マジックアワー

暮れなずむ夕暮れ時の西の空、風になびく藤の花、ライラックブッポウソウの胸毛、瑞々しい葡萄、夢のようなアメジスト、菫の繊細な花びら。
何でもいいが、出来れば美しいものがいい。教え子であるコハルに紫色で思いつくものは何かと問い、返ってきたもの達である。
同じ分類が二つあるのは据わりが悪い。一つにまとめて花でいいだろうと扉間は思ったが、抽象的な問いに対する返答としては寧ろ抒情的である方が似合いだとも感じられた。少女から聞いたそのままに、扉間の薄い唇には似合わない言葉たちを反芻すると、甘いからかいなのか純粋な嬉しさなのか、酷く愉快そうに女は笑う。濁りのない水のように透き通る声である。

「素敵。なんだか、響きそのものがきらきらしてるみたいな言葉です」
「そうか。師匠がいいんだろう」

謙遜とも皮肉とも取れない返事を扉間は言う。照れなのだと認めるのは癪である。女の性格上揶揄うような真似はしないだろうとは分かってはいたから、先の疑りも所詮は八つ当たりである。子供じみている、と扉間は他人事のように自身に呆れた。

「紫色って不思議な色だと思いませんか、なんだか神秘的で。そう、境界の色だと思うんです」

色という単なる光の反射に何かしらの特別な意味を持たせ、自らの心象と結びつけることはどこの社会でも見られることだ。さして珍しい訳でも奇矯な考えでもない。実際、千手で用いられる礼装の色とて決められており、それにも何某かの由来があったように思う。詳しいことは覚えてはいないが。
ただ、その行いの是非はどうあれ、扉間にとって色とはただ眼が捉えうる可視光に過ぎない。否定する気もなかったが、敢えて肯定する気にもなれなかった。

事の発端は女が数日前に話した話に由来する。透明度の高い海では深海になるにつれ、海水は青みを増していく。数十メートル潜ったところでは淡い紫色の世界が広がっているらしい。まるで見てきたように話す女の話に多少なりとも興味は沸いた。だが、真偽を確かめるには内陸に位置する木の葉からわざわざ海へ、しかも透明度が高いという場所を選んでいく必要がある。そんな余裕など扉間には勿論有りはしない。ある種の夢見がちな御伽噺でも聞かされた心地だった。ただ、美しいのだろうとは純粋に思ったのだ。
女は何気なく言ったようだったが、単に紫と表現したことが心残りであったらしい。何か適当な比喩は無いものかと随分頭を捻っていたようだが、結局は観念したと白旗を挙げた。もっと上手くお伝えしたい、と残念がる様子はいじらしくはあった。教示が欲しいというので了としたと扉間は頷き、素直に聞いてきた結果というのが一連の経緯である。

「先生ご自身は何かありませんか、紫色で綺麗なもの」
「お前の鱗はどうだ」
「えっ、これがですか?」

虚を突かれたように女は目を丸め、己の下肢に視線を転じる。肢という文字で足を表すならば、正しくはないのかもしれない。女の下半身は人間の形ではなく、流れるような曲線を描いた魚のそれである。

「水中だと青みを帯びる所為だろうな、たまに紫がかって見える」
「そう、ですか」

視線を反らした女はしばらくゆらゆらと水中を揺蕩うように尾をくねらせていたが、それきり気恥ずかしそうに眉を下げた。桜貝のような透明感のある淡い赤。あるいは薄い珊瑚の色。それが光の反射を受け、紫色に光っていた。

木の葉で人魚といえば、どちらかといえば魚に対して比重が置かれた人面の怪魚である。そのため、単に珍しい生き物くらいだろうという認識だったのだ。深海の魚は奇怪な見た目をしているものが多くいると聞く。一説によれば、伝承の起源はリュウグウノツカイという珍魚であるとか。それに近しいサンプルの一つにでもなればいいと考えていた。そもそも魚の延長として考えなければ、人魚の肉を食べて不老不死となった尼の伝説など巷間に流布はしないだろう。
先日水の国からの献上品替わりで宛がわれたのだが、人面魚体の化け物かと思えば殺すも忍びない美しい女――半分ではあるが――だったのだから、兄共々扉間は困惑した。黒目がちの大きな目は潤いを湛え、淡い色の毛髪は流水のように瑞々しい。ホルマリン漬けにするには余りにも人間である。解剖するにも流石に無抵抗で理知的とも思える眼差しを向けられたら気も削がれよう。結局半ば押し付けられる形で扉間が管理する研究所で受け持つことになり、一被検体となったのだった。
被検体とはいっても、多少の血液を採取し、鱗の遺伝子配列を確認した程度でそれ以上の何かをする気にはなれなかった。その被検体は何故か扉間に懐いていたし、合理的で冷徹とも評される扉間とて一介の人間であり男である。美しく無垢なものを好ましいと思う感性は当たり前に持ち合わせていた。望むなら海に戻るか、と一応提案はしたが、泳ぎがそれほど上手くはないという胡乱な主張をそのまま受け入れ、狭くもない一室を潰したままで今に至る。
世の中には、こういった美しかったり珍しい生き物を好んで嗜虐する人間もいるのだと聞く。およそ理性があるとも思えない、頭の痛くなる話だ。無論のこと、痛めつけたり、弄んだりする気など扉間には毛頭ない。だが、愛玩と呼ばれればそうなのだろう。囲い、世間から隠すとて所詮はエゴである。一人間として向き合うのならば真っ当な精神ではないのかもしれない。ただ、やはり異質な存在ではあるので、正しい向き合い方を扉間は未だ掴み切れずにいる。

「先生」
「……なんだ」

女は扉間を先生と呼ぶ。一度部屋に忍び込んだ阿呆の教え子がそう言っていたのを聞き、何故か酷く気に入ったらしい。何の教えを授けている訳でもないのだから不適当だと扉間は呆れたが、存外強情なのか聞く耳を持たない。以来、仕方が無いので放っている。
とはいえ、怪しい趣味だと思われてはかなわんと内心憂いてはいるのだが。

「私もひとつ思いつきましたよ」
「ほう」

水槽の淵に頭を預け、眠たげな眼差しを向けている。蕩けるような視線である。扉間と目が合うと、女は花が綻ぶように破顔した。

「先生の目」
「可笑しなことを、俺の目は赤いだろう」
「私の鱗と一緒です」

白い指先が、花を毟るように薄い鱗を一枚剥ぎ取る。灯りに透かせば螺鈿細工が施されているかのようにきらきらと瞬き、大層美しい。

「水の青い光が反射して、時々夕暮れのような色になるんですよ。それが、すごく綺麗」


しばらく前から女は寝ている時間が長くなった。扉間が訪ねると目を覚ますが、すぐにうつらうつらと舟を漕ぎ出す。長時間起きていられないらしい。元々小食だった食も細くなった。明らかに衰弱している。
医者に見せるにしても魚のことなど分からんという。獣医に見せたところで人間は専門外である。人体に関して多少の知識があるだけの扉間には打つ手がなかった。一応医療忍術は施したが、あれは外傷を治すのがせいぜいで、枯渇した生命力をどうこう出来るものではない。結局くすんでしまった鱗の輝きさえ戻せなかった。
水が合わないのではないか。そう言ったのは元は沿岸に位置する村に住んでいた老婆だった。人魚ならば海水だろう、と。海の魚は淡水では生きられまい。体中の細胞に水分が入り込み、ぶくぶくと膨れていく。そして悶え苦しみ死んでいくのだ。それゆえの衰弱ではないか。
早速塩分濃度を変えた水で水槽を満たしたが、どうにも手遅れのようである。寿命なのだ、と女は言っていた。

外つ国の人魚はそれは美しいものがいるらしい。女もそうした類かと思っていた。人でも魚でもない境界の生き物。どちらでもない神妙なるもの。だが、それは単なる勘違いであり、ある種の欺瞞に過ぎなかった。

「海水の方が多少はマシだったかもしれませんけど、その程度なんです。元々、長くは生きられないって分かっていました」
「ならば何故、海に帰ることを拒んだ」
「帰りたい場所なんかじゃ、ありませんから」

女は、元は普通の少女だった。霧隠れには魚と交わったような人間がいるが、それの末裔でもなんでもなければ関係すらない。焼かれた村の捕虜として捉えられ、人体実験の末にこうした姿に変わり果てたというのが真相である。煌びやかな鱗は気紛れな人間の残虐な所業であり、女にとって忌むべきものであっただろう。だが、扉間も悍しい経緯を今更信じたくはなかったし、女としても隠していたい事実だった。御伽噺の一説に出てくるような、夢物語の最期を迎えることを望んでいた。今更人間に戻ることなど叶わないのだから、ならばせめて、と。
それを哀れというべきか、愚かというべきなのか。正しいのかは定かではなかったが、自棄にならざるを得なかった境遇で至った選択の一つとしては理解は出来よう。此処では生きられないが、それでも此処にいたい、生きたいと願ったのだ。今や半分は水生生物の特徴を持つ彼女にとって、扉間の体温は表皮が焼けるほどの高温である。それでも構わず胸に頭を預けながら、穏やかに目蓋を弛緩させていた。
そうっと。扉間の手に半透明な手が重ねられる。真珠のような肌はいよいよ白い。

「知っていますか。人魚の多くは人間に恋をするものなんだって」
「……そうか」
「それで、叶わないのが常なんですって。昔読んでもらった絵本でもそうだった」

胸の辺りにぬるい染みが広がっていく。人魚の姫は泡と消えたが、この女もそうなるのだろうか。何も遺らず、ただ爪痕だけを残して。

「叶わない、というのが、どういう状況を指すのかは知らんが。死に別れるということか」
「どうでしょう。結ばれないまま、というのではないですか」
「なるほど、ならばお前は矢張り人魚ではないのだろうな」
「……意地悪な言い方」

望んだ最期を取り上げるのは、少々意地が悪いのだろう。悪趣味ともいえる。それでも、泣き笑いのように微笑んだ顔は酷く幸福そうだった。
ぽとり、と溢れた雫が水面を打ち波紋を描く音がする。最期に触れた冷たい唇は、菫色の海のような深い海の味がした。

(20220120)


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