待つ花来たりて

盆にも終ぞ帰って来なかった待ち人が、花になって帰ってきた。
真珠の夜露で薄化粧した墓に寄り添うように咲き零れた赤い花を眺めていると、不意にそんな言葉が頭を過った。仮に件の待ち人が聞けば烈火のごとく怒るだろう、私は呆れて一人自嘲する。
花のかんばせという美辞麗句が誂えた様に似合う人だったが、それを言うと決まって機嫌が悪くなっていた。――芍薬、牡丹、百合、柳、撫子、雨に濡れた花海棠。どれほど美しい花を冠されたところで彼にとっては煩わしい野次でしかなく、ある種の侮蔑だと思っていたのだから。人を陰間か何かだとでも思ってるのか、苛立ちを隠そうともせず悪態を吐いていたことを思い出す。ぽってりと花弁のように甘やかな唇が紡ぐ言葉はそのやわらかさには似合わずいつだって鋭く研がれた棘が散りばめられている。薔薇に棘あり、飽きもせず嫌がらせのような言葉がまた思い浮かんだ。
――否、嫌がらせのような、ではなく紛う事なく嫌がらせの類なのだろう。多分、私は怒っているのだ。私を置いて逝ったあの人に、振り返りもせず逝ってしまった恋人に。盆に戻ってくるどころか夢にも現れてくれやしない、そんな薄情な男に憤っているのだった。
私は相変わらず墓の前に座り込み、恨めしげに睨め付ける。糸のようにほっそりと伸ばした雄蕊と雌蕊が散り敷かれた露の所為で大儀そうに揺れている。細帯が絡み合うように開いた花弁はいよいよ紅い。

「曼珠沙華、だっけ」

死人花、幽霊花、そんな異名もあると聞いた覚えがある。墓に寄り添って咲く姿は全く名は体を表すとはこのことだろう。もしかすると、文字通り湧いて出てきた件の花は本当に故人が生まれ変わった姿なのではないだろうか。由緒が分からないのだから、荒唐無稽といえど尤もらしく理由付ける方が据わりが良い。なんとも勝手なものだ。だが、懸命に咲く美しい花を不吉なものだとして忌むのが人間なのだから多少の都合の良さは今更として許してほしいところである。

それにしても、一体どこから湧いてきたのだろう。朝方は見かけなかった筈だが、まさか雨後の筍の如く半日の間にするすると生えてきた訳でもあるまい。確かこの花は実を結ばないのではなかったか。詳しくは知らないが、球根で数を増やす種なのだという。近くに群生した株から、というのならば分からないでもないが庭には一本も――そもそも庭木も花も植えていない野放図な荒れ地のような土地で到底庭と呼べる代物でもないのだが――咲いてはいない。彼岸に連れて行くとも恐れられる強毒性の有毒植物であるが、その毒は特に件の球根に有しているそうだ。そう考えると、動物か鳥が態々危険を冒してまで運んできたとも思えない。ただ、何か間違ったように繁茂する緑の中で染みのように目立つ補色を今まで見たことがない訳ではないのだから、稀にある事なのだろう。

美しい花だ、まるで燃え盛る火焔のような。物怖じせず真っ直ぐに背を伸ばし、口さがない噂に臆する様子も無く気高く咲き誇る。毒々しいまでに艶やかな炎の赤を体現するように秘めた激しい毒。本来ならば寄り添ってくれる葉を顧みる事さえせず、たった一人で咲き続ける気概さえ持っている。どこまでも苛烈で直向きな姿に、どうしても居なくなってしまった人を重ねて偲びたくなってしまう。花とて身に覚えなくかこつけられて困るだろうに。

イズナが死んで七年ほど経った。人ひとりをすっかり忘れるには短い月日だが、黙然と沈滞するには余りに長い期間だったのだろう。イズナの死後私達の生活は文字通り一変した。先祖代々子々孫々までいがみ合うと信じて疑わなかった仇敵と手を取り合い、怨嗟など無かったようにうすら寒い平和を嘯くようになった。一朝一夕で折り合いの付く問題では無かったが、目先の忙しさは腹の底の泥をひとときでも忘れさせてくれた。
絶望や憤怒に憑りつかれるのは体力がいる。世間の流れに棹さすように、いつまでも過去の水底に蹲っている余裕などまるで無かった。足早に過ぎていく月日に浚われていただけだが、私もそれなりに上手く生きてきただろうと自負はしている。流されてしまえば存外楽だった。

ただ、そうではない人間も勿論いる。それがイズナの唯一の肉親であるマダラだった。彼もこの里に馴染もうと努力したのだろう、此処で生きていこうと必死で藻掻いていた。飼い慣らされていく恐怖に煩悶し懊悩していた。そして、それに酷く疲れてしまった。絶望することも苦悶することにも疲れ果てたのだろう、だから彼は諦めたのだ。そういう状態を人は狂ってしまったというのかもしれない。

だが、私からすれば皆の方が余程狂気の沙汰のように思えてならない。
ふとした拍子に、どうして、と消えない耳鳴りのように反響する。
何故、腹を裂かれたイズナを見捨てて投降した彼の部下がのうのうと千手の人間と笑い合っているのだろう。お前を何度も助けてくれたのは誰か覚えてないのだろうか。
何故、マダラを戦狂いなどと思えるのだろう。あの人が血涙を流して歩んできた荊棘が見えなかったのだろうか。どうして好き好んで弟の目を繰り抜いたなどと謗れるのだろう。
みんな忘れたふりをしているだけなのだろうか。なにもかも忘れてしまったのだろうか。
過去を忘れて、死者は生者に都合良く扱われる記憶の装飾に過ぎないのだろうか。
どうして私は仇を討つ事も無く、利口な面を被って彼を殺した張本人と向かい合うことが出来るのだろう。こんな薄情者に、今更イズナが会いに来てくれる筈がないと分かっているのに。
何故、なぜ、どうして。一つとして答えが返ってくる事は無く、ただ言葉の抜け殻ばかりが灰のように深々と降り積もる。

月が明るい夜だ。青い光の薄膜を一枚いちまい丁寧に折り重ねていくような静けさに満ちている。イズナが死んだ日も、こんな孤独な月だっただろうか。
世界全体が青褪めているのに、いつも一点だけが鮮やかに赤い。あの夜はイズナの命そのもののような喀血。今日は彼が生まれ変わったような彼岸花。染み込んだ残響のように網膜に焼き付いて離れない。赤い景色は記憶の底に澱のように堆積する。鱗葉を剥ぐように何もかもを忘れて生まれ変われたらどれほど楽だろう。

逢いたい。会いたくて堪らないが、それを認めてしまうと本当にイズナが死んでしまう気がして恐ろしい。私の記憶の中でもきっと死んでしまう、都合良く愛おしむだけの過去になってしまいそうで怖いのだ。
渾々と沸く寂寥ばかりが夜のしじまのように胸の内を冷やしていく。それでも涙などは出なかった。思えばもう随分と泣いていない。マダラが里を抜けたと聞いた時さえ、嗚呼やっぱりと思っただけだった。羨ましくさえあった。
――また、置いていかれた。置いていかれてしまった。
里を捨てたマダラは私は全うに幸せになれという。イズナの兄である彼でさえ、残酷にも私にそう告げた。
イズナは、私と一緒に生きようとはしてくれなかった。一度マダラに打ち明けられたが、どうにも千手であれば治せなくはなかった傷だったらしい。だが力尽きて平伏して生きるよりかは、一族の誇りや無念と心中する道をイズナ自身が選んだのだ。
それでいて私には心中を望むことさえ許してはくれなかった。
酷いひどい、どうして生きろなんて言ったの。どうしてそんな酷い事を言ったの。
本当は後を追いたかった。叶うなら、イズナの焔に焼かれて死にたかった。
忘れようとして一瞬でも歩いていこうとした私を責め苛んでほしい。夢で魘され、呪詛を吐かれる方が余程良かった。呪われて、美しいだけの死者に傅いていたい。夢に出てきてすらくれないのだから謝る事すら許されない。
どうして。

疑問を覚える事にも疲れてきた。もう、何もかもがどうでもよかった。死に至らしめるのは絶望ではなく諦念なのではないだろうか、どうしようもなく息をするのが億劫なのだ。
ふと、今この花の毒を喰らえば心中できるのだろうか、と埒も無い事を考える。出来心だった。
花の毒の致死量などは知らない。強い毒があるとはいうが、果たして本当に人が死ねるくらいなのだろうか。呆気ない程に人は容易く死ぬが、時として存外図太くしぶとい。そのために調薬された劇物でもなく自然の偶然の産物なのだから、単に無駄に苦しむだけという惨めな結果になるかもしれない。
だから、これは賭けなのだ。生き残ってしまうなら、それはそれで仕方ないのだろう。それを飲み込んで生きていく、そういう采配なのだと漸く受け入れることが出来る。試してみるのもきっと悪くはない。
辿り着けるのは彼岸か、地獄か天上か。それとも何も変わらないままの、予定調和のように怒りや恨みが埋没していく日常か。
イズナは何処にいるのだろう。もう、どこにもいないのかもしれない。繰り返し反芻した声も幾ら耳を澄ましたところで途切れ途切れに朧げで、顔すら塗り潰されたように真白く曖昧だった。私の中からも、すっかり彼はいなくなってしまったのだろうか。

根元を掘る爪先にしっとりと潤った土が入り込む。そこから冷たい夜の名残が染みてくる、身体の底に重く静寂が凝る。井戸から汲んだ水面には残月が落ちている。溶けた仄白い月で濯ぐように黙々と鱗茎の泥を落としていると、まるで夕餉に使う芋でも洗っている気分になって無性に可笑しかった。激情のままに喰らえば多少は様になったのかも知れないが、死ぬかもしれないと分かっていても、流石に土を喰らうのは気持ちが悪い。そのくらい特別な覚悟もなく、日常と地続きのごく当たり前の選択だった。

いつの間にか明けかけた東の空が色付いていく。明滅した視界が赤く、紅く染まる。嚥下した花の色に身の内から狂おしく燃えていく。嗚呼、なんだか酷く身体が軽い。
――花と人間の情死、それが叶うならきっと得難く幸福だろう。


(20210928)


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