んでいった。虚ろな目で茫漠と空を睨む死屍達は皆が潰れた柘榴のようだ。なまえの死体は、そんな姿とはあまりに違い過ぎていた。精巧な抜け殻のように美しかったものだから、未だに死んだと思えずにいる。――とっくに、死んでしまった人なのに。

どうして死んでしまったのだろう。
死んだようには見えなかった。彼女は果たして真実死んでいたのだろうか。
なまえ。
抜けるように。底にある白が透けているかのように白くって。刻々とその細胞が腐敗して崩れているようにはとても思えなかった。
あんなに、綺麗なままだったのに。
死んだ人の皮膚だのに。

香の薫りが満ちていく。芳しきものかと問われればそうでなく、然りとて不快な臭いな訳でない。脳髄の芯が痺れるように甘い香りとも思えたし、雨に馴染む静けさは抹香か何かのようでもあった。抹香は死臭を消すために焚かれるのだという。仏に上げる線香は死人の香りだ。
嗚呼、この匂いは覚えがある。
饐えた臭い。
ぐずぐずに熟れた果実が放つ甘い腐臭のような。
人が焼ける時の、爆ぜる皮膚や焦げる髪から生まれる臭いだ。

この匂いが、浄土とも地獄ともつかぬと嘯いた所以だろうか。そう思い、いつの間にか留めていた息を細く吐く。信じていた訳では無かった。――それでも期待していなかったといえば嘘になろう。一目でいい、もう一度その姿を網膜に焼き付けておきたかった。
仄暗い夕暮れの陰に包まれてなお、それ自体が淡く発光しているような。
細く、透き通って。漂うように、ただ儚い。
目の前にある顔と、変わらぬままで。死んでも美しいままの。

「なまえ」

目の前に、死んだ女の顔があった。何だかそんな気もしていたので、さして驚きもしなかった。ゆらりと霞む煙の彼方に浮かぶように、捉えどころ無く此方をただ見返している。これが幽霊というものなのだろうか。霊といえばそれらしい姿であったが、別段恐ろしくも無い。ただ透明な半紙のように朧げだった。死んでいるのだから道理だろう。
それでも、何だか嬉しかったので。無性に嬉しくて、手を伸ばした。その頬に触れようと。

「ああ――」

するり、と。伸ばした指先は空を掻いた。なまえの顔は真ん中から揺らいで崩れていった。呆気無く霧散した煙を呆然と見詰める。見る間にまた、するすると立ち上る煙の中に彼女の顔が現れた。――ああ、よかった。そう胸を撫で下ろす。

「久しいな」
「……」
「なんだ、何か言えんのか」

ただ押し黙り、此方を見返しているだけのその顔に不安になる。話そうという素振りもなく、寧ろ聞こえてすらいないようだった。思わず語気を荒げ名前を叫ぶ。その唇は震えない。何処を眺めているとも知れぬ淡い目付きで、瞳の焦点は暈けている。動作といえば、酷くゆっくりと瞬きを繰り返す他は無い。

ああ、生きている。

似絵ではなく、なまえの顔そのものだった。
それでも話さない。
目も合わない。
触れる事さえ叶わない。
残酷なほどに生きた顔で、此方を見返しているというのに。

荒げた息の所為で香が肺に充満する。吐き気を催すほどに甘き香りだ。腐り堕ちる饐えた腐臭。
――なにが、何が浄土だ。何が魂を返す香だ。愚弄しおって。これでは、これは。
ただの、地獄ではないか。

振り払った勢いで香炉が倒れる。ごとり。揺蕩うように漂っていた煙が拡散する。ああ、いってしまう。真っ黒に焼けた骨のような焦げた香木が床に転がる。どうしようもないと分かっていながら、手を伸ばした。指先で彼女の顔が逃げていく。
止めろ、行くな。もう、おいていくな。
嗚呼、ああ――いやだ。いやだ。
ふわり、と。己が荼毘に伏した女が逃げていく。骨から上がった煙がまた逃げる。するする、と。悲しげな、生きているような顔で此方を見返している。儚げななまえの顔はつうと天へと登っていき、霞んで揺らいでいきながら、消えた。残り香さえ残さずに、夢のように消えていった。
――嗚呼、外では雨が酷いようだ。打ち付ける雨音に、ようよう息を吐く。白河夜船で悪い夢でも見ていたようだ。所詮叶わぬ望みとは、分かっていたものを。

それでも何故だか、酷く彼女に逢いたくなってしまった。
堪らなく、逢いたくなった。

「とっくに、死んでいるのにな」


その日を境に、千手扉間は何かを見失った。
とある禁術を開発する五年ほど前のことである。


(2017/09/20)


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