花くたし

死んだらあの木の下に埋めてくれ。そう言われたときは、また馬鹿げた事を言い出したと思ったものだ。大して真面目に取り合いもせず、軽く鼻で笑い飛ばしたことを覚えている。取るに足らない事ばかりが意外なほどに胸には巣食えど、概して肝心な事ほど記憶の網目からほろほろと零れ落ちていく。
どうでもいい言葉を覚えているくらいなら、最期に何を言っていたのかくらい覚えていればいいものを。その辺りは単に己が薄情というべきなのかもしれないが。

件の言葉は、数日前に死んだ恋人が生前イズナへ言っていた戯言である。そう近い過去ではない、もう春霞のように朧げで輪郭は掠れてしまった在りし日の話だ。だが、イズナには何故か今でも意外なほど克明に思い起こすことが出来た。
透明な声、薄い白を刷いた春の空のように儚げな笑み、虹彩の奥に沈んだ名残の悲しみ。それら全てを掌でかざして一つひとつ視線で辿るように思い出せるのは、契機ともなるべきその花が今を盛りと咲いているからなのかもしれない。酷く幽かではあるが、曲がりなりとも花である以上は記憶の奥底に刻まれやすいという芳香も纏っているから、その為か。

イズナは誘われるように首を逸らし、庭に植えられた老木を見遣る。目蓋の奥に張り付くような淡い薄紅を眺めながら、遠い日の花を追憶していた。あの木、とは確かに桜の事ではあるが、視界に映るそれではない。流石に人様の庭先に死体を埋めろという常軌を逸した妄言を宣っていた訳ではないのだ。だが、今この瞬間に見えるものは何でもいい。
イズナには花などどれも同じに見える。桜という一つの種類のうちであれば、それは尚更だった。厳密には庭に植えられているのは早咲きの彼岸桜であり件の桜は枝垂れ桜であるので、花鳥風月を愛でる兄に言わせれば全くの別物だと呆れるだろう。だが、何も柳を見て桜を思い出している訳ではないのだから。――いや、柳の方が形は似ているのではないか、と至極どうでもいいことをイズナは一瞬思った。いくらなんでも余りに下らない。
花嵐の一陣が吹き、騒めくように光の粒が降り頻る。思わずイズナは目を眇めた。陽光が強いものだから、風に舞う色の薄い花弁が網膜を炙るようにきらきらと眩しいのだ。色が仄白いので春陽を反射し光って見える。全く、鬱陶しい。
彼女は花吹雪が一等好きだと言っていたか。思えば、あの言葉を呟いた日もちょうど花が終わる頃だった。

「阿呆らし」

溜息と共に罵倒が零れる。イズナにしてみれば本当に下らないと思うのだ。桜の木の下に植えてくれという彼女の言葉も、そして押し付けがましいほどに咲き誇る桜の花それ自体も。
イズナは花に興味が無い。中でも桜の花はどうにも好かなかった。春の霞がかかったような空と同じく、曖昧で眠気を誘うような惚けた色合いの所為だろう。初春に身を竦ませながらも咲く梅の方が、秘めたる気概を感じられてまだ幾分か好ましい。香りも良く、色合いも鮮やかで殊勝な花だ。
その点桜はいけない、いかにも腑抜けている。それでいて遠慮というものが無いほどに咲き乱れ、どこか押し付けがましい所がある。散り敷こうものなら儚げな見た目に反してぺったりとしつこく張り付き、茶色く朽ちていく様など見るに耐えない。毎年のことではあるが、イズナは庭先に散った桜の残骸を見る度にいつも眉を顰めていた。

外に向けていた視線を転じ、また元のように部屋の中へと戻す。明暗の差で眩む視界がじわじわと滲むように仄暗さに馴染んでいく。イズナが居座る部屋には一組の白い褥が敷かれている。その人は行儀良く寝かされ、部屋の静寂を崩す事もなく永いながい眠りについていた。顔には布が掛けられている為に今は伺えないが、まるで眠っているかのような穏やかな寝顔だった。言うに及ばず、他でもない恋人の屍である。
また計ったように死んだものだ、と悪態とも取れるような身勝手な八つ当たりをイズナは思う。大体、全く花の盛りでも無い頃に死んだのなら思い出しもなかったのだろうが、ちょうど今が爛漫の頃なのだから。

また、間の悪いことに血筋も良くない。うちは一族の葬送法は世間では珍しく火葬であるが、それはイズナや兄のマダラのように写輪眼を開眼しうる家系に限られた話だ。仮にその血統であれば当たり前のように荼毘に付されるのが習いであるので、そもそも桜の下に埋めるなどの選択肢は許されない。だが、彼女はそうではなかった、それだけの話である。
焼いた骨を埋めるというのも出来るのだろうが、彼女が望むには違うのだ。
骸が花の養分となり、美しい桜になれるかもしれないから、確かそう言っていた。腐乱し、どろどろと溶解した肉や脂が維管束へと吸い込まれていく。膿み腐りゆく屍体など悍ましく見るに耐えない。抗えない無常の理とは分かっていても、自分もそうなるのだと思うと酷く儚い心地がする。それを思えば死後に花となれると思えるのは如何にも夢見がちな女が好みそうではあった。せめてもの、ささやかな慰めとも言えるだろう。
――嗚呼。だが、矢張り下らない。

この骸はあと数刻もすれば慣例通りに座棺へと納められ、冷たい土の下に葬られることになっている。うちはの共同墓地には誰が好んだか知らないが幾本もの桜が植えられており、あの日に願った木ではないにしろ、ゆくゆくはまさしく望んだ通りに花となるのかもしれない。大層おめでたい事である。この先春が往く度に、その唇に似た色の花弁を見上げて偲べとでもいうのだろうか。つくづくタチの悪い冗談だ。

イズナは雪のように冷ややかな身体を抱き上げ、迷いもなく屋敷を抜け出す。目指すのは件の桜の下である。兄や、他の人間にでも見つかれば厄介だ、とにかく急がなければ。
景色が巡る。鬱蒼とした花影を通り過ぎていく。世間から覆い隠すように擁した女をイズナは見下ろした。薄暗い闇から白日に晒された顔は却って白々と冷たく見える。部屋の中ではそれほど気にならなかったが、施された死化粧が酷く嘘寒い。塗り固めた胡粉のような透明感の無い月白に唇の濃緋が軽々しく浮いていた。落ち着かない、無性に漫ろな気持ちになる。
桜の花は好かないが、淡く慎ましやかな桜唇は一等好きだった。それが今やべっとりと毒々しい笹紅が引かれて白粉くさい商売女のような風情になっており、滑稽な程にまるで似合っていないのだ。桜色の口紅などそもそも無いのかもしれないが、あの愛おしい色が蔑ろにされたような、なんとなく腹立たしいような苛立ちがどうしても拭えない。

辿り着いた桜の木の下に腰を下ろし、イズナは寄り掛かるように鈍重な幹へと身体を預ける。こうしていると、まるで二人で桜を眺めてでもいるようである。物言わぬ骸を抱いた今の状況が期せずして遠い昔とぴったりと重なり合ったものだから、思わずイズナは苦笑を漏らした。次いで、喉の隅で揺蕩っていた言葉も後を追うように溢れ出る。

「まさかお前が、俺より先に逝くなんてね」

返事などある訳が無い、あの時聞こえていた声はもう途絶えたのだから。後に遺るのは、ただ春の嵐がさやさやと枝を揺らす騒めきばかりである。

枝垂れ桜は柳が揺れる様とよく似ている、と不意に思う。そういえば、柳の枝に首を絡ませて死んだ女が化けて出る話があっただろうか。確か小さい頃に兄から聞いた怪談噺だ。揺れる柳葉が幽霊を想起させるからだと可愛げの無い事を尤もらしく思った気がするが、ならば枝垂れ桜でも死人を幻視すればよい。畢竟同じようなものだろう。
無論、周りには幽けき影すら、人影一つもありはしない。味気ないものだ。仮に居たところで胡乱な事を信じぬ己には見えはしないのだろうが。

一面の桜色。枝垂れる花々が視界を染め上げ、映る全てが淡く色付いている。網膜に薄い花弁が貼り付いてしまったかのような具合である。
イズナは半ば無意識のうちに女の頬を見遣った。埒も無い期待などはしていなかった筈だが、例え見間違えでもその頬が色付いて見えたなら一抹の慰めにでもなったのだろうか。だが、矢張りその顔は相変わらず青褪めたままである。ようやく諦めがついたような、夢から醒めたような心地だった。

ふ、と散り落ちた一片が音も無くイズナの長い睫毛に乗る。鬱陶しげに払い除けようとしたが、直前で思い直し指先で摘み上げた。そして、紅を指すように赤い唇の上にそれを乗せる。薄紅越しに朱色が浮き上がり、まるで紅潮した唇のような慎ましさだった。初めて触れ合った時の幼い唇も、このような恥じらう色をしていたか。
目蓋の裏で透き通る笑顔を思い描く。もう、酷く淡い。飽きる程眺めた筈なのに、曇天の桜のように薄ぼけてしまっていた。人の記憶など、所詮はかくも曖昧なものなのだ。

「兄さんに言わせれば、あんな縁起でもないこと言うから、か。……お前も本当に馬鹿だね」

柄にも無いと思いながら、イズナは最早届かぬ言葉を徒に呟く。
美しい花に憧れる位なら、老いて醜くなろうとも隣にいてほしかった。もしくは、ただ自分よりも一日だけ長く生きていてほしい。
考えたところで詮無い先を思い描くなど全く愚かである、そう公言して憚らなかったイズナであるが、結局は人並みに凡庸な幸せを願ってやまなかったのだ。彼女と重ねていく筈の浅い夢に焦がれていた。
だが、それももう終いである。

そう定められているかのように、イズナはただ当たり前に冷たい桜唇へと口付ける。僅かに露を孕んだ花弁はしっとりと潤い、どこか優しい。目を瞑りながら額を付け、微かに笑った。そのままイズナはゆっくりと冷ややかな頬を撫でさする。こうした時に決まって浮かべる、含羞の色を滲ませた笑みが堪らなく愛おしかったのだ。

イズナは桜に寄り添うように骸を横たえ、そのまま数歩後ろへと下がる。命を燃やし尽くすように咲き誇る桜と、その枝葉に抱かれて眠るような愛しい女の骸を暫し眺めていた。好きではないが、確かに美しい光景だとはイズナも思う。季節が巡る度に美しい花と共に故人を偲ぶのも確かに一興ではあるのだろう。――だが、

「そんなの、俺の柄じゃないだろう」

使い慣れた印を結び、ありったけのチャクラを一気に練り上げる。喉に留まる灼熱感。慟哭のように湧き上がる高揚感。生木すら焼き払い、骨まで灰になる業火をイズナは惜しげもなく吐き出した。凄まじい火勢で桜ごと骸を覆い尽くす。狂おしいまでの紅蓮。ひりつく熱気が頬を刺す。
ざあ、と。花散らしの風が吹き抜けた。
花吹雪と共に火の粉が舞い散る。全てが燃える火色に包まれる。白い喪に服すような幾億の花々が、なまめかしい赤に轟々と染まっていく。千の花弁が灰塵と成り果てる。
生きた木が燃える青臭く焦げた臭い、肉と脂が爆ぜる甘い悪臭。
凄絶なほど鮮やかで毒々しい、どこまでも美しい絶景である。

「悪く思うなよ。花ごときにくれてやる気は更々無いんだ」

誰ともなくイズナは呟き、唇に薄い笑みを含ませる。まるで観桜に興じてでもいるかのように、愛しい女と女が愛した花が燃え落ちていく様をいつまでも眺めていた。


(20210329)


back