白磁器の夢

「ねえなまえ、夢の話をしようよ」

珍しい、と私はその言葉に応えるより先にまあるく目を見開いた。珍しいという曖昧で回りくどい表現より、まるで彼らしくない、最も似合わない、と言い切ってしまった方が適当なようにも思えるくらいだった。誰よりも峻烈に現実を睨み続けていた他でもないイズナが、だからである。
急にどうしたのだろう、それこそ白昼夢でも見ているかのようだ。

「夢って、どっちの夢のこと?」
「見る方じゃなくて、願う方」

歌うようにイズナは続ける。随分と機嫌が良いのか軽やかな声だった。その唇にはやわらかな温度によく似合う、淡い笑みを湛えている。仄暗い部屋へ一筋差し込んだ光の水溜りのような、思わずそっと触れてしまいたくなる酷く繊細な笑顔だった。

「はい、なまえからどうぞ」
「私から? 言い出したのはイズナなのに」
「だって、こういうのは俺よりお前の方が得意だろう」
「それ、夢見がちって言いたいの?」

私が態とらしく不満げに頬を膨らませてみると、イズナは苦笑を滲ませた。そう拗ねるなよ、と揶揄うように上目で見遣る。

「そんなんだから子供扱いされるんだよ。別に他意は無いって」
「本当? でも、イズナったらそう言って昔からすぐに揶揄うんだから」
「信用無いなあ」
「仕方無いよ、だって意地悪なんだもの。それに言っても笑わない?」
「笑わないよ」

本当かなあ、と私はしつこく勿体振るが、呆れるでもなく怒るでもなく、イズナは優しく目を細めていた。もしかすると眠いのかもしれない。膝に預けられた頭をさらさらと撫でると、心地良さそうに屈託無く目蓋を閉じる。まるで猫のようだ、とは気紛れな恋人を指して私が常々感じている事ではあるが、今はまさに黒猫ここに極まれり。悪戯に喉を擽ると、流石に怒られてしまったけれど。

「だけど、そんなこと急に言われても困るよ」
「どうして?」
「夢なんて、とっくに忘れちゃったから」

言った通り、久しく夢などを考えた事はなかったように思う。その言葉に文字通り夢を見られるのは、多分子供の特権なのだろうから。
まだ私が少女と呼べうる時分だった頃、夢というものはなにかふわふわとした幸福な気持ちを象徴するような、琥珀糖の響きだった。結晶のしゃりしゃりとした舌触りは切ない擽ったさに似ているし、ただ押し付けがましいほどに綺麗で甘い。そんな、優しいだけのきらきらとした夢物語を飽きもせずに毎夜思い描いていた。

だが、あの砂糖菓子を有難がって食べていたのは幼い時分のほんの一瞬だけである。少し大人になれば知ってしまうのだ。あれは単に綺麗な姿を愛でるだけが身上のものであり、実際食べるには不向きなものだ、と。味も砂糖を固めただけなのだから、のっぺりと甘いだけで胸焼けする。食感も固いのか柔らかいのか曖昧で、何だか据わりが悪い。だから、そのうち嫌になってしまった。
多くの人間が大人になって夢という不確かなものを追い掛ける事がどれほど馬鹿らしいかと悟るように、今の私にもそれは苦いだけの捨て切れなかった未練でしか無い。思い出すだけ、考えるだけで嫌になる。出来れば子供の頃に見ていた夢など今更見たくもない。夢が見られなくなった時、抱いていた無邪気な夢に後ろめたさや諦めの苦さを覚えて、人は初めて大人になるのだから。

「私はいいじゃない、それよりイズナの夢を教えてよ。話そうって言ったんだから、何かあるんでしょ?」
「そりゃあね。でもなまえのを先に聞きたかったなあ」
「そんなに期待されても」

眉尻を下げて私は誤魔化すように笑う。夢と言っていいのかすら分からない、諦めきれなかった澱みの祈りは掬い切れずに胸の底に沈んでいた。だが、それを言ってしまうときっと私は子供のように泣いてしまうだろう。
今日はこんなに空が晴れているのだから、イズナも具合が良く沢山話せているのだから、今はせめて笑っていたいのだ。

「折角だから当ててあげる。そうねえ、うちはの繁栄? それとも千手を根絶やしにする?」
「ふふ、それも悪くはないね」
「なあに、違うの?」
「違う訳じゃないけど、それの先とでも言えばいいのか」

先の話、とは本当に意外だった。イズナは昔から一族の為と先陣を切り戦い続けていたが、その戦いの先にある平和については言及する事を避けているような節があったのだ。不確かで半透明な空想など抱えるだけ空しいから、そうも言っていた。夢に囚われ、却って先に進むことが恐ろしくなるからでもあるのだろう。他でもない彼の兄がそうであるかのように。

そんなイズナが急に先の夢を見ているのだと言う。私は俄かに空恐ろしくなってしまった。透き通るように淡くなってしまった頬が瞬きするうちに消えてしまいそうな錯覚に襲われ、堪らずに手を重ね合わせる。イズナはほんの少し擽ったそうに眉を寄せた後、そのまま頬ずりをした。
空気をたっぷりと含んだやわらかい産毛が掌を撫で、ささやかな体温が微かに伝わる。その感覚は余りに儚い。今この瞬間確かに触れ合っているのに、却って彼が酷く遠い彼方にいる心地がしてならなかった。縋るように握った片方の手に思わず力を込めてしまう。

「イズナ、」
「……うん、おいでなまえ」

イズナがそっと膝から頭を下ろし、促すように腕を広げる。余りにその腕が細くなってしまっていたから、以前のようにうっかり体重を掛けると折れてしまいそうで怖かった。それを認める事すらも堪らなく恐ろしい。結局私は寄り添うように横になり、手を繋ぎ合わせる事しか出来ずにいる。

抱き寄せる手の温度が慟哭したくなるほどに優しく、そして遠い。人間の知覚では音の記憶が一番先に薄れ、最後に残っているのは匂いの記憶だと聞く。イズナは忍であるから当たり前だが何の匂いもしない、ならば私に残るのは何なのだろう。声を喪った言葉の抜け殻だろうか。――触覚はどうなのだろう。この愛おしい、あたたかさの記憶は。

「旅をしたい。色んな世界を見て回って、色んな景色を眺めて美味しいものを食べて……」
「うん」
「それで、白い塔を見つけに行く」
「とう?」

どこか穏やかで当たり障りの無い言葉の連なりに、急に思いがけない単語が出てきたので驚いた。イズナは細く笑い、そうだよ、と続ける。塔と聞くと社寺に立つ鈍重で厳めしい宗教建築がふと思い浮かんだが、曰くその塔ではないらしい。

「塔ってどんな?」
「子供の頃に聞いた筈の話なんだ、どこかの昔話か……。もしかしたら、兄さんが考えた作り話だったかもしれないけど、」

囁くような声に耳を澄ませる。彼が呟く低音が身体の深くを伝って響き、どこか秘密めいた異国の物語を聞いている気分だった。

「何も無い見渡す限りの草原の真ん中に、一本の塔が立ってるんだ。木なんかじゃない石か何かで出来ていていつ作られたかも分からないほど古いのに酷く頑丈で、天に届きそうなほど高くて。でも登る者も降りてくる者も誰もいない、誰からも見捨てられてしまった廃墟のような、そんな場所だよ」

こう、真っ直ぐに丸い形、と轆轤を回すようにイズナの手が空を泳ぐ。私はぼんやりと想像を巡らせる。
青々とした草が波のように広がる平原、そこに聳える一本の光の筋のような気高い塔。まるで天を支えているような厳粛な面持ちで立っているが、孤独に耐えるひた向きな姿は寂しげでもある。辺りには鳥の鳴く声も無く、ただ風が渡る騒めきだけが響いている。
彼が思い描く空想は常の苛烈な気概に反して、思いの外ひそやかで静寂に満ちていた。うっすらと埃が降り積もった、静まり返った書庫の隅で忘れ去られた一冊の本を捲っているようでもある。今にも崩れてしまいそうな、日に焼けた古びた匂い。ぱらり、と頁を繰る音のようにイズナは話し続ける。

「その天辺まで登って、遠くの地平線まで眺めてみたい。日が昇るところも染まっていく空も、月が沈むのも星が上がっていくところも」
「どうして?」
「戦が続いているとそんな馬鹿なこと出来ないだろ。何も無いところに突っ立ってる高い建物なんて格好の的でしかない。そもそもそんなに高さのある場所、無意味に登ることすら危ないんだから」

白昼で見る夢のような話が急に現実味を帯びて帰ってきた。まるで高い塔から転げ落ちたようなその落差に私は思わず苦笑する。
確かにそうだろう、イズナがいくら天まで届くような高さまで駆け上がる術を持っていたところで、それが許される世ではなかった。そんな場所を探しに行くことすら許されなかったのだ。
この場所で、血塗られた一族に縛られたこの地獄の底で、イズナは死んでいった同胞の為に修羅にならざるを得なかった。聳える塔が立つほどの幾千の骨が積み上げられ、決して途絶ることのない鬼哭が轟々と鳴り響くからこそ。

「さっきから他人事みたいに聞いてるけど、お前も一緒に行くんだよ」
「いいの?」
「勿論、一人だと流石に退屈だ」

暇潰しに連れて行かれるとは、何とも彼らしい答えだった。気紛れに跳ねる髪に指を潜らせ、私は言う。

「私、きっとイズナみたいに上手く登れないよ。遅いからって置いていったりしない?」
「しないって。ちゃんと階段だってある、一緒にそれで登ればいい」
「途中で疲れて座り込んじゃうかも」
「その時は、俺がなまえを負ぶってあげる」

抱き寄せる腕が余りに細く儚いので、私はその言葉に応える術を持っていなかった。こんなに痩せた身体では、きっと私が抱えていく方が容易いのではないだろうか。

私は当て所もなく想像する。遥かな地平線まで見渡せる誰もいない平原に、イズナを背負って立つ自分の姿を。イズナはもうすっかり軽いから、まるで誂えたかのように私の背に行儀良く収まっている。その様子に私は酷く安堵する。此処にいれば大丈夫、何も悪い事なんて起きないよ。もうきっと誰にも傷付けられることは無いだろうから。

「ねえイズナ、私の夢はね、」

そう言いかけたところで優しく唇を塞がれる。溢れかけた言葉は飲み込まれてしまった。

「なあに、もう聞いてくれないの?」
「ふふ、自分勝手って怒るか?」
「ううん、イズナらしいよ」

この瞬間に目を閉じて眠ったのなら、同じ夢を見られるだろうか。滑らかに広がる草原に立つ乳白色の塔の下、イズナと二人きりで逃れてきた夢を。
仄暗い階段をどこまでも、どこまでも登っていく。いくら歩いたところで終わりはいつまでも見えない。延々と続いているような途方も無い高さだ。どれほど上り詰めても、きっと何処にも辿り着けない。ただ二人で、何処までも一緒に歩いていく。足がすり減り、骨が砕けてもただただ上り続ける。
私の背中に収まるイズナはもう眠ってしまったから、酷く静かだ。声も忘れ、ぬくもりさえも分からないような中で、ただ歩くという営みだけが私という輪郭になっていく。拡散した輪郭は曖昧になり、最後はイズナと溶け合って塔の一部になってしまうだろう。
それは果たして幸福なのか不幸なのか、考えても分からない。終わりがないと言う点では悪夢なのかもしれなかった。

「どこにあるんだろうね」
「きっと、うんと遠いところだろう、一生かかっても辿り着けないような。もしかすると辿り着けないかもしれないね」
「そうかも。でも、その方が探すのは楽しいよ」
「嗚呼、お前と二人なら」

それでも、そんな夢なら覚めないでほしいと私は願っていた。


(20210310)


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