花露を啜る

ぱちり、と目を開ける。行燈の揺らめく気配がする。夜明け前なのだろう、障子の外はまんじりともしない闇に覆われ、灯りを付けていても酷く暗い。草木も深い眠りにつき、灯心が燃える囁きさえも五月蠅いくらいである。
じり、と行燈の影が揺らいだ。
いつの間にか、目の前には艶やかな女が一人座っている。
見覚えの無い女である。緑の黒髪を垂髪に流し、微笑む唇は嫣然と赤い。赤に蘇芳を重ねた古風な着物を着付けていた。
はて一体誰だろうか、と芯がぼやけた頭で考える。

「暇乞いに参りました」

女は深々と礼をする。これまた艶やかな声でそう告げるが、暇乞いと言われても覚えがない。屋敷に入れている女中でもなければ、馴染みの遊女でもないのだ。女癖の悪さから過去に手を付けた一人だろうかと当たりを付けるが、一向に思い当たる節が無かった。だが、不思議と何処かで会った事のあるような、底知れない郷愁を覚える女である。

それよりも気になることがある。
そも、どうやって此処に入ってきたのか。仮にもうちはが頭領の寝所である。並みの忍であれば気配で気付かぬ己ではない。
色々と考えあぐねている内、――嗚呼これは夢か、と思い至った。

「俺はお前を知らん。暇を乞う相手は合っているのか」
「勿論にございます。マダラ様には、ほんにようして頂き」

だから知らんのだが、と心の内で零すが、夢なのであまり真面目に取り合うことも無いだろう。余興としては面白い。興が乗り、我ながら酔狂であると思いながら、もう少し付き合う事にした。

「一向に覚えがないが」
「気味が悪いと蔑むこともなさらず、美しいと褒めて下さいましたでしょう。愛でて頂いて、嬉しゅうございました」
「ほう」

口数が多い方ではない自分が、果たしてそんな事を言うだろうか。いよいよ人違いだろうと思えるが、女は陶然としてそれは嬉しそうに語っている。不気味と思って然りだが、何故かそうは感じなかった。いじらしい、と慈しむような心地さえ覚える。
女は確かに美しい。一等好ましく思っていたと言われても不思議は無いだろう。

「無事にお勤めを果たすことが出来ました。偏にマダラ様のお陰でございます」
「そうか、今までご苦労だったな」
「勿体無いお言葉にございます」

じり、と蝋が溶ける音がする。夜が色付く囁きである。
目元が朱を指したように赤らんでいた。花弁を透かしたような肌は艶々と白い。その眦からは、一筋の涙が零れ落ちていた。
俺はそうすることが当たり前かのように、迷いなく雫を啜り取る。
眩々と、酔うほどに甘い。
唇に含んだ露は、春を思わせる花蜜のような味がした。


「――という夢を見たんだが」
「ああ、それなら庭の椿だね」

マダラが昨夜見た奇妙な夢を話し終えると、事も無げにイズナは言った。兄の話よりも枝毛の行方が大層気になるらしい、と不平に思い、マダラは半ば自棄のように話していたが、一応は聞いていたらしい。答えが返ってくるとは思わなかったので驚いた。また、その答えにも二度驚く。狸に騙されたか、狐につままれたようだと思っていたが、まさか花に化かされたとは。

「よく分かるな、お前も夢で見たのか」
「俺の所には来やしないよ。兄さん、毎年咲く度に綺麗だ綺麗だって子供の頃から喜んでただろう。余程嬉しかったんだろうね」

マダラは思わず庭の外に視線を転じ、暈ける焦点を合わせようと目を細める。確かに庭先には赤い花を咲かせる椿が植わっている。マダラが産まれる以前より植わっていた古木だが、今年はとうとう花を付けなかった。随分と前から大きな洞が開いており腐っていたようだったから迎えるべき寿命だったのだろう。
花鳥風月に頓着しないイズナに比べれば、マダラは花など風雅なものが存外好きだ。その折には消沈はしたが、だからと言って暇乞いをしに来たと言われても納得いかない。

「けどな……。花が暇乞いなんてするか」
「桜や梅なんかはしないさ、でも椿なら可笑しくはない」
「どういうことだ?」
「古椿は昔から化けるっていうじゃないか」
「ああ」

年を経た椿は化けると言う。これは確かに聞いたことのある話だった。思えば、元はマダラが聞いた話を教えたのだっただろうか。殊更伝承などに興味の無いイズナが自分で知り得たとは思えないので、恐らく経緯としてはそうだったのだろう。弟に言われるまで教えた本人が思い至らないとは、随分と不甲斐無くもある。

しかし、よくも聞いた話だけで判断が付くものだ。やはりイズナは一等賢い、などと凡そ見当違いな感慨にマダラは浸る。賢明な弟は呆れたような生ぬるい視線を向けている。

「それに、父様が縁起が悪いからって切ろうとした時に止めただろう。あれから兄さんに懐いてたからなあ」
「懐いてたのか」
「気付いてなかったの? あの花も不憫だね、どう見ても懐いてたよ」
「そう言われてもな……。花に懐かれたのは初めてだ」
「兄さんが通る度に葉っぱなんか艶々輝かせてさ、全く健気なものだよ。それにしても、兄さんは本当鈍いね」

溜息混じりにそう続け、イズナは細く笑う。花に懐かれているのを気付かんからといって謗られる道理は無い筈なのだが、平生から思い当たる節があるのでマダラは唸るだけで何も言えない。反して弟はこういった方面に兎角鋭い。この場合の分はどう考えても彼方にあった。
このままでは兄の沽券に関わる、そう感じ、マダラは話を逸らそうと画策する。だが、結局浮かんでいたのは最後に見た女の涙だった。季節が移ろい往くように静かに別れを告げる、そこには潔ささえある。必要以上に惜しむことも縋ることも無い。生まれ持った性分故かその辺りをよく弁えており、無様に散り残ることもなく引き際も美しい。思慮深く、良い花であった。

「また、寂しくなるな」
「そうだね……」

母が逝き、イズナ以外の兄弟が散り、先の秋には父が亡くなった。在りし日は賑やかだった屋敷も、気付けばもう随分と静かになってしまった。それでも戦の終わりは依然見えない。イズナも思うところがあったのか、僅かに目を伏せている。
しばらく記憶の澱みへ浸った後、イズナは庭を見遣るように顔を逸らす。目蓋を弛緩させ、遠くを望む目をしていた。

「兄さんは時々底無しに甘い。花でも女でもそうだが、余り無暗に期待を持たせない事だ。あの椿は殊勝なやつでよかったけど、今度からは十二分に気を付けるんだね。奴等は付け上がると厄介だから」
「……分かった」
「ほどほどに、上手くやってくれ」
「俺はお前ほど器用じゃないからな、ご忠告痛み入る」
「本当頼むよ。花との痴情の縺れで仲裁なんて、俺は嫌だからね」
「嗚呼分かってるよ」

念押しするように言う弟の小言をやり過ごしつつ、マダラは自室へと逃げ帰る。部屋の障子を開ける寸前、庭に佇む件の椿を振り返った。此処からの位置ではよく見えないのだが、後ろ側で大きく洞がくくれているのだ。マダラは改めてつくづくと見詰める。
一族の誇りである赤によく似た花が一等好きで、咲けばいつまでも眺めていられた。思えば、これほど華々しく咲き誇っているのは見たことが無い、と父もいつか言っていただろうか。マダラがその艶やかな深緋に精神を癒されていたように、花もまたマダラの礼賛に勇気付けられていたのだろう。何と健気な事か。いつ折れても可笑しくないという満身創痍でよくぞこれまで咲き続けてくれた、そう褒めてやりたい気持ちになる。見事なものだった。礼を言うのはこちらの方だろう。

舌の根が乾かぬ内にこのような事を思うのだから、花に懸想をされるような迂闊さをもっているやもしれん、と弟が案じるのも道理である。マダラは自嘲しながら障子を開ける。ふと気配を感じたので目を遣ると、夢の内で女が座っていた場所に一点の朱が落ちている。

見れば、一輪の落椿だった。赤々と色付いた花弁は艶めかしく、中心の葯は黄金とも見紛うほどに鮮やかである。
花弁から零れる様に、一筋の蜜が伝っていた。マダラはその花を両手で掬い上げ、静かに口付ける。蜜を吸う。唇に色が移るような、そんな心地がする。
嗚呼、眩々と甘い。
口に広がる味は、夢で味わった涙と同じ狂おしい味がした。

その椿は暫く床の間に飾られ、殺風景な部屋に彩を添えていた。


(20210207)


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