ニライカナイ

「海の向こうには、理想郷があるそうですよ」

数歩先を歩いていた鬼鮫が、振り返ることも無くそう言った。その小さな目は、水平線の遠くを見つめているように細められている。海の似合う男だ。無駄なものを削り取ったような横顔が、冷たい波風に良く映える。

「どうしたんですか、いきなり」
「いいえ、急に思い出したもので。貴方、確かこういった話お好きでしょう」
「まあ、そうですけど……」

唐突に言い放たれた言葉に少し狼狽えた。彼は暁の中では饒舌な方に入るから、話を振られること自体は割とある。けれど、この手の話が話題に上るのは初めての事だ。御伽噺など好まないのだろう、当たり前のようにそう思っていた。馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑い飛ばす姿が容易に想像できてしまう。

「鬼鮫さん、そういう話もご存知なんですね。意外です」
「知ってぐらいはいますよ、あまり興味はありませんがね」
「あれですよね、常世の国とかでしたっけ」
「おや、流石にご存知でしたか」

足を止めて、彼と同じように水平線の彼方を眺める。冬の海は少し荒れていて、寒々しい景色だった。じっと見つめていると、深い深い海の底が透けてくるような不思議な感覚が網膜によぎる。眼球の奥がくすぐったい。私は思わず目をこすった。足元から続く足跡は随分と長く伸びている。少し疲れているのだろう。
隣に立っている鬼鮫はずっと遠くの海を見つめていた。ふと見上げれば、その目元に透き通った哀愁が滲んでいるように見えた。――驚いた。彼が感情を面に出すのは珍しいことだから。しばらく眺めているとさすがに居心地が悪かったのか、こちらに向き直った。小さな瞳孔は、ひんやりとした冬の海の灰色に染まっている。

「鬼鮫さんは海がお好きですか」
「……別に構いませんが、なんだか悪意を感じますねェ」
「そんなつもりじゃないですよ、意地が悪いなあ」

底意地の悪そうな目に肩を竦める。潮風に紛れるように鬼鮫は笑った。

「嫌いじゃあないですね、私の故郷にもありましたし」
「ここと同じようなところですか?」
「いえ、もっと荒れていて寂しい場所でしたよ」

そう言って、鬼鮫はまた彼方の海へと視線を戻した。彼は独特の歪みを持つ声をしているが、不思議とその声は潮騒に馴染む。海鳴りが響く中で、両手で掬い上げられたようによく通って聞こえた。

「北の寒村でしたから、いつもくすんだ陰気な色をしていた海でした。海流が特別に速いところでね。沖に船が出ることも出来ないもんですから、一面の鈍色が何処までも続いているような、そんな景色です」
「……それ、好きになる要素なさそうなんですけど」
「話は最後までお聞きなさい。さっき言ったように決して綺麗な海ではないんですが、一年で一日だけ蜃気楼が見えることがあったんです」
「蜃気楼、ですか? 砂隠れとかでよく見られる?」
「ええ、そうです。いつもは厚い雲で覆われた空がその日だけは晴れていて、眩しいほど海は明るい。時間さえ抜け落ちたように穏やかな海でした。その水平線と空が霞んでいる彼方に、ぽっかりと島が浮かんでいるように見えるんです」

鬼鮫はそこで口を噤んだ。言葉は丁寧に紡がれていたが、懐かしさや寂しさは一切混ざっていなかった。淡々とした様子は絶えず打ち寄せる波のようだった。

「昔の人は、蜃気楼を理想郷と見たのかもしれませんねェ」
「え?」

独り言のような呟きに顔を上げる。その目は変わらずに彼方を見つめていた。

「何でもありませんよ。少し話し過ぎましたかね、中年の思い出話など若いあなたには退屈でしたでしょう」
「いいえ、とんでもない。面白かったですよ」

そう短く答えてから、途方も無く続く海原を見つめた。遠くの空は晴れていて、雲間から差し込んだ光に茫洋と広がる海は水晶を砕いたように輝いていた。

「鬼鮫さんにとって、理想郷ってどんなところですか」
「妙なことを聞きますねェ」
「そうですか?」
「そういうのは若い方が語るもんです。デイダラか飛段にでもお聞きなさい」
「嫌ですよ。あの2人だときっと碌なこと言いませんし」
「今更何を仰るんだか、暁なんて碌でもない連中ばかりじゃあありませんか」
「まあ、そうですけどね」
「そうですよ。私も、貴方もね」

溜め息をついて苦笑を零す。笑って流した鬼鮫は、そろそろ行きましょう、と言うとゆっくりと歩き出した。そういえば、彼は何故いきなり足を止めたのだろう。彼自身はそれほど疲れてもいなさそうだったけれど。鬼鮫はああ見えて面倒見のいい人だから、気を遣ってくれたのだろうか。

砂浜を歩くたび、少しづつ足が埋もれていく。やわらかい夢の中を歩いているようで、この頼りない感覚が私は好きだった。揺ぎ無く固い地面より、どこまでも軽やかに果てなく続いているような気がした。

「先程の話ですが」
「はい?」
「理想郷とやらがあるのなら、行ってみたいとは思いますけどね」

多分、そんなところは無いのだろう。それがわかっているから、彼は蜃気楼が好きだったのだろう。この世を偽りばかりだと思う彼だからこそ。

「私も、鬼鮫さんと行ってみたいですよ」
「あなたのことだ、放っておいても勝手に着いてきそうですねェ」
「いいじゃないですか、旅は道連れです」
「まったく……、碌でもない上に物好きな人だ」

指先で崩れてしまうような、脆い大地を私達は歩いている。そっと海を振り返った。音も無いなめらかな海は、どこまでもどこまでも続いている。その遠い水平線の上に、ぽっかりと浮かぶ幻の島が見えた気がした。


(2012/10/17)


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